第四話「公爵閣下は、聖女を手放す気がないようです」
――この国の聖女として、ここにいてほしい。
レイナルドの「相談」は、思っていたよりずっと重い言葉だった。
「ルミエール公国は、百年以上聖女を持たない国です。結界の維持は魔導技術で補っていますが、限界が近い。――あなたの力があれば、この国の民を守れる」
研究者たちが退出した後の測定室で、レイナルドは真っ直ぐに私を見ていた。
「もちろん、強制はしません。ただ、ここにいてくれるなら――公国の賓客として、相応の待遇を約束します」
賓客。エルステッドでは物置部屋と硬いパンだった私に、この人は今、賓客と言った。
「……私で、いいんですか」
「あなたがいい」
迷いのない声だった。
こんなに真っ直ぐに求められたことなんて、三年間で一度もなかった。
胸の奥が熱くなって、うまく言葉が出てこない。
「……はい。私に、できることがあるなら」
小さく頷いた瞬間、レイナルドの表情がふっと緩んだ。
微笑みとは違う。安堵のような、もっと柔らかいもの。
あの「見つけた」の呟きが、ふと頭の隅をよぎった。
――この人にとって、聖女を見つけるということは、それほどまでに大きかったのだろうか。
* * *
翌日。目を覚ますと、部屋が変わっていた。
天蓋付きの大きな寝台。
窓辺には花が飾られ、朝日を受けて花弁がきらきら光っている。
壁一面の本棚、ふかふかの絨毯、暖炉の上には小さな時計。
エルステッドの物置部屋の、百倍は広い。
「おはようございます、リーゼルさま! 今日からここがリーゼルさまのお部屋です!」
フィオナが得意げにクローゼットを開けると、色とりどりのドレスが並んでいた。
「……これ、全部、私の?」
「レイナルドさまが仕立屋に急ぎで頼んだんです。『彼女に似合う色を全部』って」
全部って何。
混乱する私に、フィオナが藤色のドレスを当てた。
「瞳の色に合わせたんですって」
鏡の前に立つ。
藤色の布地が菫色の瞳と響き合い、銀の髪がドレスの刺繍に溶けるように光った。
――これが、私? 色褪せた修道服しか知らなかった私が。
「きれい……! リーゼルさま、すっごくお似合いです!」
ただ服を着ただけなのに、胸がじんと温かい。
* * *
それからの日々は、夢みたいだった。
温かい食事が三食。
「好きなだけ食べていい」と言われたとき、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
数日後の朝、フィオナに手を引かれて公爵邸の門を出た。
「今日はお買い物です! リーゼルさま、ルミエールの街、まだ見てないでしょう?」
門を出た瞬間、息を呑んだ。
白い石造りの街並み、運河に咲く小さな花、パン屋から流れる甘い匂い。
エルステッドの灰色とは、何もかもが違った。
「はい、これ! ルミエール名物、はちみつ焼き菓子!」
花の形の金色の菓子。
一口かじると、甘さがふわっと広がった。
「おいし……」
「でしょう!?」
フィオナが満面の笑みで頬張る。
つられて、私も笑った。
――あれ。笑うって、こんなに簡単だったっけ。
運河沿いのベンチで焼き菓子をかじっていたら、ふと記憶がよぎった。
学校の帰り道。
コンビニのアイス。
友達と笑いながら歩いた、坂の上からの夕焼け。
――もう帰れない、あの日常。
でも。
隣でフィオナが口の周りにはちみつをつけて笑っている。
運河の光。
焼き菓子の甘さ。
あの日常にはなかったものが、ここにはある。
* * *
数日後の夕方。
庭園を散歩していたら、レイナルドと出くわした。
夕日が薔薇のアーチを琥珀色に染めて、空気ごと甘く香っていた。
「散歩ですか?」
「は、はい。お庭が綺麗で、つい……」
「構いませんよ。ここは好きに使ってください」
レイナルドは薔薇のアーチの下に立っていた。
夕日を背にして、蒼い瞳が琥珀色に滲んでいる。
――絵みたいだな、と思った。思って、慌てて視線をそらした。
「少し、歩きませんか」
並んで庭園を歩く。
レイナルドの歩幅は大きいのに、無意識にこちらに合わせてくれている。
「この庭は、母が設計したものです」
不意に、レイナルドが言った。
「花が好きだったんですか?」
「ええ。――母が好きだった」
短い言葉だった。それ以上は語らない。
でも、薔薇を見つめるその横顔に、あの廊下の肖像画と同じ面影が重なった。
この人はこうやって、大切な人の残したものを守り続けているんだ。
「……素敵な、お庭ですね」
「母が聞いたら喜びます」
レイナルドが少しだけ笑った。
初めて見る、年相応の笑い方。
胸が、とくん、と跳ねた。
「あなたの部屋にも花を飾らせました。迷惑でなければいいのですが」
「迷惑なんて! 嬉しかったです。……あの、この庭の花も、やけに元気ですよね。私が来てから」
「ええ。あなたの浄化の魔力が、庭全体に影響しているようだ」
「部屋の花だけじゃなく、庭まで……?」
レイナルドが、ふっと笑った。
「自覚がないところも含めて――あなたは本当に、面白い人だ」
面白い人。
無能でも、役立たずでもなく。
三年間、誰かに「面白い」と言ってもらえたことなんてなかった。
どうしよう。その一言だけで、泣きそうになる。
* * *
ある日。フィオナに「閣下からのお申し出です」と連れて行かれたのは、大広間だった。
磨き上げられた床。高い天井にシャンデリアの明かり。
その真ん中に、レイナルドが立っていた。
「来週、公国の祝祭があります。舞踏会に出席してもらうことになるので――踊りを教えておきたい」
「踊り、ですか? 私、そういうの全然……」
「知っています。だから今、教える」
有無を言わさない口調。
でも差し出された手は、丁寧で穏やかだった。
おそるおそる、その手を取る。
大きくて、温かい。
「右足から。私に合わせなくていい、自分の歩幅で」
ぎこちなく足を動かす。
何度も踏みそうになる。
「す、すみません、足が――」
「気にしなくていい。――もう少し、近くに」
ぐっと腰を引き寄せられて、距離が縮まった。
レイナルドの胸元が近い。心臓の音が聞こえそうなくらい近い。
――って、聞こえてるの私の心臓のほうだ。
「目を見て」
蒼い瞳が、すぐそこにある。
見上げた瞬間、足がもつれた。転びかけた体を、片腕で軽々と支えられる。
「……大丈夫ですか」
至近距離で問われて、顔が熱くなった。
「だ、大丈夫です。大丈夫――」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。
心臓がうるさすぎて、音楽が聞こえない。
大広間の隅で、フィオナが両手で口を押さえて、にやにやしていた。
――見てないでよ。
* * *
それから何日か過ぎた朝。
部屋に戻ると、花瓶の花が新しいものに変わっていた。菫に似た青紫の小花。
「フィオナ、この花……」
「レイナルドさまが、朝一番に届けさせたんですよ。『彼女の瞳に似ている花を見つけた』って」
私の瞳に、似ている花。
――この人は、どうしてこういうことをさらっと言うのだろう。
「フィオナ。レイナルドさまって、いつもこう?」
「こう、とは?」
「その……こういう、距離感の……」
「いいえ? 閣下がこんなふうにされるの、初めて見ます」
フィオナが、急に真面目な顔になった。
「リーゼルさま。私、聖女様だからリーゼルさまにお仕えしているんじゃありません」
「え?」
「三日目の朝、覚えてますか? リーゼルさま、焼き菓子を食べて笑ったでしょう。あの笑顔を見たとき、思ったんです。――ああ、この方のそばにいたいなって」
フィオナの茶色い瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「聖女さまだからじゃなく、リーゼルさまだから。私はあなたにお仕えしたいんです」
目頭が熱くなった。
三年間、誰にも選ばれなかった。
聖女としても、人としても。
でもフィオナは、「リーゼル」を選んでくれた。
「……ありがとう、フィオナ」
震える声で言ったら、フィオナはいつもの明るい顔に戻って、「泣かないでくださいよ、こっちまでもらい泣きしちゃうので!」と笑った。
――ああ、私はもう、一人じゃないんだ。
* * *
その日の夕方。
庭園で薔薇の手入れを眺めていたら、レイナルドが現れた。
最近、この時間に庭園に来ると、なぜかレイナルドもいる。偶然なのか、そうでないのか。
「リーゼル。一つ、話が――」
レイナルドが口を開きかけた、そのとき。
「リーゼルさまーっ!」
庭園の向こうから、フィオナが全力で走ってきた。
髪を振り乱して、息を切らして。
「大変です! 大変大変大変!」
レイナルドが、ぴくりと眉を動かした。
「……フィオナ」
「あっ、し、失礼しました閣下! でも本当に大変なんです!」
フィオナが差し出したのは、一通の書簡だった。
蝋印に押された紋章を見た瞬間、レイナルドの目が細くなった。
穏やかな空気が、一瞬で消えた。
「……エルステッド王国の紋章か」
その声に初めて、冷たい硬さが混じった。
フィオナが背筋を伸ばす。
庭師が手を止める。
空気が、変わった。
「閣下。エルステッド王国の使者が、明日ルミエールに到着するとのことです。――聖女の返還を求めて」
返還。
その言葉が、夕暮れの庭園に落ちた。
聖女の、返還。
私を「無能」と追い出した国が、私を返せと言っている。
足が、震えた。
あの謁見の間の空気が、セリーヌの嘲笑が、一瞬で蘇る。
レイナルドが書簡を畳んだ。
そして振り返り、怯える私を見て――静かに、けれど揺るぎない声で言った。
「安心してください。あなたは、どこにもやらない」
蒼い瞳に、穏やかさはなかった。
代わりにそこにあったのは、公爵としての、冷徹な意志だった。




