表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

第五話「私を捨てた国が、今さら何の用ですか?」

 ――返還せよ。


 朝食の席でレイナルドから聞かされたその一言が、一晩中頭から離れなかった。


 レイナルドは「同席しなくていい」と言った。


 でも、私はどうしても自分の目で見届けたかった。


 エルステッド王国からの使者が到着したのは、その日の昼過ぎだった。


         * * *


「聖女リーゼルは我がエルステッド王国の所有物である。直ちに返還されたい」


 謁見の間に響いた声は、驚くほど傲慢だった。


 使者は中年の文官で、胸を反らし、まるで属国に命令でも下すかのような口調だった。


 背後に控える護衛騎士も、公爵邸の広間を値踏みするように見回している。


 その瞬間、空気が凍った。


 レイナルドの隣に控えていたヴァルターの手が、腰の剣に触れる。


 居並ぶ文官たちが息を呑み、一歩ずつ後退った。


 レイナルドは玉座に深く腰掛けたまま、表情ひとつ変えなかった。


「……所有物?」


 静かだった。


 嵐の前の凪のように静かだった。


 蒼い瞳が使者を射抜く。


 それだけで、護衛騎士が無意識に半歩下がった。


「たしかエルステッド王国が彼女にしたことは、"追放"でしたね。不要だと切り捨てておいて、今になって所有物を返せ、と?」


「そ、それは――王太子殿下のご判断に一時の誤りがあったとしても、聖女は我が国の召喚によって生まれた存在であり――」


「誤り」


 レイナルドが呟いた。


 たった二文字なのに、使者の声が詰まった。


「結界が綻び始めて慌てているのでしょう。だが、それは貴国の問題だ。この国に迷惑をかけないでいただきたい」


「し、しかし……!」


「話は終わりです」


 レイナルドが片手を上げた。


 ヴァルターが一歩前に出る。


 その巨体が使者の視界を塞いだだけで、文官の顔から血の気が引いた。


 ――ここで終わるはずだった。


「待ってください」


 私は、謁見の間の柱の陰から歩み出た。


 レイナルドがわずかに目を見開く。


 ヴァルターが振り返る。


 フィオナが扉の陰で「リーゼルさま!」と小さく叫ぶ声が聞こえた。


「……やはり、来ていましたか」


 レイナルドの声は、あくまで穏やかだった。


 驚いてはいない。


 私がここにいることを、予測していたような目だった。


 でも。


「大丈夫です」


 足が震えていた。


 心臓がうるさかった。


 それでも、止まらなかった。


「……私の口で、言わなきゃいけないことがあるんです」


 使者が目を丸くした。そしてすぐに、嘲るような笑みを浮かべる。


「おお、リーゼル殿。ちょうどよい。さあ、我らと共にお戻りを。王太子殿下もお待ちです。あなたの処遇については改善を――」


「お断りします」


 使者の言葉を、真正面から断ち切った。


 声が、思ったよりもよく通った。


「……なんだと?」


「お断りします、と申し上げました」


 私は使者の目をまっすぐ見つめた。


 逃げない。


 もう、逃げない。


 あの日、謁見の間で俯いていた自分は、もういない。


「『無能な聖女はいらない』」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


 でも、もう折れない。


「――そう仰ったのは、あなた方の王太子殿下ですよ?」


 使者の顔が強張った。


「国中の貴族の前で、私を"無能"と断じ、聖女の称号を剥奪し、国外へ追放した。護衛もつけず、路銀すら持たせずに」


 一歩、前へ。


「今さら返せと言われましても。捨てたものを拾い直すなら、まずは捨てた方が頭を下げるのが道理ではありませんか?」


 私はそこで少しだけ微笑んだ。


 自分でも驚くくらい、穏やかに。


「私はもう、エルステッド王国に帰る理由がありません」


 使者が口をぱくぱくと動かした。


 反論を探しているのだろう。


 でも、見つからないようだった。


 沈黙を破ったのは、レイナルドだった。


「聞いての通りだ」


 玉座から立ち上がる。それだけで、謁見の間の全員の背筋が伸びた。


 レイナルドは私の隣まで歩いてきて、使者を見下ろした。


「この方は我が国の大切な賓客だ。"所有物"などという言い方をする国に、返す道理がどこにある」


 使者の膝が、がくりと折れかけた。


「お、覚えていろ……!」


 使者が、引きずられながら最後の虚勢を張った。


「この非礼、必ず大陸中に公表する! ルミエール公国が他国の聖女を不当に囲い込んでいると――」


「どうぞ」


 レイナルドが、微笑んだ。


「"無能な聖女を追放した国が、追放した途端に結界が崩壊し、慌てて返還を要求した"。――そちらの方がよほど面白い話だと思いますが」


 使者の顔が、紙のように白くなった。


 口がぱくぱくと動いたが、もう一言も出てこなかった。


「――ヴァルター」


「はいはい。じゃ、お客人。帰り道はわかるよな?」


 ヴァルターが熊のような手で使者の肩を掴んだ。護衛騎士ごと、引きずられるようにして退場していった。


 扉が閉まった。


 途端に、膝から力が抜けた。


「――っ」


「おっと」


 レイナルドの腕が、崩れかけた私の体を支えた。


「よく頑張りましたね」


 耳元で囁かれた声は、先ほどまでの氷の公爵とは別人のように柔らかかった。


「あんな連中の前に出なくてもよかったのに」


「……いいえ」


 私は首を横に振った。


 まだ膝が笑っていたけれど、胸の中には、震えとは違う何かが広がっていた。


「自分で言えて、よかったです」


 レイナルドが一瞬きょとんとして、それからふっと目を細めた。


「……ええ。あなたは、強い人だ」


 頬が熱くなって、私は慌てて顔を逸らした。


         * * *


 同じ頃――エルステッド王国。


 空を覆っていた金色の結界が、黒い染みのように端から腐り落ちていく。


 その下を、荷車を引いた民たちが西へ、東へ、逃げ惑っていた。


 泣き叫ぶ子供を抱えた母親が転び、誰も手を貸さずに駆け抜けていく。


 王城、玉座の間。


「陛下、西部辺境の結界が完全に消失しました! 魔物の群れが三つの村を襲撃、被害は拡大中です!」


「南部でも同様の報告が!」


 続けざまに飛び込んでくる伝令を、アルヴィンは苛立たしげに睨みつけた。


「セリーヌ!」


 傍らに立つ金の巻き毛の少女に、怒声を浴びせる。


「お前が聖女の代わりをすると言ったはずだ! 結界を維持してみせると! それがこのざまか!」


「わ、私には無理よ……!」


 セリーヌの顔は蒼白だった。


 化粧で繕った顔が、涙と汗で崩れている。


「あの結界は歴代最強の聖女の力で維持されていたの! 私の魔力じゃ、綻びを塞ぐことすらできない……!」


「ならば何のためにお前を聖女に据えた!」


「あなたが私を選んだんでしょう!?」


 一瞬の沈黙。


 二人の間に走った亀裂は、結界の綻びよりも深かった。


 アルヴィンは舌打ちし、伝令に向き直った。


「……ルミエール公国に、もう一度使者を出せ。今度は正式な外交書簡を――」


「殿下。先ほど、ルミエール公国から使者が戻りました」


「それで?」


「……門前払いだったとのことです。公爵は"次は外交問題にする"と」


 アルヴィンの拳が、玉座の肘掛けを叩いた。


 ふと、銀色の髪が脳裏をよぎった。


 謁見の間で俯いていた、あの細い背中。「承知いたしました」と、震えもしなかった声。


 ――あいつが、歴代最強の聖女? 馬鹿な。あの無能が?


 アルヴィンは頭を振って、その記憶を振り払った。


「たかが辺境の公国風情が……!」


 だが、その声にはもう、かつての余裕はなかった。


         * * *


 ルミエール公国。夜。


「リーゼルさま、今日は本当にかっこよかったです! 使者の顔、見ました? 真っ青でしたよ!」


 フィオナが興奮気味にお茶を注いでくれる。


「もう、そんな大げさな……」


「大げさじゃありませんよ! ヴァルターさまなんて"あの嬢ちゃん、肝が据わってんな"って大喜びでしたもん!」


 私は温かいカップを両手で包みながら、窓の外を見た。


 北の空に、星が瞬いている。エルステッド王国の方角だ。


 ――あの国を恨んでいる。でも、あの国にはまだ、何も知らない人たちがいる。


「……フィオナ」


「はい?」


「……ううん。なんでもない」


         * * *


 翌朝。


「リーゼル」


 レイナルドが朝食の席で、いつになく真剣な顔をしていた。


「北の国境付近で、結界に異常が検知されました」


 フォークを持つ手が止まる。


「エルステッド王国の結界が崩壊した影響が、こちらにまで及び始めている」


 レイナルドの蒼い瞳が、まっすぐに私を見た。


「近日中に、視察に向かいます。――あなたにも、来ていただきたい」


「――はい。行きます」


 迷いは、なかった。


 守られるだけの聖女は、もう終わりだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ