観察31:雪奈との関係
「……雨か」
まだ梅雨には少し早い時期。だが今日の雨は梅雨のように強く降っていた。
「憂鬱だな……」
雨の中、駅から家へと続く道は多くの水溜まりを作っている。
「昼はあんなに晴れてたのに……」
オレは独り言を言う。隣には誰もいない。雪奈は昨日からずっと見ていない。こころは雪奈を捜しに行っていた。瑞菜は……今日はさすがにいない。
(久しぶりに……もしかしたら初めてか?)
いつだって傍には誰かがいた気がする。
「恵まれてたんだよな……」
今だって恵まれてはいる。夜になればこころがそばに居てくれる。ただ、瑞菜が……雪奈がオレの傍にいないのが寂しかった。
「……家か」
こころはまだ帰ってないんだろう。見えてきた家に光はない。それがどうしようもなく冷たく感じた。
「……?」
家の傍に誰かがいるのが見えた。近づいていけばいくほど、その輪郭が見えてきて……。
「…………雪奈」
それが雪奈の姿に重なった。
「何やってんだよ? 傘もささないで」
見るからにびしょ濡れで、雨が降り始めてからずっとそこに居たのではないかと思う位だ。
「……お兄ちゃんだって傘さしてないじゃん」
そう言われてみればオレもびしょ濡れだった。
「……そんなことよりさっさと家に入るぞ?」
このままじゃ風邪をひく。
「嫌だよ」
「……なんだって?」
「嫌だって言ったんだよ。だいたい入るんだったら最初から入ってるよ」
言われてみればそうだ。雪奈は合鍵を持ってる。
「じゃあ……なんでここに来たんだよ?」
「これを返しに来たんだよ」
そう言って雪奈は鍵を……この家の合鍵をオレに差し出してくる。
「……何のつもりだよ?」
「私にはもう必要ないものだから」
雪奈は無表情にそう言う。オレはその表情には見覚えがあった。今のオレ達の関係が始まる前。今となっては昔、オレは今の雪奈と同じ表情を見ていた。全てを拒絶するような……そんな表情を。
「もう、私が来ることないと思うから」
「いきなりどうしたんだよ?」
オレはできるだけ動揺を隠しながら話す。
「だって……私邪魔だよね?」
「なんのことだよ?」
たぶん今日はそういう日なんだろう。オレは半ば諦めと覚悟、そして確信を持ちながらそう聞く。
「なんだ……お兄ちゃんも私が何を言うのか分かってるんだ」
オレの態度に何か気付くものがあったのか雪奈は笑って……無表情に笑って言う。
「そうだよ。昨日お兄ちゃんとお姉ちゃんが何してるのか知ったんだよ」
「そうか」
「そうかって……それだけ? あわてないの?」
「なんで慌てるんだよ?」
「私がこの事を昔の人に言ったら大変だよ?」
「別に瑞菜は関係ないよ……もう」
そう関係ない。こころとどんな関係を持っていようと。
「まだ隠すんだ……。どうして……いや、もう私には関係ないよね」
「……それで? お前は鍵を渡して、その後どうするんだ?」
瑞菜の事を考えると際限なく落ち込みそうな気がして、オレは半ば強引に話を変える。
「家に戻るよ。私のことは私が解決する」
「……本当にそれでいいのか?」
「お兄ちゃんには関係ないよ」
「だったら何でここでお前は待ってたんだよ?」
本当にオレに関係がないって言うなら……雪奈がオレと話したくないのであったなら、わざわざオレに直接鍵を渡しにくるはずもない。
「それは………」
「とにかく家に入れ。そしたら全部はなしてやる」
「話すって……何を?」
「お前が知りたいこと全部だ。……オレが知ってることの範囲でだが」
「っ…………………」
「どうする? 家に入るか?」
「ずるいよ………お兄ちゃん」
答えは最初から決まっていたようなもので、オレ達は家に入った。
「とりあえずあれだな……先に風呂に入れ」
「うん……分かった」
そうして先に雪奈に風呂に入らせ、その後にオレも入った。
「それで? 何から聞きたい?」
あらたまってオレ達はリビングで向き合い、オレは雪奈にそう聞く。
「じゃあとりあえず……お兄ちゃんは昔の人と付き合ってるんだよね?」
「付き合ってないよ。……今日別れた」
「別れたって……どうして?」
「さぁな……オレにもよく分からない」
分かってるのは瑞菜はオレを理由にしなかったということ。オレには理解しきれないくらいに瑞菜が優しい――残酷と言えるほどに――こと。
「そっか………でも今日別れたって事は、今まで浮気してたって事だよね?」
「そうだな」
「そうだなって……それだけ? 罪悪感とかないの?」
「あるさ……でも今さらだよ」
ずっと感じてきたことだ。
「ふーん……お兄ちゃんってそういう人だったんだ」
「ああ。最低なやつだよ」
「……嘘だって言ってよ」
「何をだ?」
「お兄ちゃんは私の知ってるお兄ちゃんだって……そう言ってよ」
「無理だ」
そう、無理だ。少なくともオレは雪奈が思っているようなやつじゃない。
「そんなことより、他には聞きたい事はないのか?」
「そんなことって……」
「何の為に家に上げたと思ってるんだ?」
「それは……私が居なくなったら嫌だから?」
「自惚れるな」
「っ………じゃあどうして?」
「お前さ………こころとはどうするつもりだよ?」
「どうするって………」
「今まで通りあいつと付き合っていけるか?」
「それは……」
やっていることはオレもこころもそう大差ない。
「わかんないよ……」
「じゃあこれだけ言っとく……あいつはお前がまた一人になるって言うなら悲しむぞ?」
誰よりも雪奈の事を大切にしている奴だから。
「だからって……私にはお兄ちゃんとお姉ちゃんのやってる事許せないよ」
「それは瑞菜とオレが付き合ってたらの話だろ。別れたんだから、今更他人に何か言われる筋合いはない」
「っ………それはお姉ちゃんの事がすきってこと?」
「お前には関係ない」
「どうして………どうしてなの?」
「何がだ?」
「好きだって……お姉ちゃんの事が好きだから……だからああいう事してるんだって……そう言ってくれれば私は……」
「……やっぱりこの事も言わないといけないかな」
泣きそうな雪奈を見ていると、やっぱりオレは弱くなる。冷たくなりきる事はできそうにない。
「なんの……こと?」
「詳しくはこころの事だから言えないけど、オレとこころがああいう事をしてるのは対等でいるためだ。………あいつはそう思ってる」
「対等って………どういうこと?」
「オレに聞くな。これ以上のことはオレの口からは言えない」
それに、こころはたぶんオレにも隠し事をしている。かなり重要な事を。
「……じゃあ、好きでもないのにああいう事をしてたっていう事?」
「かもな」
本当は分からない。いや、分かってはいけない。こころの気持ちは当然として、オレの気持ちすらも。
「やっぱり……不潔だよ」
「まったくだ」
オレだって当事者でなければ、軽蔑すると思う。でも……。
「それでも……こころの事は嫌わないでやってくれ」
「……………………」
「確かにオレ達のやってる事は最悪なことだと思う。……でも、あいつにとって一番大切な事はお前の事なんだ。それがオレと対等でいる為だけで失われるのは嫌だ」
「……勝手だよ」
「確かに勝手だよ……それでもオレはこころのために頼むことしかできない」
「そんな言い方……卑怯だよ」
「卑怯でいい。大いに嫌ってくれ。……でもそのかわり、こころには今まで通りに接してくれ」
身勝手な話だ。でもオレは悲しんでいる顔は見たくないから。こころも雪奈も笑ってる姿が一番いい。
「……できないかもしれないよ?」
「それでもいい。もとから半分無理なこと言ってるのは分かってる」
今日を境にいろんな事が変わった。だから今から始まるのは非日常。いずれ日常へと変わっていく日々。
「けど……お前はこころのこと今でも好きなんだろ?」
「……うん」
「なら大丈夫だ。大切な事はそれだけなんだから」
小さく……でもしっかりと頷いた雪奈にオレは笑みをこぼす。
「じゃあ、もうその鍵を返すとか言わないよな? オレがいない時でもいいからあいつに会いに来いよ?」
「うん。この鍵は私が持ってる。ずっと…………」
「ならよかった」
これでこころが悲しまなくてすむ。
「だって、家族だもんね」
「そうだな」
「だから許すよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんの事」
「それはよかっ……って………は?」
こころはともかくオレも許すって?
「よくよく考えたら私お兄ちゃんの妹だもんね。昔の人とは別れたっていうし、文句いうのもおかしいよね」
それはそうなんだけど……。
「それに……やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだった」
「……何がだよ?」
「私ね、家に上がれって言われた時、何か言い訳されるんだろうと思ってた。なのにお兄ちゃんたら自分の事は全然庇わないんだもん。なんだか安心しちゃった」
「安心って……なににだよ?」
「お兄ちゃんはやっぱりお兄ちゃんなんだって」
「……わけわからねぇよ」
いつの間にか笑顔になった雪奈にオレは辟易する。
「でも……だからと言ってああいう事を許したわけじゃないんだからね?」
「分かってるよ」
だいたい許されたら意味はない。
「けど……やっともやもやしたのがとれたよ」
「悪かったな」
「これで心おきなく、お兄ちゃんにアタックできるね」
「……アタックってなんだよ?」
「もちろん恋のアタックだよ」
「……勘弁してくれ」
家族以上恋人未満な関係。それが雪奈との関係だ。……そうある事を許されたらしい。