第8話「欠けない減り方」
朝は来ていたはずだった。
光がある。
それで十分な気がする。
目を開けたのが先か、起きていたのが先かは曖昧で、考える前に体が動く。水を飲んで、外に出て、少しだけ立ち止まる。理由はない。いつもそうしている気がするから、そうしている。
手を振る。
習慣みたいに。
向かいの窓。
――そこに、いる。
いるはずだ。
白い布が揺れる。
その奥。
一瞬だけ、影が動く。
遅れて、手が上がる。
振り返される。
少し遅れて。
ほんの少しだけ。
いつも通り。
いつも通りのはずなのに、
今日のそれは、どこか“間に合わせた”みたいに見えた。
最初からそこにいた感じが薄い。
あとから置かれたような、
そんな動き。
気にするほどでもない。
そう思う前に、もう歩き出している。
⸻
広場には人がいる。
いるはずの数だけ。
数える必要はない。
八十七。
それで合っている。
合っているものとして、そこにある。
石を蹴る。
外す。
笑い声。
二つ。
少し遅れて。
順番は崩れない。
「なあ」
声。
横。
「今日、早いな」
「そうか」
答える。
早いかどうかはわからない。
基準がない。
「さっき、見たか」
「何を」
「いや、いい」
途中でやめる。
言葉が形になる前に引っ込む。
最近、多い。
言いかけてやめる。
聞かないことで成立する会話。
それでも問題はない。
成立しているから。
成立してしまうから。
⸻
人の流れを見る。
動いている。
自然に。
無理がない。
その中に、
一つだけ、
動きの“前後が合っていない”ものがある。
気づいた瞬間、
それはもう普通になっている。
最初からそうだったみたいに。
「なあ」
また声。
「今、減ったか」
その言葉だけが、少し重い。
意味を持ちすぎている。
「減っていない」
即答する。
考える前に。
そう言った方が、整う。
「……だよな」
納得する。
納得してしまう。
その瞬間、
“何かが減った気がする感覚”が消える。
完全に。
最初からなかったみたいに。
⸻
役場に戻る。
扉を開ける。
中に入る。
帳簿。
開く。
ページ。
並び。
名前。
八十七。
変わらない。
指でなぞる。
ひとつ、
少しだけ空いている気がする間がある。
気のせい。
そう思うと消える。
最初から詰まっていたみたいに。
「合ってるか」
後ろから声。
「ああ」
「見てないだろ」
「見なくてもわかる」
「……そういうもんか」
同じやり取り。
何度目かはわからない。
わからなくても問題はない。
⸻
外に出る。
広場。
石。
蹴る。
当たる。
音。
静けさ。
笑い。
順番。
整っている。
――はずだった。
笑いが一つしかない。
もう一つが来ない。
待つ。
来ない。
来ないまま、成立してしまう。
“二つだった”感覚だけが遅れて消える。
最初から一つだったみたいに。
「なあ」
横の声。
「今、少なくなかったか」
「変わっていない」
答える。
少しだけ間が空く。
その間が埋まる。
自然に。
「……そうか」
納得する。
その瞬間、
“少なかった”という感覚が消える。
⸻
ふと、窓の方を見る。
遠い。
朝の場所。
あの窓。
白い布。
揺れている。
そこに、
“誰かがいたはず”という感覚がある。
顔は浮かばない。
形も曖昧。
ただ、
手を振られた気がする。
それだけが残っている。
もう一度、見る。
布だけが揺れている。
動きはない。
最初から、そうだったみたいに。
「……」
何か引っかかる。
引っかかるだけで、形にならない。
言葉にすると消えそうな感覚。
そのままにする。
その方が、残る。
――残っている気がする。
⸻
「なあ」
声。
少しだけ遠い。
「朝、誰かと話したか」
問い。
単純。
思い出す。
窓。
手。
遅れて振られる動き。
白い布。
その奥。
……誰か。
「……いや」
答える。
自然に。
迷いはない。
そう言った方が、整う。
「だよな」
納得する。
その瞬間、
“誰かと手を振った”感覚が消える。
跡もなく。
最初からなかったみたいに。
⸻
広場に立つ。
人がいる。
動いている。
数えられる。
一人。
二人。
三人。
途中でやめる。
最後まで数える必要はない。
八十七。
それで合っている。
そのはず。
そのはずなのに、
一瞬だけ、
八十七より多い気がする。
すぐに戻る。
八十七に。
戻ったことだけが残る。
多かった方は、
もうどこにもない。
⸻
石を蹴る。
外す。
笑い声。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
順番は崩れない。
崩れていないことになる。
そういう形に収まる。
収まってしまう。
⸻
空を見る。
色は同じ。
昨日と同じかどうかはわからない。
比べるものがない。
比べようとすると、基準が消える。
最初から同じだったことになる。
⸻
手を振った気がする。
誰かに。
朝。
窓に向かって。
その動きだけが、少しだけ残る。
理由はない。
相手もいない。
それでも、
振ったという事実だけが、形を保っている。
不自然に。
必要もなく。
消えきらずに。
⸻
もう一度、窓を見る。
白い布。
揺れている。
それだけ。
それだけで成立している。
最初から、
そこには誰もいなかったみたいに。
⸻
それでも、
手を振ったという動きだけが、
少しだけ遅れて、
自分の中に残っている。




