虫になっていく公爵令嬢は春の夢を見る
目が覚めると、右手に違和感を覚えた。
感覚がおかしい。右手の感覚はあるのだけれど、いつもと何か違う。……まるで関節の位置が変わってしまったような……。
ベッドに横たわったまま、右手を持ち上げて、「ひっ!」と声を上げてしまった。
右手が真っ黒で硬質な殻に覆われて、指には見慣れない節がいくつもあった。まるで虫の脚のような……。
「アウレリア様、どうかされましたか?」
部屋の外から侍女のアンネの声がした。
私は返事をすることができなかった。
ここは王宮の中だ。私は公爵令嬢アウレリア・エーベルハルト……。決して虫なんかではない。王太子であるラインハルト・ローゼンハルト殿下と婚約し、王太子妃教育を受けるためにここにいる。
私が黙っていると部屋の扉が開きかけた。
アンネが異常を察知して入ってこようとしているのだ。
「入ってこないで!」
私が叫ぶと、扉が動きを止めた。まだアンネは顔を見せていない。
こんな腕を人に見られたらどう思われるか……。
公爵令嬢という身分だけでも人からは敬意を払われるが、私は自分の容姿にも少なからず自信を持っていた。だからこそ、ラインハルト殿下も私との婚約をすぐに決めてくださったはずだった。
腕だけでも、こんなに醜くなるなど、私には受け入れられなかった。
「今すぐ宮廷医師を呼んでくださる?」
私はアンネに呼びかけた。
「何があったのですか?」
アンネが尋ねてきた。
「体調が優れないの。お願い」
私が懇願するように言うと、すぐにアンネが駆け出す足音が聞こえて少し安堵した。
私はベッドから身を起こし、鏡台の前に行き、恐る恐る鏡を覗き込んだ。
鏡に映っていたのは、美しい金色の髪に青い瞳、きめの細かい肌だった。美しく品のある美貌だ。
私はまた少し安堵した。
最悪の場合、治らなかったとしても、右手だけなら隠し切れるだろうか。
「入ってもよろしいですかな?」
部屋の外から男性の声がした。宮廷医師だ。
「はい。医師の先生だけお入りください」
扉が開き、見慣れた顔の医師バルタザールが中に入り、扉を閉めた。
「どうされました?」
私は隠していた腕を差し出した。
バルタザールは目を見開いて私の腕を見た。
「これは……?」
「今朝目が覚めたらこんなことになっていたのです。……いったい何なのでしょう?」
私は少なからぬ期待を込めて尋ねた。
「考えられることは、そうですな……」
バルタザールは少し考え込んだ。
「虫化病……ですな」
「虫化病……?」
私はその病名に穏やかでない響きを感じた。
「治癒は……できるのですか……?」
懇願する思いでバルタザールに尋ねた。
「病の進行を遅らせる薬がなくはないですが……完治は難しいでしょうな。大変申し訳ないのですが」
私は頭が真っ白になった。
一生、この醜い腕とともに過ごさなければならない……。
「薬を必ず毎日飲むようにしてください。それが、あなたのためです」
※
部屋から一歩も出ずに過ごした翌朝、私はまた違和感を覚えた。
恐怖のあまり、私は呼吸が荒くなっていることに気づいた。
世界の見え方が変わっていた。視界が広がり、少しぼやけているように見えた。
私は鏡の前に立ち、顔を見た。
視界はぼやけていたが、鏡に映っているのは私の顔のように見えた。
必死に目を凝らして見ると、その目はせり上がり、美しかった青い瞳には、蜂の巣のように無数の六角形の模様が浮かんでいた。
「い……いやっ!」
私は思わず声を上げた。
「アウレリア様……?」
アンネが外から声をかけてきた。
今回は不用意に部屋に入ってこようとはしなかった。
「何でも……ないわ」
私は何とか息を整え、答えた。
「お医者様をお呼びしますか?」
「ええ……お願い」
アンネが走っていく足音が聞こえた。
するとまもなく、乱暴に部屋の扉が開いた。
私が制止する間もなかった。
「アウレリア、どうしたというのだ? 部屋からも出ずにそんなに具合が悪いのか?」
部屋に入ってきたのはラインハルト殿下だった。
私は思わず右腕を隠し、顔を伏せた。
「はい、申し訳ありません……。お話しするのも辛くて、人にもお会いしたくないもので……」
私は殿下が近づかないよう祈った。
けれど、その祈りも虚しく殿下は私のほうに歩み寄ってきた。
「では話さなくともよい。その顔だけ見せてくれ」
「いえ……顔もむくんでいて……お見せしたくありません」
私は精いっぱい抵抗を試みた。
「ふふ……心配するな。顔がむくんだくらいでおまえの美しさは損なわれん。むしろ……可愛らしくなるともいうものだ。どれ……」
殿下がすぐそこまで迫っていた。
私は目を閉じて隠そうとしたが、せり出した瞳に阻まれ、まぶたを閉じることができなかった。
「ひっ……!」
私を見た殿下は後ずさった。
「……何なのだ、その目は……? 腕も……気色悪い……」
見られてしまった……。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなった。
「虫化病です、殿下」
ラインハルト殿下の背後から声がした。バルタザール医師だ。
「虫化病だと? こんなもの……化け物ではないか」
「これは病なのです、殿下。このような姿になられても、殿下の婚約者のアウレリア様に間違いございません」
「冗談じゃない……。化け物を王太子妃になどできるわけがない……。婚約は破棄だ」
ラインハルト殿下は足早に部屋を出ていった。
私は「化け物」と呼ばれたことが悲しくて泣きたかったけれど、虫の目からは涙も出てこなかった。
※
バルタザールの処方した薬はまったく効果を見せず、虫化は止まることなく進行した。
次の日には左手が、その次の日には両足が硬い殻に覆われた。動かすことはできたが、慣れない筋肉の動きに、まともに立ち上がって歩くこともできなくなった。
やがて声が掠れていき、人間らしい声ではなくなり、話すこともやめた。
私が声も発さなくなったことを心配して、アンネが部屋に入ってきた。ところが、私の姿を見たアンネは怯えて逃げ出し、二度と戻って来ることはなかった。
それも仕方のないことだと思う。長い間、私に仕え、王宮にまでついてきて世話をしてくれたアンネに、今までのお礼も言えなかったことが心苦しかった。
全身が殻に覆われていき、体が大きくなって着ていた夜着も破れた。脇腹のあたりからは、左右一本ずつ別の足が生えてきた。
口が前にせり出し、牙のようなものも生えてきて、美しかった私の顔が失われたこともわかった。
もう鏡の前に立ちたいとも思わなかった。
ただ一刻も早く死が訪れてくれるのが待ち遠しかった。
※
アンネが去ってから、公爵家の家族も誰ひとり訪ねては来なかった。
お父様は私が虫になってしまったことを知っているのだろうか。殿下に婚約を破棄されたことに腹を立てているだろうか。あるいは、お優しいお母様がこのことを知ったらきっと嘆き悲しむだろう。
それにしてもラインハルト殿下はなぜまだ私を王宮に残したままにしているのだろうか。こんな醜い虫など、追い出すか処分してしまおうと思わないのだろうか。
虫になった体で、なぜこんなことになったのだろう、と考える。
つい先日までは、私の未来は明るいはずだった。
右腕に変化が出た前日の夜、私はラインハルト殿下と夜会に出席していた。
多くの方々が、私たちを高貴な美男美女で理想的な二人だと褒めそやした。王国に私たち二人がいることが誇らしいとも言われた。
けれど、本当のところでは、手放しで幸せだったとは言えない、どこか不安なところもあった。今思えば、その不安が私の身体を蝕んだのかもしれない。
あの夜会で、ラインハルト殿下に近づくひとりの貴族令嬢がいた。確か、男爵令嬢のミレーヌ・ベルガーという名だったはずだ。
殿下と楽しそうにお話をしていたミレーヌは、ふと気づいたかのように私を見て、葡萄酒のグラスを手渡してきた。私が戸惑っていると、「王太子妃になるのだから、誰でも親交を持たねばならん」とラインハルト殿下に言われ、私はグラスを受け取らされた。
お酒が苦手な私は、葡萄酒をひと口飲んだだけで気分が悪くなった。そんな私を、殿下とミレーヌは笑った。
私は殿下がミレーヌのことを愛しているのだということはわかっていた。けれど、それで嫉妬を覚えることはなかった。殿下を責めようとも思えなかった。
公爵家と親交の深いアルテンブルク伯爵家の次男、フローリアン・アルテンブルク——私もまた、ラインハルト殿下ではなく、別の男性を愛していた。婚約してからは、フローリアンとはなるべく顔を合わせないようにしてはいたけれど、それでもどこか後ろ暗い気持ちがあった。
虫となった今、婚約破棄を告げた殿下よりも、フローリアンのことばかりを思い出していた。
彼は子どもの頃、「アウレリア様の護衛騎士になる」と言った。その頃からフローリアンのことが大好きだった私は、それがとても嬉しくて、「絶対に、約束よ」と答えた。
けれど、その約束は果たされることなく、フローリアンは王宮に勤める騎士となり、私は家同士の都合に従って、ラインハルト殿下と婚約をした。
これは、きっとその罰なのだと思った。婚約者がいながら、別の男性を愛した私への罰。そして、幼い頃の約束を守らなかった罰。
それならば、私はその罰を受け入れようと思った。
殻の中で体がむず痒くなってきて、不快だった。このまま気が狂ってしまえばまだ楽なのに、むしろ意識は鮮明なままだった。
「アウレリア様……」
私の名を呼ぶ懐かしい声がした。
ここにいるはずのない、フローリアンの声だ。
いよいよ死が近づいて、幻聴が聞こえるようになったのだろうか。最後に聞く声がフローリアンの声であることが嬉しかった。
そのとき、部屋の中に入って来る人影があった。
幻聴などではなかった。本当にフローリアンなのだ。けれど、今の私の目では視界がぼやけたようになって、大好きだったフローリアンの顔もはっきりと見ることができなかった。
「黒い甲虫……」
フローリアンが呟いた。
私はその虫の名前を知っていた。
子どもの頃のフローリアンの好きな虫だったから。
そして、私も大好きな虫だったから。
けれど黒い甲虫そのものになっても、少しも嬉しいとは思わなかった。
「アンネに聞いて来たのですが……本当に、虫になってしまわれたのですね……」
フローリアンにだけはこんな姿の私を見てほしくなかった……。
「このようなお姿になって、私の言葉はわからないかもしれませんが……きっと大丈夫です。……ラインハルト殿下があなたと婚約破棄をしたのでしたら、僕があなたと一緒におります。このような姿になろうと、アウレリア様はアウレリア様なのですから」
何の冗談かと思った。こんな姿の私がアウレリアであるはずがない。
どうか放っておいてほしいと思った。
「きっと大丈夫です。あなたは黒い甲虫なのですから。暑い夏に耐え、寒い冬を越えるのです。どうか生きる希望だけは失わぬよう……」
私には「大丈夫」だと繰り返すフローリアンの言葉がひどく虚しく聞こえた。
私の心は決して大丈夫ではなかったから。
フローリアンにまで、醜くなった私の姿を見られてしまったのだから。
※
フローリアンと入れ違いに、ラインハルト殿下がやってきた。誰か女性らしい人影を連れてきている。
いよいよ私を処分する気になったのだろうか。
「何これ。気持ち悪い!」
女性がラインハルト殿下に甘えるようにしがみついた。
私の目にはその顔がぼんやりとしか見えなかったが、その声でミレーヌであることがすぐにわかった。
「これはあのアウレリアだぞ。おまえがあの女をこんな姿にしたのではないか」
……? 殿下は何を仰っているの?
「あら。私はラインハルト殿下のご指示に従って毒液を飲ませただけではないですか」
毒液? どういうこと?
まさか……。
「おい、不用意なことを口にするな。聞かれたらどうする」
「うふふ。面白いことをおっしゃいますわね。虫が人の言葉を理解するはずがないではありませんか」
そうだ……。ミレーヌが私に渡した葡萄酒に毒液が混ぜられて、虫化病を発症させられたのだ……。
ラインハルト殿下とミレーヌが邪魔な私を排除して、一緒になるために……。私はフローリアンのことを諦めたというのに……。
そう考えると、ひどく惨めで悔しかった。
「虫のことを言っているのではない。誰か他の者に聞かれたら面倒だと言っているのだ。ようやく処分できるというのに」
「本当に……公爵家の方々がうるさかったですわ。虫になった娘を返せだとか、どうかしているのではないかしら」
「うっとうしいやつらだった。むやみに逆らわなければ、虫化した者を人間と扱わず、身分や財産も認めず、傷害も殺処分も認める法まで作ることもなかったものを。ふふ……。しかし本当に虫になるとは。苦労して毒液を手に入れたかいがあった。これで手を汚すことなくアウレリアを排除できたのだから感謝するところだ」
「あら。殿下もおしゃべりが過ぎるのではないですか?」
ミレーヌが非難すると、ラインハルト殿下は声を上げて笑った。
「ははは。参ったな」
そして、殿下はベッドに横たわったままの私のほうに歩み寄ってきた。
「おまえがいつまでもこんなところにいるから、俺たちがいちいち言葉にも気を使わねばならんのだ」
ラインハルト殿下は突然、憎しみを露わにして、私を長靴の爪先で思い切り蹴った。
私は驚いて、思わず殿下を牽制するように足を動かした。
「いやっ! 動いたわ。気持ち悪い!」
ミレーヌが悲鳴のような声を上げた。
私のことを、とにかく気持ち悪いとしか思っていないようだ。
「思ったより硬いな。剣でも斬れぬかもしれぬ。騎士たちに処刑……いや、処分方法を考えさせよう。俺たちの手でとどめを刺したいところではあるが」
※
私は、フローリアンの腕に優しく抱きかかえられ、運ばれていた。
私は自分が虫であることも忘れ、どこか幸せな気分になった。きっとフローリアンは、私が人であっても虫であっても、同じように優しく抱きかかえてくれるのだろうと思った。
それは、ずっと私が夢見たことだった。皮肉にも、虫になって初めて叶った夢だった。
最期のときに、フローリアンの腕の優しさを感じることができて、私は生へのわずかな未練も捨てることができた。
ラインハルト殿下やミレーヌは言うまでもなく、他の衛兵や騎士たちも、巨大な虫となった私を気味悪がり、運ぶことを拒否した。
ただひとり、フローリアンだけが、私を運ぶことを自ら申し出たのだ。
「フローリアン、おまえは剣でその虫の首を斬ることができるか?」
ラインハルト殿下がフローリアンに尋ねた。
「いえ、無理です」
「ああ。おまえはアウレリアと親しかったか。そんなおまえにこそ、アウレリアの息の根を止めてやるのも愉快だと思っていたのだが。王宮騎士ともあろう者が、虫すら斬れぬとは情けないのではないか?」
蔑むように問い詰める殿下に、フローリアンは表情も変えずに答える。
「そういうことではございません、殿下。甲虫の外殻は剣で斬るには硬すぎて、剣のほうが折れてしまうでしょう」
「では斧か槌で砕くか?」
「いえ、我々の……人間の武具や道具ではどうにもできないでしょう」
「人間よりも虫のほうが優れているとでも言うのか? たとえ虫のほうが硬くとも、人間には知恵があるではないか。この気色悪い虫を処分する方法を考えるのだ。人間様のほうが優れていることを示せ」
「知恵を示すということであれば……。考えはございます」
「何だ?」
「火で炙り、氷水で冷やすのです」
フローリアンの言葉に、ラインハルト殿下が笑みを浮かべたように見えた。
「ほう、どういうことだ?」
「火でも甲虫の外殻は燃えません。ですが強く熱し、柔らかくなります。それから、冷やすことで、外殻は簡単に割れるように変質します。そうすれば、この虫は粉々にできるでしょう」
「ほう。それならば俺でも息の根を止めることができそうだな」
ラインハルト殿下は笑みをいっそう大きくした。ぼんやりとしか見えてはいなかったが、その笑みはきっと残忍な笑みだ。
私には、その顔が虫の私以上に醜いもののように思えた。
私は王宮前の広場に運ばれ、地面に横たえられた。
異様な雰囲気を察して、周囲に人々が集まってきた。
「王都の民よ、見るがよい。この醜い姿の虫を! これは虫化した、かつての私の婚約者、アウレリア・エーベルハルトだ」
ラインハルト殿下が群衆に向かって叫んだ。
群衆がどよめく。
「婚約者であるアウレリアがこのような姿になり、私は胸が引き裂かれそうな思いだ。だが、この王国で、ただ害となるだけの虫化した人間が、人として扱われることはない。よって、ここで処分する」
殿下に促された衛兵たちが、地面に枝を敷き始め、火をつけた。
フローリアンが私を抱きかかえ、火のついた枝の上にそっと乗せた。
「少しだけ、ご辛抱ください」
フローリアンが、私にだけ聞こえるように、小さな声で言った。
少しだけ我慢すれば、私はこの醜い生から解放されるのだ。
やがて火が大きくなり、強い熱を感じて、私はもがいた。
私の様子を見ていた群衆から悲鳴が上がった。
「気持ち悪いわ……。このまま燃えてなくなってしまえばいいのに」
それはミレーヌの声だった。
火は熱かったが、痛みのようなものは感じなかった。
フローリアンがラインハルト殿下に説明していたように、ただ熱するだけでは私の体は死なないようだった。
「よし、もういいだろう。氷水だ」
続けて、フローリアンが私の体を抱え上げ、大きな桶に入れた。
桶には氷が敷き詰められ、私の体は急速に冷やされていった。
氷は次第に溶けていき、水となって、口の下のあたりまで上がってきた。このまま水で息ができなくなって死ぬのかもしれないと思った。
冷やされた殻の中で、急に体がむず痒くなった。
視界が薄れていき、やがて何も見えなくなった。
耳の感覚も薄れ、外の声がくぐもって聞こえるようになった。
いよいよ、終わりなのだと悟った。
「俺がとどめを刺してやる」
私が弱っていく姿に、高揚したのか、ラインハルト殿下の声が弾んでいた。
フローリアン……さようなら……。
お父様とお母様にも、もう一度だけでもお会いしたかった。
パキッと音がして、体に振動があった。
痛みはなかった。
「いやっ! 汚い!」
聞こえたのはミレーヌの声だった。
「くっ……体液がついたではないか」
ラインハルト殿下の声もした。
「いやぁー! 私の手が……黒くなっているわ! で、殿下の顔も黒く……。こんなの……」
「何だ、これは!? くそっ! 止まれ! バルタザールはいるか! 薬を持ってこい! 虫化を止める薬だ! 早くしろ!」
「殿下、何とかして!」
「うるさい、ミレーヌ! 今、薬が来るから大人しくしていろ」
「早くして! 虫になんてなりたくない!」
私はまだ生きている。
ラインハルト殿下とミレーヌが騒ぐ声と群衆の悲鳴が聞こえる。
何が起きているの……?
駆け出す無数の足音が聞こえた。
ラインハルト殿下とミレーヌの身に何かが起き、群衆が広場から逃げ出しているようだった。
やがて、無数の足音が消え去り、ひとつの足音だけが近づいてきた。
パキパキッと音が続き、眩しい光が目に飛び込んできた。
「助けに参りました。アウレリア様」
フローリアンの声だった。
「あなたの護衛騎士のフローリアンです」
※
フローリアンが砕いた殻の中から、私は起き上がった。
視界が戻っていた。真っ先に自分の右腕が目に入った。そこに黒い甲殻はなく、白い肌の人間の腕だった。
私は顔を上げた。
あのフローリアンの優しい笑顔が、はっきりと見えた。
次の瞬間、ハッとしたフローリアンが、上着を脱いで私に着せた。
私は裸だった。恥ずかしくなって上着で体を隠した。けれど、虫になった姿をフローリアンに見られたときの恥ずかしさとは違った。
「フローリアン……」
声が出た。人間の声だった。
「アウレリア様……よくご辛抱いただきました」
私は二本の腕で、フローリアンに抱きついた。
フローリアンは私を抱き返した。とても優しい腕だった。私が虫であったときと、まったく変わらない優しさだった。
その腕の温もりを感じる私は、人間だった。
広場には、私たちの他に、人間ほどの大きさの二匹の黒い甲虫らしきものがいた。
変異の途中なのか、黒い甲殻の中に、まだらに人間の肌が残っていた。
「何があったの……?」
視界を失ってからのことがわからなかった私は、フローリアンに尋ねた。
「ラインハルト殿下が勢いよくアウレリア様の外殻を破ってしまい、外殻の中に溜まっていた毒液が吹き上がって、ラインハルト殿下と、近くにいたミレーヌがその毒液を大量に浴びてしまったのです。そのうえ、お二人とも虫化が進んでから虫化抑制剤を飲んでしまったので……。この状態ではもう『脱皮』もできないかもしれません」
「脱皮?」
「黒い甲虫は脱皮して、環境により適応した体を得るのです。僕は長年観察していたので、その生態をよく知っていました。夏の熱と、冬の冷たさを経て、春になると内側から殻を破ります。その生態を知っていたからこそ、殿下がアウレリア様の処刑を断行しようとしたときに、アウレリア様が『脱皮』できるよう一計を案じたのです。アウレリア様が人間として戻られるかどうか確信があったわけではないのですが……」
「それで、私は熱されたり冷やされたりしたのね」
「申し訳ございません」
「なぜ謝るの? こうして助けてくれたではないの。私は感謝しかないわ」
フローリアンに連れられ、公爵邸に戻った私を、お父様とお母様は、泣きながら迎えてくださった。それと同時に、「もう二度と王家とは関わらせない」とお父様は言った。
私は虫化病を患いながら、人間に戻ることができた。
それを根拠に、殿下が成立させた、虫化した人間の権利を奪う法を撤廃するよう求め、王宮はそれを受け入れた。
ただ、法の撤廃が決まる前に、国王陛下はラインハルト殿下の廃嫡を決定しており、後に判明した彼らの罪もあったことで、王太子の地位がラインハルト殿下に戻ることはなかった。
ミレーヌも同様に、男爵令嬢の地位を失い、それを取り戻すことはなかった。
広場に人々が戻ってくると、のそのそと動くラインハルト殿下とミレーヌはからかいの対象となり、子どもたちは乱暴に棒で打ちつけたりもした。
けれど、誰もそれを咎めなかった。
虫を人として扱う必要などない。虫化した人から人権を奪ったのはラインハルト殿下ご自身なのだから、仕方のないことだったかもしれないが、一度虫になった私の胸は少し痛んだ。
殿下とミレーヌをいじめる者を目にすると、私は「虫にだって心はあるのですよ」と、たしなめた。
虫化病を誘発する薬液がラインハルト殿下の部屋から発見され、私にそれを飲ませたことも明るみになった。
バルタザール医師も共謀しており、私に継続的に飲ませていたのは、虫化抑制剤ではなく、虫化を促進させる毒液であったことも判明した。バルタザールによると、虫化抑制剤は虫化する前に飲めば効果が出るが、虫化が進行してから飲んでしまうと、その状態で固定されてしまう効果があるようだった。殿下もミレーヌも、もう二度と人間には戻れないようだった。
バルタザールも、殿下やミレーヌと同じく職を追われ、財産も奪われ、犯行の悪質性から投獄されることとなった。
「以前もお美しかったですが、脱皮してより美しくなられましたね」
フローリアンは私の姿を改めてまじまじと見て、そんなことを言った。
確かに、脱皮した後の私の肌は以前よりもつやつやとして、体も健康になったように感じられていた。
「ねえ、フローリアン……」
「何ですか、アウレリア様?」
「私、あなたに答えていなかったことがあったわね」
「……何のことですか?」
「私と一緒にいるって言ったわよね? 私は婚約破棄されたのだから、って」
それまで落ち着いて話していたフローリアンが狼狽えた。
「まさか……聞こえていたのですか!?」
「ええ。全部ね。あなたは私が虫でも構わないと言っていたわ」
「……はい。僕はアウレリア様の外殻を見ていたのでも、お美しい容姿を見ていたのでもありません。ずっと、そのお美しい魂を見ておりました」
「あら、私は人間の女性としては魅力がないみたいに聞こえるわ」
フローリアンはまた気まずそうに苦笑いした。
「僕は黒い甲虫のアウレリア様も、人間のアウレリア様の容姿もお美しいと思っておりますよ、本当に」
「何だか納得いかないわ」
私は少しむくれた。
「僕たちは、厳しい季節にさらされました。アウレリア様がラインハルト殿下と婚約されてから、僕は辛い気持ちをずっと抱えておりました。ですが、それも、こうして春を迎えるための試練だったのだと思います」
「そうね……。きっとそう」
私は小さく息を吸った。暖かい空気が胸に広がった。
「フローリアン、私もあなたと一緒にいたいわ」
私たちは顔を見合わせて、小さく微笑みあった。
肌に触れた、暖かい春の風が心地よかった。
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