第5話「ひとつ多い」
帳簿は、すでに開かれている。
机の上。
自分で開いた記憶はない。
指が、ページの端に触れている。
めくりかけて止まったまま。
その姿勢が、しばらく続いていた気がする。
理由は思い出さない。
必要がない。
視線を落とす。
並び。
名前。
整っている。
乱れはない。
ひとつずつ数える。
声には出さない。
出さなくても合う。
八十七。
間違いない。
そこで、指が止まる。
数え終わったあと。
終わったはずの場所。
もう一度、数え直す。
同じように。
同じ順番で。
八十七。
変わらない。
なのに、何かが余る。
数の外に、ひとつだけ残る感覚。
言葉にならない。
そのまま閉じようとして、
手が止まる。
――閉じていいのか。
その疑問が、少し遅れて浮かぶ。
浮かんだ瞬間、薄くなる。
閉じる。
音が遅れる。
遅れたまま、静かになる。
外に出る。
広場。
誰かがいる。
……いるはずだ。
視線を向ける。
いる。
立っている。
こっちを見ている。
見慣れている。
はず。
「遅いな」
声がかかる。
いつもの調子。
少しだけ軽い。
「帳簿だ」
「毎日だな、それ」
笑う。
笑いが、少しだけ遅れる。
その遅れに、違和感はない。
ここでは普通だ。
「なあ」
すぐに続く。
「何人だった」
聞き方が、昨日と同じ。
昨日。
あったはずのやり取り。
どこまで覚えているかは曖昧。
「八十七」
答える。
間違いはない。
「……やっぱりな」
少しだけ顔をしかめる。
「多い気がする」
「合っている」
「そうなんだろうけどさ」
言いながら、足元の石を蹴る。
当たる。
乾いた音。
すぐに静けさが落ちる。
その静けさの中で、
ほんの一瞬だけ、もうひとつ音が混ざる。
遅れていない音。
石じゃない。
もっと柔らかい。
何かを踏んだような。
視線を落とす。
何もない。
石。
土。
影。
影が、ひとつ多い気がする。
気がするだけで、数えない。
数える前に、どうでもよくなる。
「なあ」
また声。
「昨日の話、覚えてるか」
「……どこまでだ」
「ほら、“抜けてる”ってやつ」
言われて、思い出す。
断片だけ。
全部ではない。
「覚えている」
そう言う。
嘘ではない。
でも足りない。
「じゃあさ」
少しだけ近づく。
「どこが抜けてるか、わかったか」
問いが来る。
考える。
考えようとすると、形が崩れる。
何かが足りない。
それだけは確か。
何が足りないかは、わからない。
「……わからない」
「だよな」
あっさり引く。
引き方が、少し早い。
諦めているようにも見える。
それ以上は追わない。
沈黙。
長くは続かない。
続いているはずなのに、途中が抜ける。
気づいたときには、
もう次の言葉が出ている。
「なあ」
また同じ声。
さっきと同じ高さ。
「俺さ」
言いかけて、止まる。
止まったまま、少しだけ時間が流れる。
流れた気がするだけかもしれない。
「……いや、いいや」
引く。
理由は言わない。
聞かない。
聞く必要がない。
そのまま、横に並ぶ。
距離は変わらない。
変わらないはず。
影が、またひとつ多い気がする。
今度は、少しだけ長い。
長いだけで、形はわからない。
足元から、少しだけ外れている。
視線を動かす。
追おうとする。
追う前に、消える。
最初からなかったみたいに。
「なあ」
もう一度。
今度は少しだけ低い。
「今、何人いると思う」
急な問い。
帳簿とは違う。
ここにいる数。
見える範囲。
数えられる。
はず。
視線を広げる。
広場。
人。
動き。
音。
数える。
一人。
二人。
三人。
――途中で、途切れる。
どこで途切れたのかがわからない。
数え直す。
同じところで止まる。
そこから先が、続かない。
「……八十七」
答えている。
帳簿の数を、そのまま出す。
「違うだろ」
すぐに返る。
「今だよ、今」
「今も同じだ」
そう言う。
言いながら、少しだけズレを感じる。
でも言い直さない。
「……そうか」
納得していない。
でも、否定もしない。
そのまま視線を落とす。
足元。
石。
影。
今度は、数えられる。
ひとつ。
ふたつ。
……みっつ。
足が止まる。
影は三つある。
自分。
隣。
もうひとつ。
その“もうひとつ”は、
どこにも繋がっていない。
上に人がいない。
影だけがある。
「……なあ」
声をかける。
横を見る。
いる。
さっきと同じ位置。
同じ顔。
「お前」
名前を呼ぼうとする。
出てこない。
口の中で止まる。
「……」
何も言えない。
「どうした」
普通に返ってくる。
違和感はない。
「いや」
首を振る。
「何でもない」
視線を落とす。
影は二つになっている。
さっきの三つ目は、もうない。
最初からなかったみたいに。
「変だな」
ぽつりと漏れる。
「何が」
「……わからない」
正直に言う。
それ以上言えない。
言葉が続かない。
「まあいいか」
あっさり流される。
その軽さが、少しだけ怖い。
でもすぐに慣れる。
慣れてしまう。
それが普通になる。
「なあ」
また声。
今日はやけに多い。
「帳簿、もう一回見せてくれ」
「さっき見た」
「いいから」
理由は言わない。
断る理由もない。
役場に戻る。
歩く。
途中の記憶が、ところどころ抜ける。
気づいたときには、扉の前にいる。
開ける。
中に入る。
帳簿を開く。
ページ。
並び。
名前。
数。
八十七。
「……なあ」
隣が覗く。
さっきと同じ構図。
「これさ」
指でなぞる。
途中で止まる。
「ここ、前あったよな」
指先。
空白。
何もない場所。
昨日も見た気がする。
同じ場所。
同じ違和感。
「ない」
言う。
昨日と同じ言葉。
「いや、あっただろ」
少しだけ強くなる。
「……ない」
繰り返す。
強さは変わらない。
でも中身は少しだけ揺れる。
「……そうか」
手を離す。
その瞬間、
“あった気がする”感覚が消える。
完全に。
最初からなかったみたいに。
「やっぱり多いな」
また言う。
同じ言葉。
同じ位置。
「こんなにいたっけな」
答えない。
答えられない。
帳簿を閉じる。
音が遅れる。
外に出る。
広場。
誰かがいる。
……いるはずだ。
視線を向ける。
いる。
立っている。
見慣れている。
はず。
「なあ」
声をかける。
自然に出る。
さっきまで話していた流れで。
「何人だと思う」
問いが口から出る。
さっきと同じ問い。
向こうが答える。
「八十七」
少し遅れて。
違和感はない。
「……だよな」
頷く。
納得する。
それで終わる。
終わったはずなのに、
少しだけ空白が残る。
誰かと話していた気がする。
さっきまで。
すぐ横で。
何かを確かめていた。
その内容が、全部抜けている。
抜けていることに気づく。
気づいた瞬間、
どうでもよくなる。
広場に立つ。
石を蹴る。
外す。
笑い声が来る。
少し遅れて。
順番は崩れない。
影は二つ。
それで合っている。
八十七。
数は、合っている。
さっきまで、もうひとつあった気がする。
気がするだけで、
確かめる前に、
その必要ごと消える。
最初から、
いなかったみたいに。




