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第3話「順番の外」

朝の音が、少しだけずれていた気がする。


 目を開けたあとでそう思ったが、どこがどう違ったのかはもう掴めない。掴めないこと自体に違和感があるはずなのに、それもすぐに溶ける。


 体を起こす。床の冷たさは昨日と同じで、確かめる必要もない。


 戸を開けると、広場の声が流れてくる。


 笑い声。


 同じ調子、同じ順番。


 見なくてもわかる。


 ……はずだった。


 視線を向ける。


 二人。


 石を蹴る。


 外す。


 笑う。


 そこまでは同じ。


 だが、石が転がる距離が、ほんの少し長い。止まるまでの間が、わずかに伸びている。


 理由は思いつかない。


 思いつかないまま、気にならなくなる。


 歩き出す。


 役場へ向かう途中、井戸の横を通る。


 今日は、誰もいない。


 昨日いた気がする、という感覚だけが残る。


 誰が、という部分は最初から曖昧で、そのまま消える。


 役場に入る。


 帳簿は閉じられている。


 開く。


 紙の音が、少しだけ遅れる。


 八十七、と書く。


 迷いはない。


 名前を並べる。指は止まらない。途中で引っかかる感覚も、昨日と同じ場所にある気がするが、確かめる前に通り過ぎる。


 最後まで書く。


 八十七。


 合っている。


 それで終わりのはずだった。


「なあ」


 声がする。


 背後。


 振り返ると、入口のところに立っている。


 いつからいたのかはわからない。


「今日も、やってるのか」


 軽い調子で言う。


 近づいてくる。足音は、少し遅れて聞こえる。


「仕事だ」


「毎日同じだろ、それ」


 机の端に手をつく。帳簿を覗き込む。


「……八十七か」


 数字をなぞるように視線を落とす。


 それから、少しだけ眉を寄せる。


「多くないか?」


 その言葉に、引っかかる。


 さっきも同じことを思った気がする。


 思っただけで、理由は出てこなかった。


「合っている」


 答える。


 言葉に迷いはない。


「そりゃ、お前がそう言うならそうなんだろうけどさ」


 笑う。


 軽い笑い方。


 広場の笑いとは違う。


 順番に乗っていない。


 それだけで、少しだけ浮いて聞こえる。


「俺、そんなに人いたっけって思ってさ」


 帳簿から目を離して、こっちを見る。


 視線が合う。


 遅れない。


 井戸のそばにいた誰かと同じだ、と一瞬だけ思う。


 その比較はすぐに消える。


「広場なんて、いつも同じ顔しか見ないし」


「見ていないだけだ」


「そうかね」


 肩をすくめる。


 納得していない様子だが、それ以上は言わない。


 沈黙が一瞬だけ落ちる。


 それでも居心地は悪くない。


 この沈黙は、ちゃんと続く。


「……なあ」


 もう一度、声。


「名前、全部覚えてるのか」


 帳簿に視線を戻す。


 並んだ文字。


 知っている。


 はずだ。


「書ける」


「書ける、か」


 少し考えるように間を置く。


「それって、覚えてるのと同じか?」


 問いは残る。


 答えを探そうとした瞬間、問いの形がぼやける。


 何を聞かれているのかが曖昧になる。


「同じだ」


 口が先に答える。


「ふーん」


 それ以上は追及しない。


 机から手を離す。


 部屋の中を少しだけ見回す。


 何を探しているのかはわからない。


「まあいいや。仕事の邪魔したな」


 踵を返す。


 出口に向かう。


 途中で、足が止まる。


「……ああ、そうだ」


 振り返る。


「今日、あとで広場来いよ」


「何かあるのか」


「大したことじゃないけどさ」


 少しだけ笑う。


「退屈しないくらいにはなる」


 そう言って、今度こそ出ていく。


 扉が閉まる音が、遅れて届く。


 静かになる。


 帳簿に視線を戻す。


 八十七。


 変わらない。


 だが、さっきの言葉が、薄く残る。


 多くないか。


 そんなに人いたっけ。


 その違和感を掴もうとすると、指の間から抜ける。


 代わりに、別の感覚が残る。


 広場に来い。


 その方が、はっきりしている。


 帳簿を閉じる。


 外に出る。


 広場は、やはり同じだ。


 二人。


 石。


 笑い声。


 順番。


 変わらない。


 視線を巡らせる。


 それ以外にも人はいるはずだ、と思う。


 思っただけで、どこにいるのかはわからない。


「おーい」


 声が飛んでくる。


 さっきの男。


 手を振っている。


 その動きは自然で、遅れない。


 近づく。


「ちゃんと来たな」


「来いと言っただろう」


「言ったけどさ、本当に来るとは思わなかった」


 笑う。


 軽い。


 順番に乗っていない。


 それが妙に落ち着く。


「ほら」


 足元を指す。


 石。


「やってみろよ」


「何を」


「見ればわかるって」


 少しだけ強引に促される。


 しゃがむ。


 石を置く。


 蹴る。


 外す。


 笑い声が来る。


 少し遅れて。


「な?」


 何が「な」なのかはわからない。


 だが、わからないままでも成立している。


 もう一度蹴る。


 今度は当たる。


 乾いた音。


 その音だけ、遅れない。


 その瞬間、ほんの一瞬だけ、周囲の音が止まる。


 気のせいだと思う。


 思った時には、もう元に戻っている。


「今の、見たか?」


 聞かれる。


「当たった」


「そこじゃなくてさ」


 言いかけて、止まる。


「……いや、いいや」


 頭を掻く。


「気のせいかもしれないし」


 それで終わる。


 終わったことに、違和感はない。


 そのまま、しばらく石を蹴る。


 順番は崩れない。


 崩れないはずなのに、さっきの一瞬だけ、何かが外れた気がする。


 確かめようとすると、もう何も残っていない。


「なあ」


 また声。


「ここさ、たまに変じゃないか?」


 同じ問い。


 少しだけ形が違う。


「変とは」


「なんていうか……」


 言葉を探す。


 見つからない。


「うまく言えないけど」


 それでも、続ける。


「数、合ってるのに、足りない感じがするっていうか」


 その言葉は、少しだけ重い。


 胸の奥に残る。


 理由は出てこない。


「……そうか」


 それ以上は言えない。


 それ以上を考えると、何かが崩れる気がする。


 だから考えない。


「だよな」


 納得したように頷く。


 軽く笑う。


 その笑い方は、やはり順番に乗らない。


 それが、この場では少しだけ安心できる。


 視線を外す。


 井戸の方を見る。


 一瞬だけ、誰かが立っているように見える。


 細い影。


 すぐに消える。


 見間違いだと思う。


 思った時には、もう気にならない。


「どうした」


「いや」


 首を振る。


 説明する内容が残っていない。


 再び石を蹴る。


 当たる。


 音が遅れない。


 また一瞬だけ、周囲が静かになる。


 今度は、少しだけはっきりしている。


「……なあ」


 隣で、同じように呟く。


「やっぱり、変だよな」


 答えは出さない。


 出さなくてもいい。


 そのまま、石を蹴り続ける。


 笑い声は、いつも通り遅れて届く。


 順番は崩れない。


 崩れないまま、


 どこかだけが、少しずつ外れていく。


 八十七。


 数は、合っている。


 それでも、


 足りないものがある気がして、


 それが何かを思い出す前に、


 その“思い出そうとしたこと”だけが、


 先に消える。

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