第9話「触れられる側」
昼に近い光だった。
朝と呼ぶには遅くて、午後と呼ぶには早い。
どちらでもない時間は、どちらにも寄らない顔をしている。
広場は少しだけ騒がしい。
いつもより、という基準は曖昧だが、そう感じる。
声が重なっている。
笑いもある。
――多い気がする。
その“多い”は、数じゃない。
密度みたいなものだ。
近い。
全体が、少しだけ近い。
⸻
石を拾う。
今日は蹴らない。
理由はない。
ただ、そうしない方がいい気がした。
手の中で転がす。
ざらつきが指に残る。
感触がはっきりしていると、少しだけ安心する。
「珍しいな」
声がする。
すぐ近く。
「蹴らないのか」
振り返る。
そこにいる。
見慣れた顔、のはずだ。
けれど、細部は思い出せない。
それでも“いつもいる側”の人間だとわかる。
それで十分だ。
「なんとなく」
そう答える。
「外すの、好きだと思ってた」
「当てたことはない」
「じゃあ、外すのがうまいんだな」
少し笑う。
軽い笑い方。
遅れない。
ちゃんと、今の会話の上に乗っている。
それだけで、少しだけ“普通”に感じる。
⸻
「貸してみ」
手を出してくる。
石を見る。
少し迷う。
迷う理由はわからない。
でも、
渡す。
その方が自然だと思ったから。
石が手から離れる。
一瞬だけ、
感触が消える。
当たり前のことなのに、
妙に“軽くなりすぎる”。
空白ができる。
すぐに埋まる。
⸻
そいつは石を軽く放る。
受ける。
また放る。
リズムがある。
無駄がない。
「こうやると当たるぞ」
「当てる必要はない」
「いや、あるだろ」
笑う。
今度は少しだけ遅れる。
ほんのわずか。
気づくかどうかの境目。
それでも、
ちゃんと“笑い”として成立している。
⸻
「なあ」
石を握ったまま、こちらを見る。
「昨日のこと、覚えてるか」
唐突な問い。
少しだけ考える。
昨日。
広場。
石。
帳簿。
数。
八十七。
それ以外は、曖昧だ。
「覚えていない」
「そっか」
あっさり引く。
けれど、
その引き方が、少しだけ“期待していなかった”感じに見える。
「俺もだ」
続ける。
「でもさ、なんか変じゃないか」
「何が」
「減ってないのに、減ってる感じ」
言葉が、少しだけ重い。
今までと違って、ちゃんと形を持っている。
逃げない。
消えない。
そのまま、そこにある。
⸻
答えない。
答えたくない、わけではない。
ただ、
どちらを選んでも、何かがズレる気がする。
「なあ」
もう一度。
「八十七って、多くないか」
初めて聞く言い方だった。
多いかどうか。
考えたことがない。
“合っている”かどうかだけだった。
「……わからない」
そう答える。
少しだけ、遅れて。
「だよな」
笑う。
今度は、ちゃんと今に合っている。
自然に。
違和感がない。
だから逆に、
さっきまでのズレが、ほんの少しだけ残る。
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石が戻ってくる。
受け取る。
重さがある。
さっきよりも、少しだけ重い気がする。
理由はない。
そう感じるだけ。
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「なあ」
視線を外したまま、言う。
「もし減ったらさ」
そこで一度、止まる。
言葉を選んでいるような間。
「どうなると思う」
風が少しだけ吹く。
広場の音が揺れる。
遠くで誰かが笑う。
その笑いが、
一瞬だけ、
“どこにも属していない音”に聞こえる。
「どうにもならない」
そう答える。
正しい気がしたから。
そういう形に収まるから。
「……そうか」
納得する。
でも、
完全には納得していない。
その“残り”だけが、少しだけ見える。
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そいつは少しだけ伸びをする。
肩を回す。
動きが自然だ。
ちゃんと重さがある。
そこに“いる”感じがする。
それが、
少しだけ安心になる。
⸻
「俺さ」
不意に言う。
「さっき、自分の名前思い出せなかった」
軽く言う。
冗談みたいに。
でも、
笑わない。
「でも、別に困らなかった」
続ける。
「呼ばれること、あんまないし」
それは確かにそうだ。
ここでは名前を呼ぶことは少ない。
必要がない。
なくても成立する。
⸻
「変だよな」
今度は笑う。
ちゃんと笑う。
遅れもない。
普通だ。
普通すぎて、
その言葉とのズレが、少しだけ浮く。
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そのとき、
誰かが横を通る。
肩がぶつかる。
軽く揺れる。
「悪い」
声がする。
振り返る。
そこに、
“いたはずの人”がいない。
一瞬だけ、空白がある。
通り過ぎたはずの動きだけが残る。
でも、
すぐにわからなくなる。
最初から何もなかったみたいに。
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「今の」
そいつが言う。
少しだけ真剣な声。
「見たか」
「……見ていない」
答える。
少しだけ間が空く。
その間が埋まる。
自然に。
「そっか」
引く。
でも、
さっきよりも引き方が遅い。
何かを残したまま、やめる。
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広場を見る。
人がいる。
動いている。
数えられる。
数えなくてもいい。
八十七。
それで合っている。
⸻
「なあ」
最後に、もう一度。
「明日も、いるよな」
その問いは、
これまでで一番、形がはっきりしていた。
逃げない。
曖昧にならない。
そこに残る。
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少しだけ考える。
理由はない。
ただ、
すぐに答えなかった。
「いる」
そう言う。
短く。
それで十分だと思ったから。
⸻
「そっか」
笑う。
今度は少しだけ安心した顔。
その表情は、
今までで一番“人間らしい”ものだった。
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だから、
ほんの一瞬だけ、
“消えそうだ”と思った。
理由はない。
ただ、
そういう形に見えた。
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石を握る。
ざらつきが指に残る。
さっきよりも、はっきりしている。
それが、
なぜか少しだけ、怖い。
⸻
広場には人がいる。
八十七。
変わらない。
変わっていない。
そのはず。
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それでも、
さっきの問いだけが、
妙に残っている。
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明日も、いるよな。
⸻
その言葉だけが、
消えずに、そこにある。




