第4話「抜けている場所」
「だから、それは違うって言ってるだろ」
声が近い。
すぐ横で続いている会話に、途中から意識が乗る。
「いや、違わないだろ。だって今――」
言いかけて、隣が止まる。
止まった理由は聞かなくてもわかる気がする。
わかる前に、その感覚が薄れる。
広場の端。
石が足元にある。
いつからここにいるのかは思い出さない。
思い出す必要がない。
「……まあいいや」
隣が肩をすくめる。
「どっちでも同じか」
その言い方が、少しだけ軽すぎる。
でも違和感にはならない。
会話は自然に続いている。
「さっきの話だけどさ」
何の話かは、思い出さなくても続けられる。
「やっぱり“抜けてる”よな、ここ」
石を軽く蹴る。
外す。
少し遅れて、笑い声。
二人。
いつも通り。
順番も変わらない。
「抜けてる、か」
言葉だけを繰り返す。
意味は考えない。
考えようとすると、形が崩れる。
「うまく言えないけどさ」
もう一度蹴る。
今度は当たる。
乾いた音。
その音だけ、遅れない。
一瞬だけ、周囲が静かになる。
すぐ戻る。
「今の、わかったか?」
「当たった」
「そこじゃなくて」
言いかけて、やめる。
「……やっぱいいや」
視線を逸らす。
逸らした先に、井戸がある。
誰もいない。
見ていた理由が、すぐに消える。
「お前さ」
急に、声の調子が変わる。
「帳簿、今日も書いたんだろ」
「ああ」
「何人だった」
少しだけ間が空く。
答えはある。
すぐに出る。
「八十七」
「……やっぱ多くないか」
昨日も聞いた気がする。
同じ言葉。
同じ引っかかり。
その“昨日”が、どこまで確かなのかはわからない。
「合っている」
答える。
迷いはない。
「そうか」
納得していない顔で頷く。
それ以上は言わない。
言わないことで、何かを避けているようにも見える。
沈黙が落ちる。
不自然ではない。
そのまま続く。
「なあ」
また声。
「俺、さっき何言ってた?」
問いが来る。
単純なはずの質問。
少しだけ、重い。
考える。
さっきの会話をなぞる。
途中からしか覚えていない。
最初が抜けている。
「……覚えていない」
正直に言う。
「だよな」
あっさりと返る。
「俺もだ」
軽く笑う。
その笑いは、少しだけ乾いている。
「でもさ」
続ける。
「なんか続いてる感じだけはあるだろ」
頷く。
それはある。
最初がなくても、途中だけで成立している。
「それ、変じゃないか」
変、という言葉に、少しだけ重さがある。
重さだけが残る。
理由は出てこない。
「……そうかもしれない」
「だろ」
少しだけ安心したように笑う。
その笑いは、やはり順番に乗らない。
だから、ここでは少しだけ現実に近い。
石を蹴る。
外す。
笑い声。
少し遅れて。
いつも通り。
……のはずなのに。
一瞬だけ、笑い声が三つに聞こえる。
視線を向ける。
二人。
石。
笑い。
順番。
変わらない。
「なあ」
今度は、少しだけ低い声。
「今、三つ聞こえなかったか」
「二つだ」
即答する。
答えながら、ほんの一瞬だけ迷う。
その迷いはすぐに消える。
「……そうか」
納得していない。
でも、否定もしない。
そのまま、石を蹴る。
当たる。
音が遅れない。
また一瞬だけ、静かになる。
今度は、少し長い。
長い気がするだけで、実際の長さはわからない。
「やっぱりさ」
ぽつりと落とす。
「ここ、何か足りないよな」
その言葉は、前よりもはっきりしている。
足りない。
何が。
考える。
浮かばない。
浮かばないまま、納得してしまいそうになる。
その瞬間だけ、違和感が残る。
残ったまま、すぐに消える。
「……帳簿、見せてくれよ」
急に言う。
「何でだ」
「いいから」
軽く言う。
断る理由が思いつかない。
役場に戻る。
歩きながら、会話が続いている気がする。
何を話しているのかは、途中からしかわからない。
それでも問題はない。
役場に入る。
帳簿を開く。
ページ。
名前。
並び。
八十七。
「……なあ」
隣が覗き込む。
「これさ」
指で行をなぞる。
「一個、空いてないか」
視線を落とす。
並びは整っている。
空白はない。
「ない」
「いや、あるだろ」
もう一度なぞる。
同じ場所。
そこには何もない。
何もないはずなのに、指だけが止まっている。
「ここ」
指先。
何も書かれていない場所。
……のはず。
視線を凝らす。
何もない。
でも、そこに“何かがあった”感覚だけが残る。
「……ない」
もう一度言う。
さっきよりも弱い。
「そうか」
引く。
あっさりと。
「俺の勘違いか」
そう言って、手を離す。
その瞬間、さっきの“空白”の感覚が消える。
最初からなかったみたいに。
ページは整っている。
八十七。
合っている。
「やっぱり多いな」
ぽつりと呟く。
「こんなにいたっけな」
答えない。
答える必要がない。
帳簿を閉じる。
音が遅れる。
外に出る。
広場。
二人。
石。
笑い。
順番。
変わらない。
「なあ」
隣が言う。
「俺さ」
少しだけ、言いにくそうにする。
「名前、覚えてるか?」
問いが落ちる。
さっきと同じようで、少し違う。
今度は、よりはっきりしている。
口を開く。
呼ぼうとする。
出てこない。
さっきよりも、はっきりとわかる。
空白がある。
そこに何かがあったはずなのに、ない。
「……覚えている」
答える。
名前は出ない。
それでも、間違っていない気がする。
「そっか」
少しだけ安心したように笑う。
その笑いは、ほんの少しだけ弱い。
「ならいいや」
それ以上は聞かない。
聞かないことで、何かを確定させないようにしている。
そのまま、広場に戻る。
石を蹴る。
当たる。
音が遅れない。
一瞬だけ、静かになる。
その静けさの中で、
隣の気配が、ほんのわずかに薄れる。
気づく前に、元に戻る。
元に戻った、と思う。
確かめない。
確かめる必要がない。
石をもう一度蹴る。
外す。
笑い声が来る。
少し遅れて。
順番は崩れない。
崩れないまま、
どこかだけが、少しずつ抜けていく。
八十七。
数は、合っている。
その中に、
確かに“何かがない”場所があって、
それを見つけようとしたことだけが残って、
中身は、
最初からなかったみたいに消える。




