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寒さと冷たさが凝縮された風が辺りを吹き抜けていく。
枝にかろうじて引っかかっていた雪は、枝が揺れるので地面に落下する。しかしその枝の色は見えない。何故なら雨は大量に振り続けていて、すぐに場所を白銀で覆い尽くしてしまうからだ。
……太陽はいつ出てくるんだろ。
元々寒い地方で、その上真冬なので始終雪が降りやむことはない。雲に隠され姿を現さない太陽を憂いて、エアルドレッド伯爵の三男・カーティスは浅くため息をついた。
ちなみにため息をついたのは、太陽と蒼穹が恋しいからだけではない。
フェリシアだ。
外のあちこちに降り積もる白銀の雪が視界に入るたび、癖のない白銀の髪の少女を否応なく想いだしてしまう。
『嫌いなのだ』
そう突き放されても、離れたくない。ずっとあの少女のもとにいたい、と気づけば勝手に願ってしまっている自分は、おかしいのだろうか。
はふ、とまたため息。
今日は今朝からこんな状態で、朝食時には母に「カーティス、具合でも悪いの?」と心配させてしまう始末。カーティスは「いえ、違います」と慌てて否定した。本当に体調が優れないのならともかく、一人の少女についてあれこれ悩んでいるのかと知られれば。別にどうってことはないかもしれないが、カーティスは嫌だ。兄に苛立ち発散としてからかわれるのは目に見えているし、何よりフェリシアの存在をこれ以上広めたくないのだ。
そんなこんなでどうしても勉強をやる気がおきないので、今日は休養をとらせてもらうよう、教師たちに便宜をはかった。
ごろん、と自室の寝台に寝転がる。眼をぱちぱちしたり、綺麗に整えてある髪をぐしゃぐしゃにかき回してみたり、意味もなく指で指を触ってみたり。誰も見ていないから良いものの、完全に挙動不審だ。
しばらく意味不明な行動を続けていたが、カーティスは突然雷に打たれたように跳ね起きた。
そしてそのまま、屋敷の裏側に駆けて行った。
***
枯れ草のにおいが辺りの空気に紛れ込んでいる。
小屋の中から、シャッシャと何かを梳くような音が響いてくる。
ここは馬車の馬が生活し、御者たちが馬の手入れをしている馬小屋だ。
カーティスは引き戸を引いて、中に入った。
瞬間草の香りが強く強く鼻をくすぐる。滅多に嗅ぐ匂いではないが、この匂いはとても落ち着く。
御者のグレアムはいるかと、頭を動かして捜す。すぐにお目当ての人物は見つかるが、グレアムは馬の毛並を一心不乱に梳かしていて闖入者には気が付かない様子だ。
しかし勘の良いグレアムは、すぐに気づき、ブラシを持った手を止めた。
「おや、これはこれはカーティスさま。どこかお出かけなさるのですね、お待ちください。すぐに馬を出しますんで」
カーティスは遠出の用があるときしかここを訪れないので、グレアムは今回もそうだと思ったのだろう。
「いや、今日は違うんだ。用は用なんだけど……。その……、そっ相談! グレアムに!」
しどろもどろになりそうだったので、一気に言い切った。
グレアムは手入れをしていた馬の毛並を優しく撫でる。
「はい、私で良ければ」
口元を綻ばせながら、グレアムは了承してくれた。
歳をとるごとに顔に皺が少しずつ刻まれていくグレアム。しかしそれは老人というよりも「おじいちゃん」というような優しさを強調している。
「あのさ、グレアムって結婚してるよね?」
カーティスの突然の質問に、グレアムは一瞬きょとんとしたが、
「はい。妻も子供もおります」
と、また元の微笑む表情に戻った。
グレアムの両親はもう他界しているが、どちらも使用人だった。その子供であるグレアムもとある名貴族の家に仕えていた。
その家にはグレアムと同世代の令嬢がいた。流れるようなブロンドに、愛らしいくりっとしたエメラルドグリーンの瞳。
グレアムはその令嬢を一目見たとき、心臓を射抜かれたような感覚を覚えた(らしい)。
有り体に言えば、一目惚れだ。
仕えていた間の関係は、貴族令嬢と使用人なので滅多に口をきく機会はなかった。しかし令嬢は、御者としてせっせと忙しく尽くすグレアムに好意を持ったらしい。接近する機会があれば積極的に話しかけてくれた。
彼女の天使の笑みは、見るたびグレアムに独占欲を強めさせた。嗚呼、この人の傍にいたい。と感じるようになったのは出逢ってから五年ほどたってから。グレアム・令嬢ともに十八歳前後のことだ。唇を重ね合う仲まで発展していたが、彼女の父親に見つかってしまった。当然の如く彼女には婚約者もいたため、父親は天と地がひっくりかえるほどの勢いで激怒した。その晩、追放命令を下された(要するにクビ)グレアムは泣き崩れている彼女にそっとこう持ちかけたらしい。
「駆け落ちしよう」と。
彼女は突然のことに瞠目したが、すぐグレアムの堅い手を握り返した。
そしてそのまま二人の姿は何処かに消えたという。
―――というのがグレアムの逸話である。実は彼の夫人は有名貴族の令嬢なのだ。
そこいらの下手な恋愛小説より甘々でロマンチックな恋を見事愛に変えたグレアム。何故カーティスが「馬の手入れ命」のグレアムに相談をしようとしているのかというと、男女の色事について師事してもらいたかったからである。
「グレアム。グレアムは奥さんのこと、好き?」
自分では気づいていなかったが、顔が林檎になったカーティスを見て、全てを悟ったグレアムは目を細めながら微笑んだ。
「はい。それはとても」即答してやると、目の前の恋愛経験ゼロの少年は何故か更に狼狽えた。
「じ、じゃあ、もし奥さんに『嫌いだ』って言われたら……?」
言葉に詰まりながら、自分の疑問、いや気持ちを伝えようとする少年がとてもいじらしい。からかってやろうと思ったが、真面目に問いを重ねる思春期少年にいい加減なことは言えないと思い直し、素直に答える。
「抱きしめます」
想定外の答えだったのだろう。カーティスは絶句して沈黙してしまった。しかし顔は相変わらずものすごく林檎色だ。思い当たることでもあるのだろうか。
「抱きしめて、自分に非があったか、それはどのようなことでどのように貴女を傷つけたのか、と優しく訊きます。そして非があれば素直に詫びて、もう一度私を『好き』になってくれないか、と頼みます」
過去の楽しさや苦しさから導き出した経験を、ゆっくり想い出しながら紡いでいく。
「妻が『嫌い』でも私は『好き』です。生涯妻以外を愛しませんし、愛する気もありません」
そこで今まで下を見つめていたカーティスは、ぱっと顔を上げた。何か大事なものを得て、大切なことに気付かされたと。青色の瞳は鏡のように澄み渡っていた。
「カーティスさま。逃げた魚というのは大変大きいものです。故に逃げられたときの喪失感は例えようがありません」
運命の女性も逃げてしまいますよ。
遠回しにそう告げたグレアムは、くいっと顎を上げる。
「さあ、行きましょうカーティスさま! 行先はいつもの森でよろしいですね!」
***
自分以外に生物がいないと思われるこの森は、静寂七割・雪三割で創られているのではないか。と、この森唯一の生物、フェリシアは思う。
白銀で統一された森に、同じくほとんど白銀で統一されたフェリシア。吹雪が強くなくても、完全に同化してしまっている。よく目を凝らさないと彼女の姿を視界に捉えることは不可能だ。
絹よりももっともっと上質な白銀の髪が、彼女の華奢な身体を覆い尽くす。敏感な髪は、少しの風でも反応し舞い踊る。
氷の彫刻の如き完璧な美貌。
身にまとっているものは、薄く袖が無く、膝丈までしかないワンピース。露出した腕や脚や顔には色がないと思われるほど色素が薄い。形の良い小さな唇と、常に爛々と輝きを放っている濃蒼色の瞳が、彼女の唯一の『色』だ。
身体のどこに触れても、氷のように冷たい。凍ってしまわないのかと疑うくらいに。
そして彼女は独りだ。
かつてここにいた他の生物や仲間は、もうとうの昔に姿を消してしまった。
孤独を融かすためにできることは何もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
昨夜から続く吹雪のせいで、すっかり乾いてしまった唇を小さな舌でぺろりと舐める。しかし冷気がそのかすかな潤いを奪っていってしまう。
彼女は震えている。それは寒さのためではない。何故なら、彼女の種族の身体は寒さには頑丈に創られているからだ。
ではどうして震えているのか。
その理由は―――……。
馬の蹴りだす蹄の音が、沈黙していた空気を震わせフェリシアの耳朶まで届く。
気に留めるまでのことではない。馬車はよくこの森を通る。しかし、通り過ぎて行ってしまうのが常だ。
期待という単語は捨て、顔を自分の膝に埋めるという体勢に徹していると、
フェリシア。
自分を呼ぶ声が聞こえた。でもいつもの幻想が作り出した幻聴ではないのか。
自分の耳を疑いながら、顔を上げ、耳を澄ますと、ザクザクと雪を踏みつける足音が聞こえてくる。
フェリシア。
どこか懐かしい声。
これは一体。
幻聴か。
『本物』か―――……?
うぶ?なカーティスが書けて楽しかったです。
グレアムが理解ある人で良かったね、カーティス。
勉強のあいまあいまに執筆するので、なかなか更新という形にならず非常に残念です……。