2-4
風が北から強く吹きつけてくる。風は吹雪と一緒になり強度を増す。
白い肌に突風は針となって突き刺さり、痛みを感じさせる。金髪は今にも雪に純白に染め変えられてしまいそうだ。
ただでさえ視界が悪いのに、濃霧が更に見通しを効かなくさせる。小さな小さな水の粒が、空気中を浮遊している、楽しそうに。
冷気がまたやってきた。それは体温を奪い、辺りの温度をぐっと下げる。吐く息は白く、凍るようだ。息を吐きだし、吸い込む瞬間に水の粒が喉から入り込む。すると喉からすうっと冷えていき、身体全体に行き渡ってしまう。それは避けたいが、まさか呼吸しないわけにはいかない。凍死する前に窒息死してしまう。
必死に水の粒や冷気と格闘しながら前進する。分厚い靴で足を包んでいるのだが、雪はそんなものお構いなし。熊の歯のように簡単に通り抜けてしまう。
そこまでつらい目にあうのに、なぜ彼は森を歩き進んでいるのか。
答えは単純。
――逢いたいから、だ。
誰に?
この森の主ともいえる、不思議な少女に。
人間とは実に面白い生き物だ。だって「逢いたい」という理由だけで極寒の森に出向いてくるのだから。
「逢いたい」から、寒いという当たり前の感覚を鈍らせながらひたすら前へ。そしてあてもなく少女の名前を呼ぶ。
フェリシア。
と。
返事は聞こえない。だが彼は簡単に引くつもりはない。
彼は少女の返事が聞こえるまで、この森を彷徨ってでも帰らないと決めていた。
是が非でも、少女・フェリシアの声が聴きたかった。
***
ひゅー、ひゅるり。
冬の冷たさ満載の北風は、今日はいつもより比較的穏やかだった。
木々と雪以外何もなく、殺風景なこの森で生活している少女は優れた五感でそう感じ取った。風が落ち着く日は普段からたびたびあるのだが、少女は今日は何かが違う、何かが起きる、とも五感が感じた。
そのとき雪を踏みしめ歩く音と、小さな声が少女の耳に届いた。
フェリシア。
幻聴だと思った。
今まで孤独だったのが、そう簡単に解放されるはずはないと。
フェリシア。
懐かしい声。
なぜだ。なぜこんなにも、心が揺れる?
なぜこんなにも、この声に逢いたかったと思うのだろう。
私はこの声の主に、
――逢いたかった。
意識した途端、無意識に涙が溢れ零れる。
ぬくもりに飢え手探りで探していた少女の涙は、止まらない。嗚咽を押し殺すため懸命に堪えていたが、やがて堰はもたなくなって崩壊した。
足音はだんだんこちらへ近づいてくる。その証拠に音が大きくなっていく。
嗚呼、なんと自分は間が悪いのだろう。足音が大きくなってくるのに、嗚咽が大きくなっていくなんて。
手で目元を覆うが、小さな手だけでは拭いきれない。細く白い指の隙間から、透明な雫が流れ落ちる。透明な雫が指を、手首を伝い、自分の髪色と同じ白銀の雪の地に着地する。
2、3適のごく僅かな涙。しかしそれはどんな凶器よりも恐ろしい。何故ならこれは、一瞬で全てのものを巻き込んで凍らせてしまうのだから。
ピシッ、ピシッ。雪が氷に変化する音。
只でさえ冷たく、普通の者なら縮み上がる雪の上。彼女の涙は雪を個体にさせ、更に冷たく堅くさせる。己の姿が映っているこの地面は、鏡のよう。白銀の髪は確認しずらいが、肉食獣の瞳――不気味なほど怪しく妖艶に輝く、濃蒼色――はしっかりと映りこんでいる。
これが、私か。
自分の姿なのに、愛しいようなめちゃくちゃに壊したいような。何ともいえない複雑な感情が湧き上がってきた。少女は涙で氷になった森の地を、優しくゆっくり触れる。そのまま細い指を滑らせていく。すると少し凹凸ができた所に指の爪がくいっと引っかかった。
刹那。
シュウウ……、と氷が白い冷気を出して溶けた。辺りは白銀の雪が降り積もった森に戻る。凍りつくのもまばたきを一回もできないという速さだったが、溶けるのもそうであった。
「……儚い命だな。……私たちはそうでは、ないのだが……」
そう、我らに命の箱は存在しない。即ち、寿命という概念がないのだ。
微かな時間に、微かな想い出に浸っていると、
「……フェリ、シア。よかっ…た、ここに、いたんだね……」
座り込んだ少女の頭上から、やけに疲労で上手く呂律がまわりきっていない男の声がした。
***
長く住み慣れた森を離れて、人間が住む村に足を歩ませていったのは、どのくらい昔のことであっただろうか。
記憶はおぼろげだが人間を敵認定してから、それほどたってなかったように思う。我が種族は寿命がない。だから歳月という感覚が大変鈍く、それがどれほど前のことだったのか脳がいちいち把握しきれないのだ。
その日のその村は、何やら騒がしかった。人間たちの思考は理解できないが、何かを讃え祀るために「祭り」というものを催していたらしい。昼はどんちゃん騒ぎで、五月蠅く迷惑なことこの上なかったが、夜は対照的に静寂が染み渡っていた。
疲れるのだったら、昼間も大人しくしていれば良いものを。
心の底から、人間の言動に首を傾げる。何故、人間たちは意味もなく、ただ疲労するだけの「祭り」などを行うのだろう。
まぁ、それはどうでもいい。人間を理解しようとは思わない。思えないからな。
冷たい漆黒の闇を足早に駆け抜ける。何故、敵である人間の居宅に訪れたのか。それについては特に意味はない。我らは人間のように意味や利害を考えて行動することはない。ああ、でも「祭り」については別だが。
……話が脱線してしまった。意味はないが、敢えて言うなら好奇心。もしあいつにばれたら口汚く罵られるだろうが。
片割れの顔を思い出しながら苦笑する。
足を進めながら、ふとあるものに目が止まった。
人間が住む家の窓から漏れている光だ。よく見ればあちらにもこちらにも。
何だ? あいつらは日が沈めば就寝するのではないのか? あの光を昼の明るさの代わりにしているのか?
人間に対して奇怪な印象を強めながら、更に足を前へ進めた。が、その足をすぐ止める。
どこの住居からか、美しい旋律が聴こえてきたからだ。滑らかで心洗われるような、澄み渡る旋律が。それは夜の静寂を裂くようなことはなく、むしろ逆に乗って、よく響いてきた。
しばらく耳を傾けていた。生まれて初めてだった。「旋律」というものに触れたのは。
旋律に満足して、四本足の獣は駆け足で跳ねるように、闇より深い漆黒の森へ姿を紛れ込ませていった。
***
月よ、星よ、歩んできた道を照らして。
輪郭や色がはっきりと浮かび上がるように。
私のもとへ、愛しいあの人を導いて。
雪よ、花よ、美しい色は何ですか。
純白でも真紅でも濃蒼でもない。
私を、美しいあの人の色に染めかえて。
純潔よ、愛よ、優しく包み込んで下さい。
光を全て吸い込まれてしまってもいい。
私は、私の全てを貴方に捧げましょう。
印象強く頭に残った旋律を思い出しながら喉と唇を動かす。
初めてこの旋律を聴いたとき――なぜだがとても心が和み、落ち着いた。あのときはこれを奏でているのは楽器か何かだろうと思った。しかし後で知った衝撃の事実。
この旋律を奏でているのは楽器などではなく、まさかの人間そのものだったということだ。その衝撃に恐ろしいほどの勢いで驚愕したが、人間にもあのような温かい声が出せるのかと、『敵』だと決めつけていた人間を少し修正した。
なんのためにこれを奏でるのかはいまいち分からない。しかし分からないながらもフェリシアはある一人の人物のために奏でていた。
フェリシアの細い膝に頭を乗せて、眼を閉じている金髪の少年。
無愛想で皮肉的なフェリシアを敬遠することがない、……カーティスという名の少年だ。
衣服ごしでも伝わってくる体温の低さの原因は、恐らくこの森を彷徨っていたのであろう。フェリシアを見つけるために。
フェリシア、よかった。ここにいたんだね。
そう言った瞬間、彼の身体は崩れ落ちた。どうやら低体温のため意識を保てなくなったようであった。
人間とはなんと脆いものなのだな。
眼を閉じた、青白い顔の肌を指で優しくなぞる。久しく触れた、自分ではない肌の感触はすべすべして気持ちよかった。
嗚呼、こいつが人間ではなかったら。
それだけが悔やまれる。同種族であれば、障壁などないのに。
もしこいつが人間ではなかったら、どうしていたのだろうな。
立てても仕方がない前提で考えていると、自然に喉と唇が動いていた。
神よ。教えてくれ。
私はこの者といつまで、どこまで結ばれてもいいのだろうか、と。