第六話「聖女の力が、この国を照らす」
北の国境まで、馬車で半日。
窓の外を流れる森の景色を眺めながら、私は自分の手のひらを見つめていた。
――もしこの力が暴走したら? 制御できなかったら?
「顔色が悪いですね」
向かいの席で、レイナルドが静かに言った。
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけで」
「嘘が下手ですね、相変わらず」
その声に棘はなかった。蒼い瞳がまっすぐ私を見ている。
「……正直に言うと、少しだけ不安です。制御を誤って味方を巻き込んだら――」
「そうはならない」
断言だった。
「あなたの力は浄化だ。無意識に庭の花を咲かせ、水を澄ませた。害意のないものを傷つける性質ではない」
ああ、この人はちゃんと見ていてくれたんだ。
「だから、存分に使えばいい。あなたの後ろは俺が守る」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
* * *
国境の砦に着いた瞬間、空気が変わった。
血の匂い。折れた剣。砦の壁に刻まれた巨大な爪痕。
「魔物二百体以上、ヴァルター団長が食い止めていますが限界です!」
丘を越えた先は、黒い濁流だった。
大地を埋め尽くす魔物の群れ。
その最前線で、鎧を半壊させたヴァルターが大剣を振り回している。
「閣下ァ! 待ってましたよ! だがこの数は――ッ!」
横から飛びかかった魔獣を、レイナルドが抜き打ちで両断する。
「騎士団を後退させろ。三十秒だけ時間を作る」
「はあ? 三十秒で――」
レイナルドの視線が私に向いた。ヴァルターが息を呑む。
「……マジですか」
「下がれ」
「全騎士、後退ーーッ!」
空白に、私は踏み出した。両手を翳す。
――お願い。この人たちを、守らせて。
「――展開」
ドォォオオンッ!!
金色の光が爆ぜた。光の波が視界の果てまで駆け抜ける。
魔物が触れた瞬間、光の粒子になって消える。十体、五十体――。
ザァアアッ!
百。二百。
全部、消えた。跡形もなく。
金色の粒子が雪のように降る中、戦場に静寂が落ちた。
「こりゃあ……とんでもねえ……」
ヴァルターが膝をつく。
騎士たちの間から、どよめきが広がる。
レイナルドは動じていなかった。
いや――違う。その蒼い瞳が、かすかに揺れていた。
「……母上」
聞こえるか聞こえないかの声で、呟いた。
「この力が、あの日あれば」
――この人のご両親は、魔物に命を奪われた。
今の光景は、救済であると同時に、あの日救えなかった記憶でもある。
私は何も言わなかった。ただ、そっとその隣に立った。
レイナルドが小さく息を吐き、いつもの表情に戻る。
「見事だった、リーゼル。――だが、これだけでは足りない」
「はい。この群れは北の森から来ました。原因を断たなければ、また同じことが起きる」
私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「公国全土に、恒久結界を張り直します。今の魔導結界じゃなく、聖女の力による本物の結界を」
ヴァルターが素っ頓狂な声を上げた。
「国ひとつ丸ごとぉ!?」
「できるのですか」
レイナルドの問いは、疑いではなかった。確認だった。
「やります」
* * *
公国の中心、大聖堂の地下。
人の背丈ほどの白い聖石が、淡い光を放っている。
近づくだけでわかった――この石が、聖女の力を「待っている」のだと。
「何かあれば、すぐに止める。無理はするな」
「……はい」
深呼吸を一つ。両手を聖石にかざした。
ドクン。
共鳴する。聖石と私の力が繋がっていく。
白い結晶が金色に染まり、地下全体が黄金の光に包まれた。
力が、聖石を通じて流れ出していく。大地に。空に。公国の隅々にまで。
目を閉じた私には見えなかった。だが後に人々は語る。
大聖堂から金色の光柱が天を衝き、光の膜が国境の果てまで広がったと。
街中が歓声に包まれたと。
だが、地下の私は限界に近づいていた。
体中の力が吸い出されていく。指先が痺れ、視界が霞む。
――まだ。もう少しだけ。
結界の端が国境線に届く。あと少し――。
プツン、と。意識に亀裂が入った。
膝が折れる。世界が傾く。
「リーゼルッ!」
叫び声と同時に、強い腕に抱き止められた。
冷静沈着なルミエール公爵が、声を荒らげて駆け寄り、私を支えている。
「無茶をするなと言っただろう……!」
乱れた声。いつもの余裕は、どこにもなかった。
私は薄れゆく意識の中で、小さく笑った。
「……すみません。でも……」
「喋るな」
耳元で、低く囁かれる。
「――十分だ。よくやった」
その声に、全部救われた気がした。
目を閉じる直前、聖石が安定した金色の光を放っているのが見えた。
――結界は、完成した。
* * *
目が覚めたのは、柔らかいベッドの上だった。
「リーゼルさま! お目覚めになりましたか!?」
フィオナが泣きそうな顔で覗き込んでくる。
「私、どのくらい……」
「丸一日です! もうほんっとうに心配したんですからね!」
体を起こすと、窓の外に息を呑んだ。
空の高いところに薄い金色の膜が見える。
光の粒子がきらきらと降り注ぎ、街全体が柔らかな輝きに包まれていた。
「結界のおかげで街のお花が一斉に咲いて、病気の人が元気になって、お水も美味しくなったって!」
ドアが静かに開いた。
「起きたか」
レイナルドだった。いつもの冷静な表情。
「……ずっと、起きていらしたんですか」
「気のせいだ」
「嘘が下手なのはどちらですか」
レイナルドがわずかに目を逸らした。フィオナがぷっと吹き出す。
「支度ができたら来てください。――民が、あなたを待っている」
* * *
大聖堂前の広場に、見渡す限りの人々が集まっていた。
私の姿が見えた瞬間。
「聖女様だ!」
歓声が、波のように広がった。
花が投げられる。
子どもたちが手を振る。
老人が涙を流しながら手を合わせている。
「この国を、お守りくださって……!」
涙が、止まらなかった。
エルステッドでは「無能」と嗤われた。邪魔だと、いらないと、捨てられた。
でも――ここに来てよかった。初めて、心からそう思えた。
隣に立つレイナルドが、微かに笑った。
「あなたにはこの景色が似合う」
金色の結界の光の下、ルミエール公国が歓喜に包まれている。
この国は、もう大丈夫。私が、守る。
* * *
同じ頃――エルステッド王国。
城壁が、砕けた。
ルミエールの結界に弾かれた魔物の群れが濁流のように押し寄せ、王都を守る最後の城壁を突き破ったのだ。
街路を魔獣が駆け抜ける。屋台が吹き飛び、悲鳴が重なり、逃げ惑う民が石畳に折り重なる。
「避難命令を! 避難命令を出してください!」
兵士の絶叫が王城に届いたとき、玉座の間はすでに混乱の極みにあった。
「聖女の力を失った結界が、完全に消滅しました。――国中の結界が、すべて」
宰相の報告を、アルヴィンは玉座に座ったまま聞いていた。
立ち上がることすら、できなかった。
窓の外。
エルステッドの空を、黒い影の群れが覆い尽くしていく。
かつて金色に輝いていた結界の光は、もうどこにもなかった。




