第五話「私を捨てた国が、今さら何の用ですか?」
――返還せよ。
朝食の席でレイナルドから聞かされたその一言が、一晩中頭から離れなかった。
レイナルドは「同席しなくていい」と言った。
でも、私はどうしても自分の目で見届けたかった。
エルステッド王国からの使者が到着したのは、その日の昼過ぎだった。
* * *
「聖女リーゼルは我がエルステッド王国の所有物である。直ちに返還されたい」
謁見の間に響いた声は、驚くほど傲慢だった。
使者は中年の文官で、胸を反らし、まるで属国に命令でも下すかのような口調だった。
背後に控える護衛騎士も、公爵邸の広間を値踏みするように見回している。
その瞬間、空気が凍った。
レイナルドの隣に控えていたヴァルターの手が、腰の剣に触れる。
居並ぶ文官たちが息を呑み、一歩ずつ後退った。
レイナルドは玉座に深く腰掛けたまま、表情ひとつ変えなかった。
「……所有物?」
静かだった。
嵐の前の凪のように静かだった。
蒼い瞳が使者を射抜く。
それだけで、護衛騎士が無意識に半歩下がった。
「たしかエルステッド王国が彼女にしたことは、"追放"でしたね。不要だと切り捨てておいて、今になって所有物を返せ、と?」
「そ、それは――王太子殿下のご判断に一時の誤りがあったとしても、聖女は我が国の召喚によって生まれた存在であり――」
「誤り」
レイナルドが呟いた。
たった二文字なのに、使者の声が詰まった。
「結界が綻び始めて慌てているのでしょう。だが、それは貴国の問題だ。この国に迷惑をかけないでいただきたい」
「し、しかし……!」
「話は終わりです」
レイナルドが片手を上げた。
ヴァルターが一歩前に出る。
その巨体が使者の視界を塞いだだけで、文官の顔から血の気が引いた。
――ここで終わるはずだった。
「待ってください」
私は、謁見の間の柱の陰から歩み出た。
レイナルドがわずかに目を見開く。
ヴァルターが振り返る。
フィオナが扉の陰で「リーゼルさま!」と小さく叫ぶ声が聞こえた。
「……やはり、来ていましたか」
レイナルドの声は、あくまで穏やかだった。
驚いてはいない。
私がここにいることを、予測していたような目だった。
でも。
「大丈夫です」
足が震えていた。
心臓がうるさかった。
それでも、止まらなかった。
「……私の口で、言わなきゃいけないことがあるんです」
使者が目を丸くした。そしてすぐに、嘲るような笑みを浮かべる。
「おお、リーゼル殿。ちょうどよい。さあ、我らと共にお戻りを。王太子殿下もお待ちです。あなたの処遇については改善を――」
「お断りします」
使者の言葉を、真正面から断ち切った。
声が、思ったよりもよく通った。
「……なんだと?」
「お断りします、と申し上げました」
私は使者の目をまっすぐ見つめた。
逃げない。
もう、逃げない。
あの日、謁見の間で俯いていた自分は、もういない。
「『無能な聖女はいらない』」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
でも、もう折れない。
「――そう仰ったのは、あなた方の王太子殿下ですよ?」
使者の顔が強張った。
「国中の貴族の前で、私を"無能"と断じ、聖女の称号を剥奪し、国外へ追放した。護衛もつけず、路銀すら持たせずに」
一歩、前へ。
「今さら返せと言われましても。捨てたものを拾い直すなら、まずは捨てた方が頭を下げるのが道理ではありませんか?」
私はそこで少しだけ微笑んだ。
自分でも驚くくらい、穏やかに。
「私はもう、エルステッド王国に帰る理由がありません」
使者が口をぱくぱくと動かした。
反論を探しているのだろう。
でも、見つからないようだった。
沈黙を破ったのは、レイナルドだった。
「聞いての通りだ」
玉座から立ち上がる。それだけで、謁見の間の全員の背筋が伸びた。
レイナルドは私の隣まで歩いてきて、使者を見下ろした。
「この方は我が国の大切な賓客だ。"所有物"などという言い方をする国に、返す道理がどこにある」
使者の膝が、がくりと折れかけた。
「お、覚えていろ……!」
使者が、引きずられながら最後の虚勢を張った。
「この非礼、必ず大陸中に公表する! ルミエール公国が他国の聖女を不当に囲い込んでいると――」
「どうぞ」
レイナルドが、微笑んだ。
「"無能な聖女を追放した国が、追放した途端に結界が崩壊し、慌てて返還を要求した"。――そちらの方がよほど面白い話だと思いますが」
使者の顔が、紙のように白くなった。
口がぱくぱくと動いたが、もう一言も出てこなかった。
「――ヴァルター」
「はいはい。じゃ、お客人。帰り道はわかるよな?」
ヴァルターが熊のような手で使者の肩を掴んだ。護衛騎士ごと、引きずられるようにして退場していった。
扉が閉まった。
途端に、膝から力が抜けた。
「――っ」
「おっと」
レイナルドの腕が、崩れかけた私の体を支えた。
「よく頑張りましたね」
耳元で囁かれた声は、先ほどまでの氷の公爵とは別人のように柔らかかった。
「あんな連中の前に出なくてもよかったのに」
「……いいえ」
私は首を横に振った。
まだ膝が笑っていたけれど、胸の中には、震えとは違う何かが広がっていた。
「自分で言えて、よかったです」
レイナルドが一瞬きょとんとして、それからふっと目を細めた。
「……ええ。あなたは、強い人だ」
頬が熱くなって、私は慌てて顔を逸らした。
* * *
同じ頃――エルステッド王国。
空を覆っていた金色の結界が、黒い染みのように端から腐り落ちていく。
その下を、荷車を引いた民たちが西へ、東へ、逃げ惑っていた。
泣き叫ぶ子供を抱えた母親が転び、誰も手を貸さずに駆け抜けていく。
王城、玉座の間。
「陛下、西部辺境の結界が完全に消失しました! 魔物の群れが三つの村を襲撃、被害は拡大中です!」
「南部でも同様の報告が!」
続けざまに飛び込んでくる伝令を、アルヴィンは苛立たしげに睨みつけた。
「セリーヌ!」
傍らに立つ金の巻き毛の少女に、怒声を浴びせる。
「お前が聖女の代わりをすると言ったはずだ! 結界を維持してみせると! それがこのざまか!」
「わ、私には無理よ……!」
セリーヌの顔は蒼白だった。
化粧で繕った顔が、涙と汗で崩れている。
「あの結界は歴代最強の聖女の力で維持されていたの! 私の魔力じゃ、綻びを塞ぐことすらできない……!」
「ならば何のためにお前を聖女に据えた!」
「あなたが私を選んだんでしょう!?」
一瞬の沈黙。
二人の間に走った亀裂は、結界の綻びよりも深かった。
アルヴィンは舌打ちし、伝令に向き直った。
「……ルミエール公国に、もう一度使者を出せ。今度は正式な外交書簡を――」
「殿下。先ほど、ルミエール公国から使者が戻りました」
「それで?」
「……門前払いだったとのことです。公爵は"次は外交問題にする"と」
アルヴィンの拳が、玉座の肘掛けを叩いた。
ふと、銀色の髪が脳裏をよぎった。
謁見の間で俯いていた、あの細い背中。「承知いたしました」と、震えもしなかった声。
――あいつが、歴代最強の聖女? 馬鹿な。あの無能が?
アルヴィンは頭を振って、その記憶を振り払った。
「たかが辺境の公国風情が……!」
だが、その声にはもう、かつての余裕はなかった。
* * *
ルミエール公国。夜。
「リーゼルさま、今日は本当にかっこよかったです! 使者の顔、見ました? 真っ青でしたよ!」
フィオナが興奮気味にお茶を注いでくれる。
「もう、そんな大げさな……」
「大げさじゃありませんよ! ヴァルターさまなんて"あの嬢ちゃん、肝が据わってんな"って大喜びでしたもん!」
私は温かいカップを両手で包みながら、窓の外を見た。
北の空に、星が瞬いている。エルステッド王国の方角だ。
――あの国を恨んでいる。でも、あの国にはまだ、何も知らない人たちがいる。
「……フィオナ」
「はい?」
「……ううん。なんでもない」
* * *
翌朝。
「リーゼル」
レイナルドが朝食の席で、いつになく真剣な顔をしていた。
「北の国境付近で、結界に異常が検知されました」
フォークを持つ手が止まる。
「エルステッド王国の結界が崩壊した影響が、こちらにまで及び始めている」
レイナルドの蒼い瞳が、まっすぐに私を見た。
「近日中に、視察に向かいます。――あなたにも、来ていただきたい」
「――はい。行きます」
迷いは、なかった。
守られるだけの聖女は、もう終わりだ。




