鉛の盃
作中に特定の病気に関する記述がございますが、あくまでもフィクションということで。
誤字報告ありがとうございます。特にH様、いつも重ね重ねお手数おかけしまして。感謝しかございません。
「学園在学中は、自由にさせて欲しい」
婚約者がそんなことを言い出したのは、学園に入学した次の日のことだった。王族専門の小部屋での昼食中の話である。
「どういう意味でしょうか?」
饗された白身魚のポワレを口に運んで咀嚼し、飲み込んでから問う。さすが派遣された王宮の料理人。繊細な味わいだ。
「昨日、幼馴染と再会したのだ」
わたくしの婚約者はこの国の王子である。先年、王太子となったセレスタン殿下だ。
「それは、よろしゅうございました」
セレスタン殿下は幼少時、王宮より遠い王領にて過ごされていた方だ。幼馴染というのであれば、その頃の知己であろう。学園には国中の貴族の子女が集められるのだから、再会も不思議ではない。
「彼女は、私の初恋の人だ。再会した彼女は昔と少しも変わらずいてくれた。だから私も、学園在学中はただのセレスタンとして彼女の前にありたいと思う」
「それは、わたくしとの婚約を解消したいとおっしゃいますの?」
「いや、それは違う。君は王命で定められた婚約者だ。君以上に王妃にふさわしい女性はいない。卒園後には婚姻も控えており、それを覆すことはできないとも承知している」
「王太子としてでなく、一人の男性として、その幼馴染の方の前でだけは、振る舞われるということですの?」
肉料理の前に口直しとして出されたライムのソルベすら、殿下の発言の酸味には勝てなかった。
「そうだ」
「学園在学中は期間限定の恋人として在ることを許せと?」
「……そういうことになる」
婚約期間は、互いを知り、生涯を共にする覚悟を育てるためにあると思っていた。この場合、学園在学中の三年間がそれにあたる。その貴重な時期を他の女と費やすのを許せとは、なんという傲慢か。
「お返事は家に持ち帰り、父と相談してからといたします」
「そんな大事にする必要はないのだ。君さえ受け入れてくれればよい」
「大事ですとも。少なくとも、我がドーヴェルニュ家にとっては。授業が終わり次第、我が家に同行していただけますか? そうでない場合、わたくしが殿下の提案を呑むことはございませんが。逆に申し上げますと、父が承諾すればわたくしは従いましょう」
「……分かった。公爵を説得しよう」
殿下には勝算があったのかもしれない。男性同士の連帯感で、「若い男にはありがちなことだから大目に見ろ」とわが父が言い出すのではと。
実際、父はそうわたくしに発言し、だからこそわたくしも同意した。殿下は晴れやかなお顔で王宮へと戻られ――。けれどその時には既に決着はついていたのだ。
「ベランジェール! 貴様、エリーズに手を出したのか!?」
翌朝に登校すると、形相を変えた殿下に詰め寄られた。
「おはようございます殿下。どうかなさいましたか?」
目は充血して赤く、髪も服装も乱れて、いつもの殿下ではなかった。
「昨日、エリーズが授業後に倒れて意識不明らしいのだ! 貴様が何かしたのであろう!?」
「落ち着いてくださいませ。わたくしはその方のお名前すら初めてお聞きしましたのよ? どこのどなたかも存じ上げません。ましてや、昨夜でしたら晩餐まで殿下とご一緒したではありませんか」
昨日は帰宅する父を待って、公爵家での晩餐の席で父と殿下の話し合いがされたのだ。
「それは、そうだが! しかし貴様であれば誰かに手を下させることもできよう!」
「……殿下。それは、わたくしがどなたかに害を為したとおっしゃっていますの? 事情のひとつも知らないわたくしが? そもそもその方が倒れられた原因なども判明しておりますの? 思い込みでわたくしを責められているのではありませんか?」
「原因は不明だ! だが貴様が関与しているに違いない! ええい、一緒に来い!」
激高した殿下に連行されるように、わたくしは王家の馬車に乗せられ、王宮の一室まで導かれた。そこではひとりの同年代の娘が寝台に横たわっている。
「殿下、女性の寝室に男性が入られるのは」
「今はそれどころではない!」
期間限定とはいえ恋人として過ごすことを婚約者の家から認められたと伝えるため、朝早くから寮住まいの彼女を訪れた殿下は、彼女が昨夕に倒れて学園の救護室に運ばれたと知ったようだ。殿下は彼女を王宮に運ばせ、王宮の医師に診察させるように手配したとか。犯人をわたくしだと決めつけて、授業を受けようとしていたわたくしを捕まえて連行したのだと。
「昨日の朝、会ったときは普通だったのだ! 貴様が毒でも盛ったのであろう!?」
「ですから、わたくしはこの方を知らないのですよ。しかも父に静観を命じられましたから、そもそも害する理由がございません」
「そんなもの、醜い嫉妬に駆られてであろう!」
嫉妬など、恋情があって初めて生まれるもの。殿下はわたくしが心を寄せていると疑っておられないとしたら。やはりなんとも独善的だ。
寝台の彼女の周囲には医師が複数で治療を行っている。わたくしはその中の一人に声を掛けた。
「どなたか、その方の容態と原因を説明していただけません?」
すると、おそらくは責任者であろう初老の男性がわたくしと殿下に一礼する。
「恐れ多くも、わが国の太陽たる――」
「挨拶は不要だ! 彼女がどうなっているかだけ述べよ!」
医師は部下から渡された紙片に目を落としながら説明を始めた。
「令嬢は毒の投与で倒れられたわけではありません。いえ、毒と言えば毒ではあるのですが、原因は判明しております。血中の濃度から、鉛中毒と診断致しました」
「鉛中毒!?」
「はい。我が国には鉱山もございませんので、その被害もこれまで国内では報告されておりませんでしたが、他国では深刻な事態を引き起こしております。長い年月、鉛を摂取いたしますと、体内に蓄積されて人体に害を与えます。手足のしびれや貧血、だるさや歩行困難、思考力の低下など。症状が重くなりますと、ご令嬢のように意識混濁からの昏睡を引き起こします。軽度であれば治療方法もございますが、完治は難しく、後遺症が残ることも多いのが鉛中毒です。正直、ここまで重症ですと、我々には打つ手がございません。ご令嬢の意識が戻られることはなく、このまま衰弱して亡くなられるでしょう。至急、ご家族に連絡を」
「死ぬ? エリーズが死んでしまうのか?」
「はい。おそらくそう遠くなく」
「昨日あたりに毒を盛られたのではなく?」
「急性中毒が引き起こされる場合もありますが、ご令嬢は何年もかけて中毒に至られております」
「では、ベランジェールは関係ない?」
「ございません。昨日今日のことではありませんので」
侍医と話されているうちに殿下の顔色はどんどんと失われ、最後には膝をついてしまわれた。両手で顔を覆い、その指の間からとめどなく涙がこぼれる様子から目を逸らす。処置無し、と医師たちが離れたので、令嬢の顔がわたくしの位置からでも見えるようになった。枕に広がる赤みの強い金髪。対してその顔色はどこまでも青白く、唇からさえも赤みは失われていた。おそらくは目を開ければ愛らしいであろう容貌は苦し気に歪んだまま。かすかにシーツが上下して、彼女がかろうじてこの世に留まっていると教えていた。けれど。医師の言うように長くはないだろう。
わたくしは聞こえていないのは承知で殿下に暇を告げて、部屋を出て宮城の廊下を歩く。手配させた馬車までを急ぎ、公爵邸まで戻って自室に至るまで、とてつもなく長い時間が掛かった気がした。
人払いをしてようやく一人になると、わたくしは固く閉じていた唇からごく小さな声を漏らした。
「時間が掛かりすぎたわ」
本来であれば学園の入学以前に決着がついている予定だったのだ。おかげで殿下とみすみす再会させてしまった。
おそらくエリーズ本人も体調が悪い自覚はあっただろう。けれど。身分差もあって学園以外ではもう殿下に会うことはできないから。おそらくその一心で入学してのけた。
「恋とは執念なのかもしれないわね」
犯人は殿下の予想通り、わたくし、そして公爵家である。
だが、それのどこが悪いというのか。
わたくしは公爵家の娘と生まれ、そうして次代の王妃として育った。だが婚約はすぐには結ばれることなく、昨年ようやく十四歳でセレスタン殿下が相手と決まる。
これは王家の事情によるものだ。セレスタン殿下は側妃の子である第二王子だ。そのため、正妃に命を狙われて王領へと逃がされて育った背景がある。
正妃の子である第一王子、そして第二王子たるセレスタン殿下の、どちらの陣営からも、我が家から王妃を出すことを望まれていたので、我が家は正式に王太子が選ばれるまで、どちらの味方もせずに静観の姿勢を取った。
だが、何の手も打っていないわけではない。どちらの王子が相手であろうと、王太子妃から王妃に至るわたくしの道が平らであるよう、路傍の石は排除してきた。
結果として王妃並びに第一王子の失脚があって、セレスタン殿下が王太子に選ばれたが、そのまま第一王子が王太子になっていたとしても、周辺の掃除は済ませていたのだ。
両王子の周囲の情報はすべて我が公爵家の知るところであった。しかし、その情報はどちらかを王位へ押し上げるためでなく、あくまでもわたくしが王妃となるためだけに使われる。そう、例えばセレスタン殿下の淡い初恋相手の幼馴染の娘をゆっくりと害していったように。
王領の隣には小さな男爵家があって、その家の娘は領境を越えてあちこち駆け回るような快活な気質で、母と引き離されて王領に滞在することになった幼い王子の良い遊び相手となった。そのおかげで、鬱屈していた王子は健全な精神を得るに至る。そうなれば、王子にとってその少女がどれほど掛けがえのない存在になるか予想がつくというもの。
その情報を得ていたために、公爵家は動いた。王子がまだ王領に滞在している頃から。
ある時、男爵領に一人の行き倒れがあった。路銀が尽きて飲食にも困って力尽きたらしい。善良な男爵夫妻は男を介抱して、療養を兼ねて男爵家に逗留させた。色々な土地を旅してきたという男は大層な話上手で、すぐに男爵家に溶け込んだ。身体が癒えると旅立つ前に、彼は男爵家の家族の前に取り出した盃を渡した。
「これは異国由来の盃です。本来ならば貴人の家でまとまった数で使われるものが三客しかなかったために格安で入手できたものです。売るにも中途半端で売れず、けれど美しいので手放すこともできずにいましたが、やはり貴族の方が使われるにふさわしいもの。どうぞ受け取ってください」
それは金属に彩色した美しい高足付きの盃だった。
「なんでも、その異国ではこの盃で温めた葡萄酒に砂糖を加えたものを好んで飲むそうです。こんな風に」
と、薄めた葡萄酒を温めて盃に注ぎ、砂糖を混ぜたものを三人に渡した。飲んでみると酒の度数も低く、子供にも飲みやすい風味がして、三人はたちまち飲み干してしまう。
「お気に召したようですし、また葡萄酒を送りますね」
約束通り男からは毎年葡萄酒が届くようになった。高額で取引されている砂糖も必ず添えられていたので、夜ごと家族三人で彼のことを語りながら件の盃を傾ける習慣ができることになる。
遠い異国の、大層栄えたと言われる大国を滅ぼしたという逸話を、国の片隅の小さな男爵家の誰も知らなかった。家族の団らんのことであるから、娘も特に王子に話すこともなく。ただ親切な旅人から今もお礼が届くのだくらいは話題にしたかもしれない。教えられた葡萄酒の飲み方を仮に王子にも勧めたとて、器が違えば何の問題もなかった。
旅人は勿論、公爵家の仕込みである。表立って公爵家の名が出ぬよう、時間と手間は掛けた。
心を寄せた幼馴染。低位とはいえ一応は貴族の娘だ。側妃にすら身分が足りないが、愛妾として寵愛される可能性は高い。そうして正妃となるわたくしが蔑ろにされれば、公爵家が侮られる。その可能性は潰さねばならなかった。まだ芽のうちに。
数日後、エリーズ嬢は帰らぬ人となり。それからひと月ほど殿下は学園も休まれて公に姿を現されなかった。
ようやく復帰された折には、まだ酷く憔悴されてはいたが、決して出過ぎぬ距離でお支えするうちに心も身体も回復していかれたようだ。
「ベランジェール。君には酷い態度を取った。どうか許して欲しい」
「まあ殿下。大切な方が倒れられましたら、焦ってしまうのも当然ですわ。許すも何もございません。エリーズ嬢はお気の毒でしたが、最後に殿下とお会いできたのですもの。今は安らいでいらっしゃると良いのですけれど」
「エリーズに花をありがとう。きっと彼女にも届いたと思う。私がふさぎ込んでいる時にも、心のこもったカードで会えずとも君が寄り添ってくれていると感じた。君がいてくれたから、私はまた前を向こうと思ったのだ。これからも私を支えてくれるだろうか?」
「もちろんですわ、殿下。わたくしの全てで、殿下をお支えしてまいりますわ」
殿下に恋はしていない。けれど。共に国を治めるため生涯添い遂げるのであれば。それは幼い恋よりもはるかに、確かな愛の形となるのかもしれない。
数か月後、ひとつの男爵家がなくなった。娘を失くした後に男爵夫妻も後を追うように亡くなったためだ。係累はおらず、爵位は国に返還された。そのかつての邸のどこにも、異国から来たという盃は発見されなかったという。
学園滞在中に自由恋愛させろと言う王子、というテンプレに鉄槌。そういう思いで書き始めたのですが。めっちゃ黒いよ、公爵家!
遅効性の毒ってなんかなかったかなあ、と記憶を探って鉛中毒に思い至りました。ローマが滅んだ原因とも言われる、あれです。実際にそうなのかは正確なところは不明らしいですが。外側は華やかなエナメル彩色で、内側は磨いた鉛の盃をイメージしました。温かいものを注ぐと、そこに鉛の成分が溶け出して……。
当時はまだ葡萄酒にコクを出すために砂糖を加えていたらしい。正直、薄めて温めたワインに砂糖とか、あんまり美味しそうには感じないけれど。水が悪くてワインの方がマシって、背景があったにしろ。
異世界の鉛がこちらと同じ成分であるとは限りません。なので架空金属にしようかなとも思ったのですが、タイトルに持っていくならわかりやすい方が、ということで鉛をそのまま使いました。
鉛毒は白粉が有名ですが、こちらの方が内側から摂取するんで。あと、子供の方が吸収しやすいらしく。なので男爵夫妻はもう少し余命があった。ベートーベンも薬として鉛を取り込み続けてその中毒から聴力を失ったそうです。怖いね。
王太子になって婚約者が第一王子になったとしても、第一王子が情を傾けようとした侍女なども排除済みです。正妃の生家が没落したため政治基盤を失い廃嫡されましたが。




