3-1
白銀が積もりに積もって、長く大きいシーツが一面に広がっているかのようだ。
雪は一向に治まる気配がない。冬は今がピークなのだ。寒さは沸騰した湯でさえも瞬時に凍らせてしま
『僕と一緒に、外へ行こう』
うという有り様だ。どれだけ上着を重ねても防ぐことはできない寒さは滲み込んでくる。
あのときフェリシアに言ったことは嘘ではない。嘘にするつもりはない。フェリシアへの礼はまだ果たせていないのだから、彼女の願いはかなえて上げなければ。
しかし可能なのか。フェリシアの『探しもの』を見つけるのには長期間かかりそうだし、外で過ごすとなると――。いつどこで寝泊まりするのか、食事は、着替えはどうすればよいのか。約束を守ろうとするカーティスの気持ちに衣食住の問題が立ちはだかる。それに。
父親が許可してくれるかどうか。
嘘で通そうかと思ったが、嘘が思いつかなかった。たとえ通ったとしても、もし真実が発覚した場合……カーティスは想像できない。
カーティスはフェリシアと外に行きたい。彼女は外のいろいろな世界をみてみたいと言った。それはカーティスも同じだ。外に出て市民の姿をみたこともないし、街にどのような建物が、どのような人々がいるのか。全く知らない。
だから自分も、自分の知らない世界を見てみたい。沢山のことを学びたい。だから今すぐにでも、フェリシアを連れて外の街へ行きたい。でも。
「何も知らない僕が、何をどうやってフェリシアを護ればいいんだろう」
外はきっと危険がいっぱいだ。最近の新聞では民家が強盗に襲われて死傷者が出たり、殺人犯が跋扈している路地もあり、国は監視を強めているらしい。安全な貴族の屋敷とは違い、一歩出ればどのような危険が待ち受けているかは分からないのだ。
長兄のように頭脳明晰で胸襟秀麗ではないし、次兄のように忠魂義胆で鎧袖一触というわけではない。目立った文も武もない自分は一体どういったやり方で、彼女を守り生きていけばよいのか。安直な気持ちでも外傷は受けなかった今までとは違うのだ。
でも。
『この森を出たい。外の景色を見てみたい。外を自分の足で歩いてみたい。耳で鼻で目で、今までにはなかった新しいものを感じ取りたい』
そう心の底から望んだ彼女との約束を等閑にはしたくない。する自分は、――嫌だ。
……僥倖で繋いでいってもいい。僕はフェリシアと一緒に。
***
「だっからぁ、もうちょっと向こうなんだって。きっもち悪い緑の看板の店でさ! ……話聴いてる?」
「えっ、あっすみません。あの、もう一度お願いできますか……」
「はぁ!? ふざけてんのあんた。あたしは一回言ったこと二度と言わない主義なんだよ!」
足元の樽を思い切り蹴られ、あまりの大きな音に首を竦める少女。ここは居酒屋の路地裏。しかし路地裏というわりには広い。使用済みの容器や残った酒が置かれており、しかも人通りがない。監視者の目もまだここには行き届いてないので、そういう奴には恰好のたまり場となっている。酒の瓶を傾けてラッパ呑みをしている奴もいるし、カードやコインのようなものを持ち込んで博奕している奴もいる。時々品なく大声で笑ったり奇声を上げたりするので、怖がりな少女は身体を震わせる。
「おぉい、アンナ。案内してやれよ、どーせこんなチビっこなんざにバレされやしないぜ!」
「こんなとこまで頑張って来たんだからなぁ? いいじゃねぇか」
顔中刺青を施した男に顔を覗き込まれて、少女は泣き出しそうに顔を歪めた。男はげへへ、と下品に嗤って少女に手を伸ばす。少女が避けようと身体を後ろにひっこめようとしたが、男は少女の腕をぐいと掴み、厚い胸に引き込んだ。
少女はか細く悲鳴を上げる。と。
「いってぇ! 何すんだ!」
男の腕の力が緩んだので、少女はチャンスとばかりに太い腕の中からすり抜けた。
慌てて見ると、男は頭を押さえて樽の上に腰かけた女を睨んだ。どうやら髪をひっぱられたらしい。
「アンナ、てめぇ!」
「やめなって。どうせそいつの処女でも奪おうってんだろ? 嫌がる女を押さえつけて犯すってやつほど見苦しいもんはないよ」
ギリッと男が激しい憎悪で女を殺そうとばかりに睨む。しかし周りの男の雰囲気が一瞬で変わったのを見て、しぶしぶ黙った。
アンナと呼ばれた女は樽から立ち上がる。その振動で豊満な胸が揺れる。下着のような服装で、長い脚がすらりと伸びている。どんな男でも悩殺されそうなその姿に、少女は思わず赤面して俯く。
「めんどくさいねぇ。でもここに居られるのも迷惑なんだよ。さっさと来な!」
アンナは周りの男から布の上着を拝借すると、長い黒髪を靡かせてその場から早足で歩きだす。少女も慌ててアンナの背を追った。
「ここだよ」
女としては随分背が高いアンナは、少女を見下げてぶっきらぼうに到着を告げた。
アンナが路地裏で言っていた通り、緑の剥げかけた看板が上がっている店だった。
何の店なんだろう、と店名を確認する前にアンナがさっさと店内に入ってしまったので、少女も同じく店に入った。
そこは、
「うわぁ、綺麗……!」
赤、黄、緑。その他数えきれないほどの色が互いに飾り合い、宝石よりも立派な輝きを放っていた。上品な装飾物は星のように瞬いている。店前の汚さからは想像もつかない派手さに、少女は感嘆の声を漏らした。
貴婦人用の服や靴、それから化粧品等々が並べてある。女の子なら興味深々な品に瞳を輝かせながら、首を上下左右に動かしていると「何キョロキョロしてんだよ」とアンナから軽く小突かれた。
アンナはいかにも興味ないといった体で、迷いなく前に進む。一歩歩くごとに腰まで垂らした黒髪が揺れる。踵が高い靴は、床を蹴る音を刻む。言動は全く女らしくないが、その容姿は女そのもので艶めかしい。
私にはないなぁ、こんな色っぽさ。
するとアンナは奥の階段を下り始めたので、少女も踏み外さないように精神を尖らせて下りていった。
階段を下りると不思議な音楽が流れていた。今まで物静かに過ごしていた少女には聴いたことが全くないものだった。
音楽に耳を傾けていると、何やら甘い喘ぎ声が聞こえてきた。どういう場面なのか分からず辺りを見回して少女はひっと息をのんだ。
――裸体に近い男女が抱き合い、接吻を交わしていたからである。
そんな少女の怯えが伝わったらしく、前を行くアンナは口元を持ち上げて妖艶に嗤った。
「ああ、あんたみたいなお子様には刺激が強いかもねぇ。迷子にならないようちゃんと着いてくるんだよ、お嬢ちゃん」
子ども扱いに少々腹が立ったが、事実そうなので反論はせずに黙ってアンナの後をついていく。
しばらく目のやり場に困ったが、誰も少女に絡んでくることはなかった。
まぁそれはそうよね。アンナさんみたいに出るとこ出てないし。
自分の胸を見て若干気落ちしたが、今回ばかりは良かったと思った。
「よう、旦那ぁ。いつものある? ヤサの奴らが切らしててうっさいからさ」
アンナは見当ての男を見つけたらしく、身を乗り出して男の頬に触れる。それだけの動作だが、かなりの刺激で少女には直視するのも難しい。
豊満な身体のアンナにせまられた男は機嫌良さそうに、アンナに声をかける。
「ああ、あるとも。しっかし毎回量が多いが大丈夫か?」
「大丈夫に決まってんだろ。あたしを誰だと思ってんだい? そこらのなよっちい女と一緒にするんじゃないよ」
「そうだな。んじゃお代を……」
手を伸ばした男の手をアンナは躊躇いもせず、舌を出して舐めた。そのまま男の身体に凭れかかり、腕を男の肩に回す。
「悪いが金は持ってきてないのさ。身体で払わせてもらうよ」
そう言うと男はアンナの唇を唇で塞いだ。舌を絡ませあっているようで、卑猥な音が響く。
男の手はアンナの胸に手を入れまさぐり始めた。淡い桃色の色気たっぷりの肌。そのままの勢いで服を下ろそうとした男の手をアンナが掴んで止めた。
「それ以上はまた今度だ。目の前に経験がないお嬢さんがいるだろ」
アンナが激しい接吻を交わしていたままの体勢で少女を見た。
自分がされていたわけではないが、終始を見ていた少女は真っ赤になっていた。
「そういうわけでこれはいただいておくよ」
アンナは男のシャツから袋に入った白い粉を取り出す。
男は咎めることはせず、アンナの髪を梳いた。
「全くアンナには敵わないなぁ。まぁいいや、また今度な!」
「ああ、また今度」
アンナは男の腕からさっと立ち上がると、来たときと同じように早足で歩き始めた。
な、慣れてるのね……。
少女はまだ刺激でくらくらする身体で、何とか階段を上った。
「ほら、これでいいだろ!」
アンナは男から手に入れた袋を放って少女に寄越した。
「あ、ありがとうございます……」
慌てて受け取った少女は袋の中の白い粉を見つめた。
「しっかしあんた、それ誰に頼まれたんだい? あんたがするような物じゃないだろ?」
「あ、えっと、お客さんに頼まれたんです」
「お客ぅ? あんた店なんかやってんの?」
アンナがぐいっと顔を近づけてきたので、少女は狼狽えながら答えた。
「は、はい……」
「そんな怖がらないでよ、あたしが泣かせてるみたいじゃん。で、何を商売としてるのさ」
少女が怖がらないようにか、アンナは姿勢を元に戻した。
少女はアンナが少し怖くなくなったので、狼狽えるのをやめた。
「代理屋です」
「代理屋ぁ?」
アンナがまた再び顔を近づけてきて尋ねたので、少女はひっとまた一歩退いた。やっぱりアンナさん怖い。
でも尋ねるのは当たり前だろう。『代理屋』と言って理解できる人間は自分と客だけだ。少女はアンナに簡単に説明する。
「お客さんが望むものを私が代わりに買ってきたり、探してきたりするんです」
「はぁん。それで世にも危険な『麻薬』を?」
『麻薬』。
分かってはいたが指摘されると身が縮む。
「あのやっぱり……、バレたら」
「やばいに決まってるだろ。あたしの仲間だってそれで何人か捕まったし」
アンナの即答に更に身が縮む。
分かってはいるが、麻薬を使用しなくても所持しているだけで牢獄にぶちこまれる正当な理由になる。
顔が青ざめてきた少女を、アンナは笑いで吹き飛ばした。
「だーいじょうぶだって! バレたら、なんて言うけど要はバレなきゃいいんだよ」
それに、とアンナは続ける。
「あんた仕事でやってんだろ? そんなもの頼む客が悪いんだよ」
迷いなく即答するアンナに、少女はほんの少し救われたような気持ちになった。
少女は自然と微笑んでいたのだろう。アンナもにっと笑って、少女の亜麻色の髪をわしわしと撫でた。
それから少しばつの悪そうな顔になって、
「……最初は怒鳴ってごめん。周りの奴らの分も含めて、怯えさせて悪かった」
最初の態度とはえらい違いだ。
アンナさんっていい人なのね。と見直す。
「いいえ、全然! むしろありがとうございました」
声は慇懃としているが、あのときの行為を思い出してか真っ赤になっている少女に、アンナは「そういえば」と撫でている手を止めた。
「あんた名前なんていうの? ……あたしも困ったときあんたの店に行きたいしさ」
後半は少女から眼を逸らした。素直じゃない態度に少女はくすっと笑う。
途端「何がおかしい」とばかりにアンナの軽い睨みが飛んできたので、少女はとりあえず笑いをひっこめた。
それからアンナににっこりと柔らかく微笑みかける。
「シェリルです」
是非訪ねてきてくださいね、と付け足すと、アンナは満足そうにまたシェリルの頭を撫でた。
おおおおお
また更新に間が開いてしまいました……。
今回から3章突入です。
新キャラもよろしくお願いします。