第6話「残らない」
気づいたときには、外にいる。
広場の端。
いつもの場所。
立っている理由は、思い出さない。
必要がない。
朝なのかどうかも、はっきりしない。
明るい。
それで十分だ。
足元に石がある。
軽く蹴る。
外す。
少し遅れて、笑い声が来る。
……二つ。
それで合っている。
順番も変わらない。
何も変わっていない。
はずだ。
「なあ」
声がかかる。
横を見る。
いる。
見慣れている。
はずの顔。
「帳簿、書いたか」
「ああ」
短く返す。
「何人だ」
「八十七」
言う。
間違いはない。
「……だよな」
少しだけ間がある。
何かを言いかけて、やめたような間。
でも続かない。
そのまま流れる。
違和感にはならない。
「なあ」
また声。
「昨日、何かあったか?」
唐突に聞かれる。
考える。
思い出す。
断片。
広場。
石。
影。
――そこで止まる。
それ以上が出てこない。
「何もない」
答える。
それで問題ない。
「そうか」
納得したように頷く。
それ以上は聞かない。
聞かないことで、何も起きていないことになる。
そのまま、石を蹴る。
当たる。
乾いた音。
すぐに静けさが落ちる。
その静けさの中で、
何かがひとつ、足りない気がする。
気がするだけで、数えない。
数える前に、どうでもよくなる。
視線を上げる。
広場。
人。
動き。
普段と変わらない。
変わらないはず。
なのに、
どこかに“空いた場所”がある気がする。
誰かが立っていた場所。
使われていた場所。
今は、何もない。
誰もそこを見ない。
避けてもいない。
ただ、最初からなかったみたいに扱っている。
「なあ」
横の声。
「そこ、邪魔じゃないか」
指をさす。
空いた場所。
「何がだ」
「……いや」
言いかけて、止まる。
「何でもない」
指を下ろす。
その瞬間、
さっきの“空いた場所”が、ただの地面になる。
最初から、何もなかったみたいに。
視線を外す。
考えない。
考える必要がない。
しばらく、何も話さない。
沈黙。
長く続いている気がする。
実際の長さはわからない。
途中が抜けている。
気づいたときには、
もう次の言葉が出ている。
「なあ」
同じ声。
少しだけ近い。
「井戸、使ったか」
視線を向ける。
井戸。
縄。
桶。
濡れている。
誰かが使った後。
さっきかもしれない。
もっと前かもしれない。
「使っていない」
「そうか」
それだけ。
終わる。
誰が使ったのかは、話題にしない。
必要がない。
そのまま、井戸から視線を外す。
外した瞬間、
“誰かがいたはず”という感覚が消える。
最初から、誰もいなかったみたいに。
役場に戻る。
歩く。
途中の記憶が途切れる。
気づいたときには、中にいる。
机。
帳簿。
開く。
ページ。
並び。
名前。
八十七。
変わらない。
指でなぞる。
昨日、止まった場所。
……何もない。
ただの並び。
空白はない。
違和感もない。
ページをめくる。
前の日。
その前。
同じ。
変わらない。
すべて、整っている。
「……」
何かを確かめようとして、
何を確かめるのかを忘れる。
手が止まる。
そのまま閉じる。
音が遅れる。
外に出る。
広場。
さっきと同じ。
何も変わっていない。
はずだ。
「遅いな」
声。
横。
いる。
同じ距離。
同じ位置。
「帳簿だ」
「毎日だな」
笑う。
少し遅れて。
順番は崩れない。
「なあ」
また続く。
「何人だった」
「八十七」
「……だよな」
同じ会話。
同じ流れ。
どこかで繰り返している気がする。
その“どこか”は思い出さない。
必要がない。
石を蹴る。
外す。
笑い声。
二つ。
それで合っている。
視線を落とす。
影。
二つ。
それで合っている。
――一瞬だけ、
もうひとつ、薄い影が重なる。
重なったまま、形にならない。
視線を動かす。
消える。
最初からなかったみたいに。
「変だな」
ぽつりと出る。
「何が」
「……わからない」
それ以上言えない。
言葉が続かない。
「まあいいか」
軽く流される。
その軽さに、引っかかりは残らない。
残らないように、なっている。
広場の真ん中を見る。
人がいる。
数えられる。
一人。
二人。
三人。
――途中でやめる。
数え終わる必要がない。
帳簿がある。
八十七。
それで足りる。
それで合っている。
しばらく、何も考えない。
考えない時間が続く。
続いているはずなのに、
途中が抜ける。
気づいたときには、
また同じ場所に立っている。
石を蹴る。
外す。
笑い声。
二つ。
順番は崩れない。
何も変わっていない。
変わっていないはずだ。
――さっきまで、
誰かがいた気がする。
すぐ横に。
何かを話していた。
何を話していたかは、思い出せない。
思い出そうとする。
その衝動ごと、消える。
最初から、
何もなかったみたいに。
八十七。
数は、合っている。
それで、すべてが収まる。
収まってしまう。
収まらないはずのものまで、
最初からなかったみたいに、
きれいに消える。




