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第二話「隣国の公爵は、追放された聖女を拾い上げる」

 目が覚めたら、知らない天井だった。


 ――って、この世界では、こんな始まり方は二度目だ。


 違うのは、今回は魔法陣じゃなくて、ただの空腹と疲労で倒れたということ。


 あの後どうなったのか、記憶がはっきりしない。


 街道をひたすら歩いて、いつの間にか森に入って――そこから先が、ぼんやりと霧がかかったようになっている。


 確かなのは、体中が痛いこと。それと。


 ――この寝台、柔らかすぎない?


 ふかふかの羽毛布団。


 糊のきいた白いシーツ。使用人棟の固い板と薄い毛布しか知らない私には、別世界だった。


 体を起こそうとして、腕に力が入らない。ずるり、と肘が滑る。


 そのとき、部屋の扉がコンコンと鳴った。


「失礼しますね。――あ、起きてる!」


 明るい声と一緒に入ってきたのは、栗色の髪をひとつに束ねた女の子だった。


 頬にそばかすが散っていて、温かい茶色の瞳が、ぱっと輝く。


 私と同じか少し年上くらい。手には湯気の立つトレイを持っている。


「よかったあ! 私、フィオナ。あなたのお世話係です!」


 状況がまるでわからない。


 困惑する私をよそに、フィオナはてきぱきとベッド脇の小卓にトレイを置いた。


「ここはルミエール公国、公爵邸の客室。今日で三日目ですよ、あなたが眠ってたの。レイナルドさま――公爵閣下が国境の森で見つけて連れ帰ったんです」


 三日も眠っていた?


「はい、まずはこれ。冷めないうちにどうぞ」


 白い器の蓋を取ると、琥珀色のスープから湯気が立った。野菜と鶏肉の、優しい香り。


 震える手で一口、口に含む。


 温かい。体の芯まで染みる温かさ。


 何の変哲もない、ただのスープなのに。


「……おいしい」


 声が震えた。


「温かい食事、久しぶりで……」


 こらえようとしたのに、ぽろぽろと涙がこぼれて、スープの中に落ちた。


「ちょ、泣かないで! 口に合わなかった? もっと薄味のほうがよかった?」


「いえ、違うんです。おいしくて……おいしくて、泣いて……すみません、本当にすみません」


 フィオナが慌ててハンカチを差し出してくれた。


 押しつけがましくなく、ただそっと、手の届くところに。


「泣きたいときは泣いていいんですよ。三日も寝てたんだもの、体も心も疲れてるんです」


 その言葉が、胸に刺さった。


 こんなふうに言ってもらったの、いつ以来だろう。


 ――いや、初めてかもしれない。この世界に来てから。


 涙を拭いながら、少しずつスープを飲み干した。


 空になった器を小卓に戻すと、フィオナが嬉しそうに笑った。


「全部飲んでくれた。料理長に伝えたら喜びますよ。――あ、お花、元気になってる」


 フィオナが窓辺を指さした。


 小さな花瓶に、しおれかけの白い花が一輪。


 なのに私が目を向けると――いや、さっきから目覚めていた間にそうなっていたのか、花びらはぴんと開いて、摘みたてのように瑞々しい。茎まで鮮やかな緑色に戻っている。


「おかしいなあ、昨日はもうだめかなって思ってたのに。この部屋、日当たりがいいからかな」


 フィオナは首をかしげただけで、すぐに話題を変えた。


 でも私は少しだけ気になった。窓辺の花瓶の水が、やけに澄んでいる。


 朝の光を受けて、きらきらと光っていた。


 ――気のせい、だよね。


 それから一時間ほどして、再び扉がノックされた。


 低い、落ち着いた声。


「入ってもいいだろうか」


 その声が聞こえた瞬間、フィオナが弾かれたように立ち上がった。


 さっきまでのお喋り好きな女の子が、一瞬で背筋の伸びた侍女の顔になる。


 扉を開けて入ってきた人を見て、息が止まった。


 ――背が、高い。


 黒髪に、深い蒼の瞳。


 軍服のような仕立てのいい上着から覗く広い肩幅。


 端正な顔立ちに浮かぶのは穏やかな微笑だが、一歩踏み入れただけで、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


 圧がある。声を荒げているわけでも、威張っているわけでもないのに。


 ただそこにいるだけで空間の中心が移る。


 ――この人は、上に立つ人間だ。


 その後ろから、赤い髪の大男がひょいと顔を覗かせた。


「おう、目が覚めたか嬢ちゃん! いやあよかった――」


 黒髪の人が、ちらりと振り返った。それだけだった。一言も発していない。


 なのにヴァルターと呼ばれた大男は、ぴたりと口を閉じて、ばつの悪そうな顔で頭を掻いた。


 ――今の、目線だけで黙らせた?


 黒髪の人がベッド脇の椅子に静かに腰を下ろす。


「初めまして。ルミエール公国公爵、レイナルド・ルミエールです。気分はいかがですか」


 声は低く落ち着いていて、耳当たりが柔らかかった。さっきの無言の威圧が嘘のように。


 アルヴィンみたいな作り物の優しさじゃない。


 声の温度が、根本から違う。


 ――って、何を考えてるんだろ。


 会ったばかりの相手を信用するなんて、また裏切られるだけだ。


「……リーゼルと申します。お助けいただいたようで、その……ありがとうございます」


「礼には及びません。国境の森で倒れているあなたを見つけたのは、たまたま騎兵の巡回中でした」


 レイナルドは少し間を置いて、静かに続けた。


「抱き上げたとき、驚きました。あまりに軽くて」


 蒼い瞳が、わずかにかげる。


「……まともに食事も、与えられていなかったのでしょう」


 その一言に、心臓がぎゅっと締まった。


 哀れみではなかった。怒りだった。


 私に向けられたものではなく、私をそうさせた何かへの、静かな怒り。


「事情は、フィオナとヴァルターから概ね聞きました。エルステッド王国で聖女として召喚され、三年間務めた末に追放されたと」


「……はい」


「あなたが望むなら、この国にいていい」


 あまりにも穏やかに告げられたその言葉に、頭が真っ白になった。


「え……」


「住む場所と食事は保証します。この国では、行き場のない者を追い返すような真似はしない」


 嘘だ、と思った。


 そんなうまい話があるわけない。


 でも、嘘だと思いたいのに、この人の蒼い瞳は澄んでいて、どこまでも真っ直ぐで。


「……私は、無能な聖女ですよ?」


 自分でも驚くほど、かすれた声だった。


「魔力反応なし。聖石も光らせられない。何の役にも立てない、無能な――」


「それは、あなたを正しく見なかった国の評価でしょう」


 レイナルドが、遮るように、けれど穏やかに言った。


「少なくとも、たった一人で三年を耐え抜いた人を、無能とは呼ばない」


 息が詰まった。


 三年間。「無能」「役立たず」「いらない子」。


 そう言われ続けて、いつしか自分でもそう信じていた。


 それを、会ったばかりの人が否定してくれた。


 ――ああ、だめだ。また泣きそう。


「そういえば、一つ聞いてもいいですか」


 レイナルドがふと思い出したように訊ねた。


「エルステッドの聖石は、いつ頃のものか、ご存知ですか?」


「聖石……ですか?」


 唐突な質問に、少し戸惑う。


「確か、建国期のものだと聞きました。八百年前の……」


「八百年。――そうですか」


 レイナルドは何かを考え込むように頷いて、それ以上は聞かなかった。


 代わりに立ち上がり、部屋の隅に置かれた花瓶にちらりと目を向けた。


 朝よりもさらに生き生きとした白い花。あの花、私が目覚めてからずっと元気になり続けている。


 ――まさか、気づいた?


 いや、考えすぎだ。


「無理はしないでください。体が回復するまでは、ゆっくり休んで」


 レイナルドが扉に向かいかけて、足を止めた。


 その視線が、開いた扉の向こう――廊下の突き当たりの大きな肖像画に向けられていた。


 黒髪の男性と、蒼い瞳の女性。レイナルドによく似た二人。


 一瞬だけ、レイナルドの表情に影がよぎった。


「あの絵は……」


「――両親です」


 その声が、ほんの少しだけ固くなった。


「魔物に」


 それだけ言って、レイナルドは静かに微笑んだ。


 けれどその微笑みの奥に、塞がりきっていない傷があるのが、わかってしまった。


 この人も、何かを失くした人なんだ。


「レイナルドさま」


 思わず呼び止めていた。


「……ありがとう、ございます。見ず知らずの私に、ここまでしてくださって」


 声が震えた。


 こらえきれなくて、また涙が頬を伝った。


 今度はスープの味のせいじゃない。この部屋の柔らかなシーツでも、温かい食事でもない。


 ただ、「いていい」と言ってもらえたこと。


 それだけで、こんなに――。


 レイナルドは振り返って、少しだけ驚いた顔をして、それからとても静かに言った。


「あなたは、もう一人で耐えなくていい」


 その言葉が、三年間ずっと凍っていた胸の奥に、じんわりと染みた。


 扉が閉まったあと、私はしばらく声を殺して泣いた。


 フィオナが何も言わずにそばにいてくれた。


 背中をさすりもせず、慰めの言葉もかけず。ただ、椅子に座って、静かに。


 それがどれだけ救いだったか、きっとフィオナ自身は知らないだろう。


 窓の外では、公爵邸の庭に夕日が沈みかけていた。


 涙が枕に落ちたその場所で、シーツの皺の間に、小さな緑の芽がひとつ、ぴょこんと顔を出していた。


 ――いていい。


 この温かさが本物かどうか、まだわからない。


 でも、いていいと言ってくれた人がいる。


 ――もう少しだけ生きてみようと思えた。


 そのとき、扉の向こうからフィオナの声が聞こえた。


「え、レイナルドさま、もうですか? まだ目覚めたばかりで――」


 続いて、低い声。


「――明日、一つだけ確かめたいことがある。彼女に伝えてくれ」


 扉越しのレイナルドの声は、さっきまでの穏やかなものとは違っていた。


 静かだけれど、確信に満ちた声。


「我が国の聖石で、もう一度、魔力測定を受けてほしい」


 ――え?


 また、測定?


 手が震えた。あの日の記憶が、勝手に蘇る。


 聖石に手をかざした瞬間の、何も起きない沈黙。


 神官たちが一斉に目をそらした、あの空気。


 三年前の「無」を、もう一度突きつけられるの?


 胸の奥が、ぎゅっと冷えた。


 ――怖い。

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