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第七話「滅びゆく王国に、救いの手は届かない」

 エルステッド王国の城壁が崩れたのは、夜明け前だった。


 北門の石壁に亀裂が走り、濁った瘴気が霧のように街路へ流れ込む。


 衛兵の悲鳴。鐘が鳴る。


 だが駆けつける騎士の数は、もう半分もいない。


 畑は瘴気に蝕まれて黒く枯れた。


 井戸の水は濁り、疫病が下町を舐めるように広がった。


 街路には荷車を引いて逃げ出す民の列が続き、その隙間を魔物が走り抜ける。


 リーゼルが去った日、城壁に走った一本のヒビ。


 それがこの国を蝕んでいたのだと、誰も気づかなかった。


 かつて白亜に輝いていた王都は、たった数週間で、その面影を失った。


 玉座の間には、もう誰もいなかった。


 大臣たちは辞表を置いて去った。


 側近は領地へ逃げ帰った。残ったのは数人の老臣と、玉座に座るアルヴィンだけだった。


「……殿下。ランベール侯爵が領地ごとルミエール公国への帰属を申し出ました。これで五家目です」


 アルヴィンは答えなかった。


 目の下に深い隈。頬はこけ、礼服は皺だらけだった。


「セリーヌは、結界を張れないのか」


「……セリーヌ殿の聖力では簡易な浄化が限界です。判定儀式の『白』は一般人より少し高い程度に過ぎず、聖女には程遠い」


 アルヴィンはかすかに唇を噛んだ。


 半年前、セリーヌの「私のほうがふさわしい」という言葉を信じたのは自分だ。


 華やかな笑顔。甘い声。その事実から、ずっと目を逸らしていた。


「……リーゼルを追い出したのは俺だ」


 呟きは、誰にも拾われなかった。


 翌日、アルヴィンの姿は王都から消えた。


         * * *


 ルミエール公国の空は、どこまでも青かった。


 恒久結界に守られた街は活気に満ち、市場には果物が溢れ、子供たちの笑い声が石畳に弾んでいた。


「姐さん! 東の村から届いた蜂蜜、すげえ美味いですよ!」


 ヴァルターが片手に瓶を掲げながら、中庭を横切ってくる。


「ヴァルターさん、その呼び方はやめてくださいって何度も……」


「いいじゃないですか、この国の騎士はみんなそう呼んでますよ」


 苦笑して瓶を受け取る。


 三年間、暗闇の中にいた。それが今、笑えている。


「リーゼル」


 レイナルドの声が、空気を変えた。


 ヴァルターが瞬時に姿勢を正す。


「エルステッド王国の王太子が、国境に到着しました。護衛わずか二名。事実上の単独訪問です」


 私の手から、蜂蜜の瓶がずるりと滑りかけた。


「……会いますか」


 問いかけは静かだったが、言外の意味があった。


 会わなくてもいい。断る権利がある。私が追い返す――そう言っている。


「……会います。逃げたくありません」


 レイナルドが一瞬だけ目を細めた。


         * * *


 謁見の間の扉が開いた瞬間、息を呑んだ。


 かつて自分を見下ろしていた男が、そこにいた。


 だがその姿は記憶と全く違っていた。


 頬はこけ、目は落ち窪み、王族の威厳など影も形もない。


 旅装は土埃にまみれ、靴底はすり減っていた。


 国が、死にかけているのだと――その姿が雄弁に物語っていた。


 アルヴィンは玉座のレイナルドと、その傍らに立つ私を見た。


 三年前、俯いて去ったあの少女が、真っ直ぐに自分を見返していることに――気づいただろうか。


「リーゼル、俺は――」


 アルヴィンが口を開いた。王太子の口調だった。


 だがリーゼルの瞳を見た瞬間、その声が止まった。


 怯えも憎しみもない、ただ静かな光を湛えた菫色の瞳。


 かつて俯いていた少女は、もうどこにもいなかった。


 声がかすれた。


「……頼む」


 アルヴィンの膝が折れた。


 片膝ではない。両膝が、石の床に落ちた。


 そして、その額が――地に、ついた。


 護衛の騎士が息を呑む。ルミエールの臣下たちがざわめく。


「頼む……戻ってきてくれ」


 額を床に擦りつけたまま、アルヴィンは言った。


「お前がいなければ、この国は滅びる。民が死ぬ。魔物が街に入り込んで、子供たちが――」


 声が震えていた。その震えだけは、嘘ではなかった。


「俺が間違っていた。全部、俺が悪かった。だから――」


 沈黙が降りた。


 私は、一歩前に出た。


 三年前の光景が蘇る。「無能な聖女はいらない」。


 セリーヌの嘲笑。貴族たちの冷たい目。誰も助けてくれなかった。


 胸の奥が、きりりと痛んだ。


 だが私は、その痛みごと、真っ直ぐ前を向いた。


「――アルヴィン殿下」


 静かな声だった。


「三年間、私はあなたに助けを求め続けました。でも、誰も聞いてくれなかった」


 一歩も動かない。


「たった一人で、無能と呼ばれて、蔑まれて。それでも必死だった。――誰も、助けてくれなかった」


 声が、わずかに震えた。堪えるように唇を引き結ぶ。


 一度だけ瞼を伏せた。三年分の感情を、その一瞬で呑み込むように。


「今になって都合よく聖女を呼び戻そうだなんて、虫がよすぎませんか」


 その目に涙はなかった。


 静かに、毅然と、首を横に振った。


「お断りします」


 アルヴィンの体から、力が抜けた。


「……そう、か」


 額を床につけたまま、呟く。


「……俺は、取り返しのつかないことをした」


 それは、三年前に聞きたかった言葉だった。


 だが今はもう、何も変えない。


 アルヴィンがゆっくりと顔を上げた。何か言おうとして――言葉が出てこない。


「お帰りはあちらです、王太子殿下」


 レイナルドの声が、氷のように広間を貫いた。


 労りも、嘲りもない。ただ、終わりを告げる声だった。


 アルヴィンはよろめきながら立ち上がり、背を向けた。その足取りは、老人のように頼りなかった。


 扉が閉まる。


 私の膝から、静かに力が抜けた。レイナルドの手が、そっと私の肩を支えた。


「……よく、言えました」


 私は答えず、ただ小さく頷いた。


         * * *


 翌朝。


 公国の門前に、一人の女がうずくまっていた。


 ほつれた髪。崩れた化粧。


 かつて宮廷一と謳われた美貌は、見る影もない。護衛もなく、一人きりだった。


「……リーゼル」


 セリーヌだった。


「お願い、助けて……」


 私の足元に崩れ落ちる。


「アルヴィン殿下に、用済みだと言われたの。お前のせいで国が滅ぶ、全てお前が悪いと――私を、捨てたの」


 嗚咽が漏れる。


「もう行く場所がない。誰にも相手にされない。どこにも――」


 胸に、あの日の言葉が蘇った。


 『あなた、どこにも要らない子なのよ?』


 セリーヌが笑いながら言った、あの言葉。今、それがそのまま本人に返っている。


 私は、しゃがんだ。


 セリーヌが怯えたように目を見開く。


 殴られるとでも思ったのか、両手で顔を覆った。


「……セリーヌさん」


 穏やかに言った。


「あなたがしたことを、許すことはできません」


 セリーヌの肩が震えた。


「でも」


 私は立ち上がり、真っ直ぐにセリーヌを見下ろした。


「自分の足で立ち直ることは、できるはずです」


 突き放すのでもなく、抱きしめるのでもない。対等な人間として向き合う。


 三年前の自分には、それすら許されなかった。だからこそ、自分はそうしないと決めた。


「この国には人手が必要です。働く気があるなら、口を用意します。それ以上は、自分で掴んでください」


 セリーヌが、泣きながら何度も頷いた。


         * * *


 夕暮れ。庭園。


 ベンチに座り、茜色に染まる空を見上げていた。長い一日だった。


 足音がした。


「まだ起きていましたか」


 レイナルドが隣に立った。夕日が黒髪を淡く染めている。


「……少し、考え事をしていて」


「今日のことですか」


「はい。正しかったのかなって、少しだけ」


「正しかった」


 即答だった。


「あなたは十分すぎるほど苦しんだ。これ以上、あの国のために傷つく必要はない」


「……ありがとうございます」


「それと」


 レイナルドが、一度口を閉じた。


 珍しいことだった。この人が言葉を選ぶところなど、見たことがない。


「以前、話があると言いかけたことを覚えていますか」


 心臓が、小さく跳ねた。


 あの日――庭園で、フィオナの駆け込みに遮られた言葉。


「覚えて、います」


「全てが落ち着いたら、改めて時間をもらえますか」


 レイナルドの声は、いつも通り静かだった。けれど蒼い瞳が、夕日の中でほんの少しだけ温かく見えた。


「……はい」


 茜色の空の下、二人の影が長く伸びていた。

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