第八話「これが私の居場所です――聖女は、愛する人の隣で微笑む」
春が来ていた。
ルミエール公国の庭園には色とりどりの花が咲き誇り、甘い香りが風に乗って街まで届いている。
市場には笑い声が溢れ、もう誰も国境の向こうを気にしていなかった。
「聖女様、今日もありがとうございます!」
「リーゼルさま、うちの子の熱が下がりました!」
神殿からの帰り道、すれ違う人々が次々と声をかけてくる。
一人ひとりに「よかったです」と笑顔を返しながら、石畳の道を歩いた。
この国に来て、もうすぐ半年になる。
エルステッドで「無能」と呼ばれた力は、ここでは人々の暮らしを守る光になった。
あの頃の自分が、遠い昔のことのように思える。
「リーゼル」
城門の前に、レイナルドが立っていた。
政務の合間に迎えに来てくれるのは、もう日常のことだ。
少し離れた場所でヴァルターがにやにやしているのも、城の窓からフィオナが覗いているのも、いつも通り。
「お迎え、ありがとうございます」
「今日の祈祷はどうだった」
「東地区の井戸水が綺麗になりました。あと、パン屋のマルタさんの腰痛が……なぜ笑うんですか」
「いや」
レイナルドは口元を緩めたまま、自然に私の手を取った。
大きな手のひらの温かさに、心臓がとくんと跳ねる。
何度触れられても、慣れない。
「レイナルド、あの」
「なんだ」
「……今日の夕方、少しお時間をいただけますか。お話ししたいことがあるんです」
蒼い瞳が、わずかに揺れた。
「わかった」
* * *
夕暮れの庭園。
以前レイナルドが「話がある」と言いかけた、あの薔薇のアーチの下。
噴水の水音だけが静かに響いている。
隣に並んで立つレイナルドの横顔を見上げて、深く息を吸った。
ずっと言えなかったことがある。この人に隠し事をしたまま、隣にいることはできない。
「レイナルド。私は――この世界の人間ではありません」
沈黙。噴水の音が、やけに大きく聞こえる。
「私には、元の世界の記憶があります。日本という国で、普通の女の子として生きていました。ある日突然、エルステッドに召喚されて――それが、私がこの世界に来た理由です」
「知っている」
予想もしない言葉だった。
「……え?」
「調べた。古い召喚の記録が残っていた。あなたが聖女だと判明した時点で、すべて調べ上げた」
「いつから……」
「あなたが城に来て、二週間後には」
つまり、ほぼ最初から。
「それでも、あなたは変わらずあなただ。どこから来たかなど、関係ない」
静かで、けれど確かな熱を帯びた声だった。
レイナルドが一歩、距離を詰めた。
「リーゼル。帰りたいなら、全力でその方法を探す」
「え……」
「召喚の逆位相を研究させている。理論上は、元の世界に戻す術式を構築できる可能性がある」
息が止まった。この人は、私を帰す方法まで調べていたのか。
「たとえ、俺がどれだけ手放したくなくても」
最後の一言だけ、わずかに声が震えた。
レイナルドの手が、拳を握るように力を込めている。
ああ、この人はいつもそうだ。
自分の感情より、私の意志を優先する。どれだけ苦しくても、表に出さない。
嘘が下手なくせに。
「帰りません」
迷わなかった。
「日本での記憶は大切です。でも、それは過去の居場所で――今の私の居場所は、ここです」
レイナルドを見上げた。夕陽に照らされた蒼い瞳に、私の姿が映っている。
「あなたの隣です、レイナルド」
レイナルドの表情が、崩れた。
今まで一度も見たことのない顔だった。眉が歪み、唇が震え、鋼のように冷静だったあの瞳に、光が滲んでいる。
公爵として、指揮官として、誰の前でも完璧だったこの人が――私の前でだけ、ただの一人の男になった。
返事の代わりに、強く抱きしめられた。腕が震えていた。
「ずっと、怖かった」
耳元で落とされた声は、かすれていた。
「あなたがいつか、元の世界に帰ると言い出すのが。……俺にはあなたを引き留める資格がないと、わかっていたから」
心臓の音が聞こえる。速い。私と、同じくらい。
「魔物に両親を奪われた。だから聖女の力がほしかった」
腕の力が、さらに強くなった。
「でも今は――あなた自身がほしい。聖女だからじゃない。リーゼルだから」
涙が頬を伝った。嬉しくて、温かくて、胸がいっぱいで。
あの日、レイナルドが呟いた言葉。
「ようやく、見つけた」
あのとき見つけたのは、聖女じゃなかった。私だった。
* * *
翌朝。
「来てほしい場所がある」と連れ出された先は、公爵邸の裏手にある丘だった。
丘を登りきった瞬間、息を呑んだ。
一面の白い花畑が、朝日を浴びて輝いていた。
見覚えのある花。エルステッドを追放されたあの日、涙が落ちた地面に咲いた、あの小さな白い花と同じ。
「この花は、聖女の魔力に反応して咲く。あなたがこの国に来てから、この丘一面に広がった」
風が吹いて、白い花弁が舞い上がる。
「リーゼル」
振り向くと、レイナルドが片膝をついていた。
あの冷静沈着な公爵が、朝日の中で膝をつき、まっすぐに私を見上げている。
「俺の隣で、ずっと笑っていてほしい」
飾らない、直球の言葉。
「――リーゼル、俺と結婚してくれ」
涙を拭く暇もなかった。
「はい」
花びらが風に舞う中で、笑いながら泣いた。
「はい、喜んで」
立ち上がったレイナルドが、今度はゆっくりと、壊れ物を扱うように私を抱きしめた。
白い花畑の真ん中で。朝日の中で。
あの日、涙が一輪の花を咲かせた場所が、今は一面の花畑になっている。
* * *
三ヶ月後。ルミエール公国、大聖堂。
「リーゼルさま、お美しいです……うっ、うぅ……」
「フィオナ、泣かないで。化粧が崩れるわよ」
「だって、だってぇ……!」
純白のウェディングドレスに身を包んだ私の前で、フィオナが盛大に泣き崩れている。
「姐さん」
扉の向こうからヴァルターの声がした。低く、わずかに詰まっている。
「準備、できてます。……旦那が、待ってます」
「ヴァルター、あなたも泣いてるの?」
「泣いてねえです。……目から汗が出てるだけです」
笑った。おかしくて、嬉しくて、幸せで。
大聖堂の扉が開く。
長い赤絨毯の先に、正装のレイナルドが立っていた。
白を基調とした礼装。私の目には、この人しか映らなかった。
一歩ずつ歩くたびに、両側の参列者から花弁が降ってくる。
その中に、一つだけ聞こえた噂話。
「エルステッドの偽聖女、平民に落とされたらしいぞ」
聞こえていたけれど、もう、気にならなかった。
あの国のことは、あの国の人たちが決めればいい。
私はもう、あの国の聖女ではないのだから。
レイナルドの前に立つ。彼は小さく息を吐いた。
「綺麗だ」
たった一言。でも、蒼い瞳が雄弁だった。
「嘘が下手なくせに、今日は上手に言えましたね」
「嘘じゃない」
「知ってます」
あの鉄面皮の公爵が――参列者がどよめくほど、レイナルドが柔らかく笑った。
* * *
披露宴が終わり、夜。
城のバルコニーに出ると、眼下の城下町は灯りで溢れていた。
国民たちが祝福の声を上げ、手を振っている。空には金色の結界の光が淡く輝き、この国のすべてを優しく包んでいた。
「レイナルド」
「なんだ」
「……幸せです」
隣に立つ人の手を、そっと握った。大きな手が、握り返してくる。
「俺もだ」
短くて、ぶっきらぼうで、でもこの上なく温かい三文字。
民衆に手を振りながら、ふと思い出した。
半年前、一人で泣いていた自分を。「この世界にも居場所がない」と、泣いた夜を。
あの涙が落ちた場所に咲いた白い花が、今では丘一面を覆っている。
――居場所は、与えられるものじゃなかった。自分で選ぶものだった。
隣を見上げた。レイナルドが、同じようにこちらを見ていた。
金色の光の下で、二人で笑った。
これが、私の選んだ居場所。
愛する人の隣が――私の世界のすべてだ。
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