第1話 数える仕事
鐘の音より先に、光が来る。
目を開けたときには、すでに朝だった。
音はまだ来ていない。
来るとわかっているから、待つ必要もない。起き上がる。床の冷たさだけが先に伝わって、遅れて軋む。順番が逆でも、困ることはない。
戸を開けると、空気が少しだけ軽い。
理由はわからない。昨日と違うのかもしれないし、同じかもしれない。比べようとして、やめる。比べる意味が思いつかない。
外はもう動いている。
広場の端で、子どもが二人。石を蹴って、外して、笑う。もう一度やる。同じ順番で。同じ間隔で。
何度か見たことがある気がする。
何度も、かもしれない。
視線を外すと、少しだけ静かになる。
役場へ向かう途中、井戸の縁に手をかけた。水面は落ち着いているのに、映る顔だけがわずかに遅れる。目を逸らすと、追いかけてくるように揃う。
見なければ問題はない。
桶は持たない。今日は必要な気がしなかった。
役場の扉は重い。押し切ると、空気が一度だけ濁る。誰かが先に入っていたような、そんな残り方。振り返るが、廊下は空だ。
机に着く。帳簿は開いてある。
閉じた覚えはないが、誰かが開いたとも思えない。どちらでも同じだ。座る。
八十七 、と先に書く。
それから名前を並べていく。順番は手が覚えている。考えなくても進む。
途中で、ペンがわずかに止まる。
止めた理由が、すぐにわからなくなる。
書き続ける。
最後まで埋めて、もう一度上からなぞる。数は合っている。問題はない。
ページの端に、細い痕がある。
インクの跡にも見えるし、最初から紙の筋だった気もする。指で触れると、そこだけ温度が違う気がした。確かめようとする前に、興味が切れる。
ページをめくる。
昨日も八十七。おとといも八十七。変わらないことを確認していると、確認している理由が薄れていく。確認は終わる。
帳簿を閉じる。
外の音が入ってくる。子どもがまだ同じ遊びを続けている。少しだけ速くなっている気がする。気のせいかもしれない。
立ち上がって外へ出る。
広場に、女が一人。桶を持っている。水面は揺れていないのに、桶の縁だけが先に動く。目が合う。軽く頷かれる。こちらも返す。
名前を思い出す必要はない。
必要がないことは、思い出さない。
通りの先に店がある。
扉は閉まっている。
それだけのことなのに、足がわずかに遅れる。
遅れた分だけ、体が前に出る。止まる。振り返る。閉まっている。煙も出ていない。
ここで何かがあった気がした。
何だったかを探そうとして――その動きだけが残る。探す対象がない。
やめる。
理由は残らないが、やめたことだけが自然に収まる。
広場へ戻る。
子どもは二人のまま。石を蹴る。外す。笑う。さっきよりも、少しだけ間が短い。
数える。
一、二。
合っている。
数える前に感じた違いが、どこにあったのか思い出せない。思い出そうとする。
その“思い出そうとする”動きが、途中で切れる。
切れたことに、特に意味はない。
もう一度数える。
一、二。
同じだ。
同じであることに安心したのかどうかは、はっきりしない。ただ、もう数え直す必要はないと思える。
役場に戻る。
帳簿を開く。
八十七。
数字は動かない。触れても変わらない。そこにあるだけで十分だ。
名前を一つずつ目で追う。
途中で、線が少しだけ細くなる箇所がある。さっきも見た気がする。あるいは、今初めて見たのかもしれない。
視線を外す。
戻す。
どこだったか、わからない。
見つけようとする前に、必要が消える。
手を止めたまま、少しだけ考える。
考える理由が見つからない。
帳簿を閉じる。
音が、ほんのわずかに遅れて届く。
窓の外。
子どもが二人。
石を蹴る。外す。笑う。
同じ順番で、同じ間隔で。
見ていると、何かが揃う。
何が揃うのかは、言葉にならない。
ただ、揃っている。
それで十分だ。
手を帳簿の上に置く。
紙のざらつきが指に残る。
それ以外のことは、すぐに離れていく。
離れていくものを追う必要はない。
最初から、ここにはなかったのと同じだから。
外で、石が転がる音がした。
ほんの少し遅れて、止まる。
誰も拾いに行かない。
そのまま、次の音が来る。
順番は変わらない。
八十七。
数は、合っている。




