第10話「内側の遅れ」(前編)
昼のはずなのに、影が短すぎる気がした。
足元を見る。
ちゃんとある。
あるのに、
さっき見た長さと合っていない気がする。
比べようとして、
何と比べるのかが曖昧になる。
そのままやめる。
やめた方が、整う。
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「また石か」
声がする。
振り向く前にわかる。
昨日の続きみたいに、そこにいる。
「今日は蹴る」
「珍しいな」
「たまには」
言いながら、軽く蹴る。
当たる。
乾いた音。
少し転がる。
――笑いが来ない。
一拍。
間が落ちる。
それから、
二つ、笑い声。
順番がずれる。
でも、
すぐに戻る。
戻ったことだけが残る。
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「今、遅れたな」
そいつが言う。
はっきりと。
逃げない言い方。
「何が」
「笑い」
短い言葉。
でも、意味は十分に通る。
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少しだけ考える。
さっきの音。
その後の静けさ。
それから笑い。
順番が一瞬だけズレていた。
確かに。
でも、
それを“おかしい”とする理由がない。
「気のせいだ」
そう言う。
自然に。
「……そうか?」
納得しない。
昨日と違う。
引かない。
⸻
「いや、なんかさ」
続ける。
言葉を探すみたいに、少しだけ間を置いて。
「全部、ちょっとずつ遅れてないか」
風が吹く。
布が揺れる。
遠くで誰かが話している。
その声が、
一瞬だけ“意味を持たない音”に聞こえる。
すぐに戻る。
普通の会話になる。
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「遅れていない」
答える。
少しだけ早く。
否定する形の方が、収まりがいい。
「でもさ」
引かない。
昨日よりも、踏み込んでくる。
「俺、今の会話、さっきもやった気がする」
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その言葉が、残る。
消えない。
曖昧にならない。
そのまま、そこにある。
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「やっていない」
答える。
間を置かずに。
置くと、形が崩れそうだった。
「……だよな」
納得する。
するはずなのに、
完全には納得していない顔をしている。
その“残り”が見える。
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石を拾う。
さっき蹴ったもの。
同じはず。
でも、
少しだけ位置が違う気がする。
蹴った距離と合っていない。
考える。
やめる。
どうでもよくなる。
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「なあ」
そいつが言う。
「お前、昨日もここにいたよな」
「いた」
「一昨日も」
「いた」
「ずっと?」
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少しだけ止まる。
“ずっと”という言葉が、妙に重い。
範囲が広すぎる。
どこからどこまでか、決められない。
「……わからない」
答える。
少し遅れて。
「俺もだ」
笑う。
軽く。
でも、
その笑いはどこか空いている。
中身が少し足りない。
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「でもさ」
また続く。
「なんでか、“ずっといたことになってる”感じしないか」
言葉が正確すぎる。
形が合いすぎている。
だから逆に、
どこか現実から浮いている。
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答えない。
答えられないわけじゃない。
ただ、
どの答えも“後から合わせた”みたいになる気がする。
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沈黙が落ちる。
長い。
長いはずなのに、
気づいたときには終わっている。
途中が抜けている。
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「……なあ」
そいつが先に口を開く。
少しだけ声が低い。
「今の間、何してた」
問い。
単純。
さっきの沈黙。
確かにあった。
でも、
中身がない。
思い出せない。
最初からなかったみたいに。
「何もしていない」
「……だよな」
納得する。
納得してしまう。
その瞬間、
“何かあったはずの感覚”が消える。
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視線が、自然と窓へ向く。
白い布。
揺れている。
その奥。
何もない。
最初から。
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「なあ」
声が続く。
「ここ、さ」
少しだけ間を置いて。
「狭くなってないか」
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広場を見る。
人がいる。
距離が近い。
確かに、さっきもそう感じた。
でも、
“狭い”と断定するほどではない。
「変わっていない」
そう答える。
その方が、整う。
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「そっか」
引く。
でも、
完全には引いていない。
何かを残したまま。
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そのとき、
横を誰かが通る。
肩がぶつかる。
揺れる。
「悪い」
声。
振り返る。
誰もいない。
昨日と同じ。
でも、
今日は少しだけ違う。
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「……なあ」
そいつも見ている。
同じ方向を。
「今の、いたよな」
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答えるまで、少し時間がかかる。
昨日よりも長い。
その“長さ”が、はっきりと自覚できる。
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「……見ていない」
答える。
遅れて。
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「俺も、見てないことになるのか」
小さく言う。
独り言みたいに。
でも、
ちゃんと聞こえる位置で。
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その言葉は、
消えない。
曖昧にならない。
そのまま残る。
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広場には人がいる。
八十七。
変わらない。
変わっていない。
そのはず。
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「なあ」
最後に。
少しだけ普通の声に戻る。
「明日も、いるよな」
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昨日と同じ問い。
同じはずなのに、
少しだけ重さが違う。
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「いる」
答える。
今度はすぐに。
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「……そっか」
笑う。
でも、
その笑いは昨日よりも遅い。
ほんの少し。
確実に。
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石を握る。
ざらつきがある。
確かにある。
それだけが、
妙に遅れずに存在している。
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それ以外は、
全部少しずつ、
遅れている気がする。
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言葉も、
動きも、
時間も、
そして――
⸻
自分の中の何かも。




