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後日談「――ただいま、と言える場所がある」

 結婚式から一年が経った、秋の朝のこと。


 公爵邸の寝室に差し込む朝日で目を覚ますと、隣にレイナルドの姿はなかった。

 代わりに枕元に、一輪の白い花が置いてある。


 ――また、これ。


 起きるたびに花を置いていく人だ。毎朝毎朝、飽きもせずに。しかも本人に聞くと「知らない」としらを切る。嘘が下手なくせに。


 身支度を整えて食堂に降りると、長いテーブルの奥にレイナルドが座っていた。書類を片手に紅茶を飲んでいる横顔は、相変わらず隙がない。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


 何食わぬ顔。枕元の花のことなど知りませんとでも言いたげな、完璧な無表情。

 ――ああもう、好き。


「閣下ァ、姐さん! 朝から良い知らせですよ!」


 ヴァルターが食堂に飛び込んできた。テーブルの花瓶が揺れる。


「東の港町との交易路が正式に開通しました。結界のおかげで魔物の被害がなくなったんで、商人たちが一斉に戻ってきたって」


「そう。よかった」


 レイナルドが頷く。それだけの反応だが、紅茶のカップを持つ指先がわずかに緩んだ。この人の喜び方を、私はもう知っている。


「リーゼルさまーっ! 大変です!」


 今度はフィオナが駆け込んでくる。こちらは毎朝大変だ。


「エルステッド王国から、また書簡が届きました!」


 食堂の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰めた。

 ――でも、もう怖くない。


「内容は?」


 レイナルドが訊く。


「えっと……新しい国王の即位の報告と、正式な国交回復の申し入れ、です」


 新しい国王。

 つまり、アルヴィンはもう王太子ではないということだ。


「アルヴィン殿下は?」


 私が訊くと、フィオナが書簡の続きを読み上げた。


「前王太子アルヴィンは王位継承権を自ら返上。現在は南部辺境の復興事業に、一兵卒として従事している……とのことです」


 一兵卒。

 かつて玉座に座り、「無能な聖女はいらない」と宣告した人が、今は辺境で泥にまみれている。


 ――不思議と、ざまあみろ、とは思わなかった。


 あの日、両膝をついて額を床に擦りつけたアルヴィンの姿を思い出す。

 許せはしない。忘れもしない。でも、あの人があの人なりに地面に這いつくばって生き直そうとしているなら、それはあの人の問題だ。私の人生には、もう関係ない。


「それと、セリーヌさんからリーゼルさま宛てにお手紙が」


「セリーヌさんから?」


 受け取った封筒は飾り気のない白い紙で、あの頃の金箔押しの便箋とは似ても似つかなかった。


 開いてみる。丸い文字が少しだけ震えていた。



 リーゼルさま。

 公国の織物工房で働き始めて、半年が経ちました。

 手が荒れて、爪も割れて、宮廷にいた頃の私が見たら卒倒すると思います。

 でも、自分で織った布が誰かの役に立つと言われたとき、生まれて初めて、嘘じゃない嬉しさを知りました。

 あなたに謝りたいことは山ほどあります。でも今の私には言葉しかなくて、言葉ではとても足りません。

 だから、いつか胸を張れる自分になれたら、そのとき改めて頭を下げに行きます。

 待っていてくださらなくても構いません。ただ、書かずにはいられませんでした。


 セリーヌ



 便箋を畳んで、封筒に戻した。


「……どうだった?」


 レイナルドが静かに訊く。


「ちゃんと生きてるみたいです」


「そうか」


 それだけだった。それで、十分だった。



 昼過ぎ。神殿での祈祷を終えて、街を歩く。


 パン屋の前を通りかかったら、おかみさんが焼きたてのパンを包んで渡してくれた。

「聖女様、いつもありがとうねえ」

 断ろうとしたら、「夫婦で食べなさいな」と押し込まれた。


 花屋の前では、小さな女の子が走ってきて、私の手に野花の束を握らせた。

「せいじょさま、いつもおはなをさかせてくれてありがとう!」

 ――ああ、もう。こういうの弱いんだって。


 肉屋のおじさんが「旦那様によろしくな!」と手を振り、仕立屋のおばさんが「今度新しいドレスの生地が入るわよ」と手招きする。


 一年前まで、私を名前で呼ぶ人すらいなかった。

 今は街を歩くだけで、こんなにたくさんの声が降ってくる。


 涙が出そうになって、空を見上げた。

 金色の結界が、うすく、あたたかく、空を覆っている。私の力で張ったもの。この国を守っているもの。


 ――守れている。私は今、ちゃんと誰かの役に立てている。



 夕方。あの丘に登った。


 白い花畑は、一年前よりさらに広がっていた。丘の裾野まで一面の白。風が吹くたびに花弁が舞い上がり、夕日に透けて金色に光る。


「ここにいると思った」


 振り向くと、レイナルドが丘を登ってくるところだった。


「仕事は?」


「終わらせた」


「嘘。ヴァルターさんに押しつけたでしょう」


「……半分は終わらせた」


 正直になった。少しだけ笑う。この人のこういうところが、好きだ。


 並んで花畑を見下ろした。眼下にはルミエールの街並みが広がり、夕日に照らされた白い石壁が橙色に染まっている。


「一年、経ちましたね」


「ああ」


「早かったなあ……」


 風が吹いて、髪が揺れた。レイナルドの大きな手が、自然に私の髪を押さえた。

 指先が頬に触れて、どきりとする。一年経っても、こういうところは慣れない。


「レイナルド」


「なんだ」


「あのね。ずっと言いたかったことがあるんです」


 レイナルドがこちらを見た。蒼い瞳が夕日を映している。


「この世界に来てから、ずっと思ってたんです。帰りたい、って。元の世界に帰りたい、ここは私の居場所じゃない、って」


 花畑に視線を落とす。白い花が風に揺れている。


「でも最近、気づいたんです」


 顔を上げた。


「帰りたかったんじゃない。――ただいま、って言える場所がほしかっただけだった」


 レイナルドが、静かに息を吸った。


「エルステッドには、それがなかった。三年間、どこにも、誰にも。おかえり、って言ってくれる人がいなかった」


 声は震えなかった。もう、あの頃の話をしても泣かない自分がいる。それが少しだけ誇らしかった。


「でも今は、あるんです」


 レイナルドの手を取った。大きくて、あたたかい手。


「神殿から帰ったら、フィオナが『おかえりなさい』って言ってくれる。ヴァルターさんが『よう姐さん』って笑ってくれる。街の人たちが手を振ってくれる」


 ぎゅっと、その手を握った。


「あなたが、迎えに来てくれる」


 レイナルドの指が、握り返してくる。静かに、けれど強く。


「だから――ただいま、レイナルド」


 蒼い瞳が、揺れた。

 あの冷静沈着な公爵閣下が、一瞬だけ唇を引き結んで、それからふっと力を抜いた。


「――おかえり」


 短く、低く、あたたかい声。


「毎日言ってやる。何度でも」


 泣いた。泣かないって決めたのに、やっぱり泣いた。

 でも今度は悲しくて泣いたんじゃない。


 抱きしめられる。一年前と同じ、大きな腕。

 でもあの時とは違う。あの時は、折れそうな私を支えてくれた腕。

 今は、隣にいる私を抱きしめてくれる腕だ。


 白い花畑の真ん中で、夕日が二人の影を長く伸ばしている。

 あの日、たった一輪だった花は、丘を越えて咲き続けている。



 ――四年前、異世界に落ちた。

 三年間、地獄だった。

 捨てられて、嗤われて、踏みつけられた。


 でも。

 あの全部があったから、今、ここにいる。


 無能と呼ばれた力は、国を守る光になった。

 いらないと捨てられた私は、誰かに必要とされる人になった。

 どこにも居場所がなかった私は、ただいまと言える場所を見つけた。


 だから、もう振り返らない。


 ――これが私の人生で、ここが私の世界で。

 隣にいるこの人が、私の帰る場所だ。




ここまで読んでいただきありがとうございました。

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