第2話「数えないもの」
朝は昨日と同じ形で来る。
光が先に届いて、少し遅れて音が鳴る。待つ必要はないから、そのまま起き上がる。床に足をつけた瞬間だけ、温度がはっきりする。すぐに薄れる。
戸を開けると、広場の方から声が流れてきた。
笑い声。
昨日と同じ調子で、同じ順番。
見なくてもわかる。
それでも一応、目で確かめる。
二人。
石を蹴って、外して、笑う。
順番は崩れていない。
視線を外すと、音だけが残る。少しだけ遅れて。
役場へ向かう途中、井戸の前で足が止まる。
止めた理由がすぐに薄れる。
水面を見ると、空が映っている。雲が動く前に、像だけが揺れる。あとから追いつく。
手を離す。
役場に入る。
机の上に帳簿がある。閉じたはずだが、開いている。どちらでも同じだと思える。
八十七、と書く。
数字は迷わない。
それから、名前を並べる。手が覚えている順番で進む。途中で、わずかに引っかかる。どこで止まったのかはすぐにわからなくなる。書き続ける。
最後まで埋める。
上から一度、目でなぞる。
八十七。
合っている。
ほんの一瞬だけ、「多い」と思う。
その感覚は、すぐに形を失う。
ページの端に、細い跡がある。昨日も見た気がする。触れようとして、やめる。触れる理由が思いつかない。
帳簿を閉じる。
音が遅れてくる。
外に出る。
広場は同じだ。二人。石。笑い声。順番。
通りに出る。
歩きながら、何かを数えようとした気がする。何を数えるのかが先に消える。足は止まらない。
視線の端で、人が動く。
井戸のそば。
さっきはいなかったはずだと思う。
その「さっき」が、どのくらい前なのか曖昧になる。
近づく。
桶を持っていない。
水を汲む様子でもない。
ただ、縁に手を置いて、こちらを見ている。
視線が合う。
遅れない。
それだけで、少しだけ違うとわかる。
「ここ、よく止まるよね」
先に言われる。
声は普通だ。遅れない。
返す。
「そうか」
「うん。さっきも」
さっき、という言葉に引っかかる。
自分がここで止まった記憶は、あるような、ないような。
確かめようとする前に、必要が薄れる。
「水、汲まないの」
問われる。
桶は持っていない。
「今日はいい」
「ふうん」
それだけ言って、視線が水面に落ちる。
覗き込むようにして、何かを探す様子はない。
ただ見ている。
横に立つ。
水面には空が映っている。雲が遅れて流れる。隣の影だけが、ぴたりと合っている。
視線を戻す。
「役場の人だよね」
「そうだ」
「数、合ってる?」
質問が来る。
少しだけ間が空く。
何を聞かれているのかはわかる。
答えも決まっている。
「合っている」
「何人?」
続けて聞かれる。
その質問は、少しだけ重い。
「……八十七」
口に出す。
音が、わずかに遅れる。
「ふうん」
頷く。
それ以上は続かない。
会話は終わっているはずなのに、終わった感じがしない。何かを言い忘れている気がする。
言い忘れている内容が出てこない。
そのまま、離れる。
数歩進んで、足が止まる。
止めた理由が、すぐに曖昧になる。
振り返る。
まだいる。
同じ場所で、同じ姿勢で。
変わらない。
軽く手を振る。
相手も、同じように振り返す。
それで十分だと思える。
それ以上のやり取りは必要ない。
今度こそ、そのまま通りを抜ける。
役場の前を通り過ぎて、広場の縁まで出る。
外の空気は、少しだけ広い。
理由はわからない。
振り返ると、井戸のそばの姿は、見えない。
見えないことに、特に意味は感じない。
戻る。
役場に入る。
帳簿を開く。
八十七。
数字はそのまま。
さっきの会話が、少しだけ引っかかる。
何を聞かれたのかをなぞる。
数。
合っているか。
合っている。
何人か。
八十七。
それで終わりのはずなのに、終わっていない感じが残る。
ページの端に、細い跡。
さっきよりも、少しだけ薄い。
見間違いかもしれない。
指を近づける。
触れる前に、やめる。
触れる理由が消える。
外から、笑い声。
同じ調子で、同じ順番。
窓の外。
二人。
石を蹴る。
外す。
笑う。
順番は崩れていない。
数える。
一、二。
二人。
合っている。
数え終わったあとで、もう一度数えようとする。
その動きが、途中で止まる。
止まった理由がわからない。
止まったことも、すぐに気にならなくなる。
帳簿に視線を落とす。
名前の並び。
一つ一つ、目で追う。
途中で、空白がある気がする。
どこかが抜けている。
そう思った瞬間に、その“抜けている”場所が曖昧になる。
探す。
探す理由が薄れる。
やめる。
八十七。
数字は動かない。
それで十分だと思える。
帳簿を閉じる。
外へ出る。
井戸の方を見る。
さっきと同じ場所。
同じように、縁に手を置いている。
気づくと、軽く手を振る。
向こうも振り返す。
名前を呼ぼうとして、やめる。
呼ばなくても通じる。
それで問題はない。
近づく。
「数、また見てた?」
先に言われる。
「ああ」
「合ってる?」
同じ質問。
同じ答えが出る。
「合っている」
「そっか」
頷く。
それだけで、十分だという顔をする。
少し間が空く。
何かを言うべきかもしれないと思う。
何を言うのかが浮かばない。
沈黙は続かない。
不自然にもならない。
そのままでも成り立つ。
「ね」
呼ばれる。
視線を向ける。
「数えなくても、いいことってあるよね」
意味を考える。
考え始めたところで、言葉の重さが軽くなる。
何についての話かがぼやける。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味」
それ以上は説明しない。
説明を求める必要も、すぐに薄れる。
頷く。
頷いた理由は、はっきりしない。
しばらく、同じ場所に立つ。
水面は揺れない。
影だけが、きれいに重なる。
広場から、石の転がる音。
少し遅れて、止まる。
誰も取りに行かない。
次の音が来る。
順番は崩れない。
八十七。
数は、合っている。
その横で、
数えないものが、立っている。
それを数えようとしたことだけが、うっすらと残って、
理由は、すぐに消える。




