観察12:変わらない変化
「うぅ……少し寝坊しちゃった」
せっかくお姉ちゃんが帰ってきた初めての休日なのに。
「お兄ちゃん寂しがってるかな?」
私がこんな時間にお兄ちゃん家にいないなんて本当に久しぶりだし。やっぱりお姉ちゃんが来て気がゆるんだのかな?
(……でもそっか、お姉ちゃんがいるから寂しくないんだ)
お兄ちゃんとお姉ちゃんは仲良しだ。どこか私が入り込めない空気を作る時がある。それはお兄ちゃんと昔の人の間にある空気とも似ている。
ズキッ
(あれ?何で……?胸が痛い……)
まさか嫌な病気じゃないよね?
そんなことを考えているうちにお兄ちゃんの家につく。貰っている合鍵を使い、あけて中に入った。
『ああ。雪奈に恋愛なんてまだ早いって』
(……え?)
ドアを開けて入ったところでお兄ちゃんの声が聞こえてきた。
私が恋愛するなんて早い? どういう事なんだろう?
私は靴を脱げずその場に縫い付けられる。
『私もそう思うけど……でも雪奈ももう高校生よ?例え雪奈が愛情に疎いとしても、恋愛してもおかしくないと思うんだけど』
お姉ちゃんも同じ意見なんだ……。
『そうだとしても少なくとも今のオレに応える気はないぞ』
そこまで聞いた私はお兄ちゃんの家を飛び出していた。
「お兄ちゃん……」
近くの公園。私はブランコに乗って足をぶらぶらさせていた。
(……リストラされたサラリーマンみたい)
心情的には少し似てると思う。
お兄ちゃんとお姉ちゃんが具体的にどんな事を話していたかは分からない。ただ少なくとも話しているのは私のことで……。
「私が……子どもって言いたいんだよね?」
そういった事を言ってたんだと思う。子どもだからだから恋愛は早いってお兄ちゃんは……。それに……
『そうだとしても少なくとも今のオレに応える気はないぞ』
「っ……」
またズキンっと胸が痛む。
(……私とは付き合えないって意味だよね?)
分からない。分かりたくない。それなのにそうとしか思えない。
漠然と思ってた。お兄ちゃんと私はずっと一緒にいるんだって。好きかとそういった恋愛感情以前に、それが当然に思ってた。家族みたいな関係から、本当の家族になるんだと。でも……
(……お兄ちゃんはそういうつもりなかったんだ)
きっとお兄ちゃんにとって私は妹みたいな存在にすぎなくて、家族ごっこを続けているだけなんだ。
(……本当の家族になんてなれないんだ)
私はどうすればいいんだろう?お兄ちゃん以外の人を好きになればいいんだろうか?
(でも誰を……?)
私にとってたった一人の異性はお兄ちゃんで、ずっと一緒だと思ってた人もお兄ちゃんで……。
「……分からないよ」
やっぱり私が子どもだから?恋愛なんてできないから?お兄ちゃんと一つしか変わらないのに……。
「教えてよ……お兄ちゃん」
呟く私に一滴の水が落ちる。
「……雨?」
一滴の水が重なりそれは雨になって私を濡らしていった……。
「……雨か」
窓の外は雨がしとしとと降っている。
「来ないわね?」
「あぁ……」
昼を過ぎても雪奈はまだ来ていなかった。こんなことは今までに数度しかない。
(ただの寝坊だったらいいんだが……)
それなら心配ないが、なんらかのトラブルに巻き込まれている可能性もなくはない。雪奈の家とオレの家はそんなに離れていないし、人通りもそう多くは無いから大きな可能性ではないが。
「こころ。お前はどう思う?雪奈の事」
「……もしかしたら外にいるかも」
「この雨の中か?」
「雪奈ってそこまで寝坊助じゃないでしょ?いつもはアタシ達が起こされてるし。だから家は出てると思う」
「じゃあ、なんかアクシデントが?」
「ないとは言えないけど……たぶん違う」
「じゃあ何が……」
「聞かれたのかもしれない」
「何を?」
「さっき少し物音がしたから、もしかしたらと思ってたんだけど……」
「だから何を?」
「あんたが雪奈と付き合う気はない。この部分だけを聞けばあの子にはショックなんじゃない?」
「まさか……」
聞かれたのか? あの話を?
「どちらにせよ捜しに行くしかないわよ」
「そう……だな……」
どこまで聞かれたのか。どう思われたかは分からない。でも、もし雪奈が傷ついたならオレは……
「……こころ。お前は家にいてくれるか?」
「お風呂でも用意して待ってればいいかしら?」
「それで頼む」
「……馬鹿ね。あんたがそんな顔する必要ないでしょ?もし聞かれたんだったら気付かなかったアタシが悪いんだから」
「馬鹿はそっちだろ。どこにこころが悪い要素があるんだ。あったとしてもオレも同罪だ」
聞かれたにしろ聞かれなかったにしろ、もっと早く探しに行くべきだった。待っているだけじゃ事態は好転しない。そんなこと7年前で分かってたはずなのに。
「じゃ、行ってくる」
「傘は?」
「いると思うか?」
「ひとり分ね」
「……お前って無駄にロマンチストだよな」
「さっさと行きなさい。アタシ達のお姫様が待ってるわよ?」
「はいはい。行ってきますよお母さん」
そう言って一つの傘を手にその場を後にした。
雨がしとしとと私を濡らす。今は春。降り続ける雨はゆっくりと私の体温を奪っていく。
(……雨宿りしないと)
そう思うのに身体は動かない。揺れ続けるブランコに座ったまま。
「……別にいいか。雨に濡れても」
なんだか雨に濡れたい気分だった。濡れ続けたいと思った。
「……何が良いんだよ? バカ雪奈」
いつの間にか私の正面に誰かがいた。
「お兄ちゃん……」
今だけは一番会いたくない人だった。
「……何でお兄ちゃんがここに?」
雨は私を濡らさなくなった。お兄ちゃんが持つ傘が私に覆い被さっていた。
「そんなことお前が一番分かってるだろ」
私がお兄ちゃんの家に連絡もなしに行かないことはありえない。お兄ちゃんが私を捜しに来るのは当然。……お兄ちゃんにとって私が大切なら。
「……ねぇお兄ちゃん。何で私を捜しに来たの?」
「そんなこと言うまでもない」
少し怒ったようにお兄ちゃんは言う。
「そんなに私が大切?」
聞くようなことじゃない。分かってるのに聞くことを止められなかった。
「……お前はそんなにオレを怒らせたいのか?」
「……うん。そうかも」
私にはお兄ちゃんの気持ちが分からない。だから辛い。けどはっきりと怒ってくれたならきっと今は辛くなくなる。
「……怒れるかよ」
「ぇ………?」
「お前を追い詰めたのはオレなんだろ?」
「……何でそう思うの?」
「オレに対する今の雪奈の態度を見てたら誰だってそう思う」
「そっか……私、子どもだもんね。分かりやすいよね」
お兄ちゃんにとってもお姉ちゃんにとっても私は子ども。恋愛するなんて早い存在。
「……何をふてくされてんだよ?」
「ふてくされてなんてないもん」
「子どもかお前は」
「子どもなんでしょ? お兄ちゃんにとっては」
きっとお兄ちゃんにとってはいつまでも私は小さな妹なんだよね。
「そうだな――」
ほら、やっぱり……
「――オレにとって大切なお子様だ。辛いことがあったらすぐにふてくされて人を困らせるような……だからこそ可愛いと思うオレの大切な家族だ」
「大切……なの? お兄ちゃんのこと困らせるのに?」
「じゃなければ捜しにくるか」
「本当に……本当?」
信じればいいのに私は繰り返し聞く。
「何だよ? どうしたら信じてくれるんだよ?」
「付き合って」
自然とその言葉がでた。
「私の恋人になってください。……そしたら信じられる」
卑怯だな……私はそう思った。でももうその言葉はなかったことにはできなくて、私は後悔することもなくて……。
「……駄目だ」
だからお兄ちゃんを苦しめる。
「それだけは駄目なんだ」
お兄ちゃんが頑なにそう言うのがなぜかは分からない。でもお兄ちゃんには信念みたいなものがあって、私の想いには応えられないんだ。それだけは分かった。だからもうこれ以上お兄ちゃんを困らせたら駄目。駄目なのに……。
「だったら……キスして」
お兄ちゃんを困らせることを言ってしまう。……私ってこんなに嫌な子だったんだ。
「したら信じてくれるのか?」
「うん……」
苦しい。お兄ちゃんを困らせることが。でも私が苦しいのはそれだけじゃなくて、でもそれがなんなのかも分からなくて……訳が分からなくなる。
「……だったら目を閉じろ」
私はただお兄ちゃんに従って目を閉じる。
(……本当にいいの?お兄ちゃん)
何も分からないまま、それでもゆっくりとお兄ちゃんは近付いてきて、そのまま――
――オレはそっと雪奈の額に唇をつけた。
「ん………デコチュー?」
「懐かしいだろ?」
「懐かしいって……一度しかしてもらったことないよ」
そう。一度だけ。泣き続ける雪奈にした……オレ達が一緒に歩き始めた出発点の記憶。
「ちゃんと覚えてたんだな」
「忘れるわけないよ……」
「じゃああの時オレが言ったこと覚えているか?」
「オレ達は本当の家族じゃない。だから――」
「「――本物以上になろう」」
オレは雪奈の言葉に自分の声を重ねる。
「……うん。忘れてないよ。……忘れられるわけないよ」
それは誓いの言葉。一度は離れてしまったオレ達を今なお繋ぐ大切な象徴。
「オレの気持ちはあの時と変わらないんだ」
嘘だ。オレはそれ以上の想いを持っている。だからこれは戒めの言葉。オレと雪奈、二人を繋ぎ同時に近づけなくする壁。
「そう……だよね。お兄ちゃんにとって私は妹みたいなものだもんね」
「あぁ」
嘘だ。オレは家族に対する以上の気持ちを持ってる。
「子ども……何だよね?」
「少なくともオレにとっては」
嘘だ。雪奈は子どもなんかじゃない。ただ人よりも欠けて……あるいは歪んでしまっているだけだ。それをオレは誰よりも知ってる。
「恋愛対象になんて成らないよね?」
「っ……あぁ」
大嘘だ。だからこそオレは迷っているんだから。
「オレにとって雪奈は大切な妹だから」
それだけじゃない。それでもオレにはこうとしか言えない。嘘つきが言うただ一つの本当。
「うん……分かってる。お兄ちゃんには私はそういう対象に見れないよね」
違う。泣きそうな雪奈にそう言いたい。でも言えない。言うわけにはいかない。
「あぁ……オレ達はずっと兄妹だ」
それがオレの出した答え。選べないと思った時に自分で決めた真実。
「……うん。分かった」
長い沈黙の後、雪奈は確かにそう言った。
「私達はずっと兄妹だよ」
どこか吹っ切れたように雪奈は言う。
(……これで良かったんだよな?)
雪奈の顔はどこか笑っているようにも見える。
ズキッ
胸が痛む。どうしてだろう? 雪奈は今笑ってるのに。
「だから……改めて言うね」
「何をだよ?」
「大好きだよ」
「……馬鹿だよお前は」
「えへへ……」
雪奈の真意は分からない。それでもただ言えることはある。
(……これからもこいつに振り回されていくんだろうな)
いつの間にか雨は止んでいた