第十二話「力を失ったら」
異変は、少しずつ大きくなっていった。
一週間後の祈祷中、治癒の光が二度途切れた。
三日後の巡回では、花を咲かせようとした手のひらに、金色の光ではなく灰色の火花が散った。
子どもたちの前で、慌てて笑顔で誤魔化した。「今日はちょっと調子が悪いの」と。
私の力が、弱まっている。
確実に。日に日に。
そしてある朝、決定的なことが起きた。
庭園の白い花畑。
あの丘は、私がこの国に来てから花が広がり続けた場所だ。結界の恒久化以降は丘を越えて街の外れまで広がり、冬でも枯れずに咲き続けていた。
いつものように丘を登ろうとして、足が止まった。
花が、しおれている。
丘の頂上付近の花から、色が抜けていた。白い花弁が灰色に変わり、茎がしなしなと折れている。
まるで、力が届かなくなったように。
「……嘘」
駆け寄って、しおれた花に手をかざした。力を込める。
金色の光が、ちらちらと瞬く。でも安定しない。花は少しだけ顔を上げたけれど、すぐにまた、力なく垂れた。
膝の力が抜けた。
この花は、私の魔力に反応して咲く花。私の力が弱まれば、枯れる。
つまり、もう隠しようがない。
「リーゼルさま!」
フィオナが丘を駆け上がってきた。私の傍らで立ち止まり、しおれた花を見て、息を呑む。
「花が……どうして……」
「フィオナ」
立ち上がって、フィオナの目を見た。
「レイナルドを呼んでくれる?」
フィオナは何も聞かなかった。私の顔を見て、一瞬だけ唇を震わせて、そして全力で走っていった。
書斎に、いつもの面々が集まった。
レイナルド、ヴァルター、フィオナ、そしてエーリヒ老師。
私は、全てを話した。力のちらつき。花のしおれ。祈祷中の異変。隠せなくなるまで隠していたこと。
話し終えた後の沈黙が、重かった。
「……なぜ、もっと早く言わなかった」
レイナルドの声は静かだった。でも、怒りが滲んでいた。
「心配をかけたくなくて」
「また、それか」
鋭い声。思わず肩が竦んだ。
レイナルドは一度目を閉じて、深く息を吐いた。
「……すまない。声を荒げた」
「いえ、私が悪いんです。ごめんなさい」
「謝るな。俺が気づくべきだった」
自分を責める方向にいくのが、この人の悪い癖だ。
「閣下」
エーリヒ老師が、おずおずと口を開いた。
「追加の文献調査で、新たにわかったことがございます」
「言え」
「試練が近づくと、聖女の力は徐々に減退する。これは試練に向けた"準備期間"であり、女神が聖女を最も脆い状態に置くのだと。最も弱い心のまま、記憶の門をくぐらせるのだと」
「最も弱い状態に……」
「はい。力を奪うことで、聖女に"力なき自分"を直視させる。それが試練の一部なのです」
力なき自分。
その言葉が、胸に突き刺さった。
力がない自分なんて、嫌というほど知っている。三年間、ずっとそうだった。
「試練の時期は特定できるのか」
「力の減退速度から推測すると……早ければ、あと二週間から一ヶ月ほどかと」
二週間。
そんなに、すぐ。
「結界への影響は」
「聖女さまの力が完全に失われれば、結界は崩壊します。現在の減退速度であれば、試練までは持つと思われますが……」
ヴァルターが腕を組んで唸った。
「つまりよ。試練に受かれば万事解決、落ちたら結界もパーってことか」
「端的に言えば、その通りです」
「なんてこった……」
フィオナが私の隣で、ぎゅっとスカートの裾を握りしめていた。
レイナルドが立ち上がった。
「対策を取る。エーリヒ、試練の突破法に関する文献を最優先で探せ。ヴァルター、結界が一時的に落ちた場合に備えて、国境防衛の強化を。騎士団を臨戦態勢に移す」
「了解です、閣下」
「フィオナ、リーゼルのそばを離れるな」
「はい!」
「そして――」
レイナルドが、私を見た。
「リーゼル。少し、二人で話がある」
書斎に二人きりになった。
夕日が窓から差し込んで、レイナルドの横顔を金色に染めている。
「座ってくれ」
促されて、窓辺のソファに腰を下ろした。レイナルドが隣に座る。
いつもより近い。肩が触れるくらい。
「怖いか」
「……はい」
「何が、一番怖い」
この人は、いつも核心を突いてくる。
答えに詰まった。喉の奥が苦い。
「……力を失うことが、怖い」
「それだけか」
「……力を失ったら、また"いらない子"になるのが、怖い」
声が震えた。こらえようとしたのに、勝手に言葉が溢れ出る。
「わかってるんです。レイナルドは力で私を選んだんじゃないって。フィオナも、ヴァルターさんも、みんな私を見てくれてるって。頭ではわかってる。でも――」
拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「体が覚えてるんです。力がないってだけで全部奪われた記憶が。目をそらされた記憶が。笑われた記憶が。どうしても……どうしても、消えなくて」
三年間のトラウマは、一年半の幸せで上書きできるほど、浅くはなかった。
「レイナルド。力のない私は、ここにいていいんですか」
顔を上げられなかった。
答えを聞くのが怖かった。レイナルドが「いていい」と言ってくれるのはわかっている。でも、それでもまだ怖い自分が、情けなくて。
返事はなかった。
代わりに、頭を大きな手のひらが包んだ。ぐっと引き寄せられて、肩口に額が押し当てられる。
「聞いてくれ」
低い声が、頭の上から降ってきた。
「俺がおまえに惚れたのは、測定室でも、結界を張った日でもない」
「え……」
「森で倒れていたおまえを拾い上げた日だ」
息が詰まった。
「痩せ細って、ボロボロで、力なんて何も持っていなかった。なのにおまえは目を覚まして、最初に何と言った?」
「……なんて、言いましたっけ」
「『お助けいただいたようで、ありがとうございます』と言った」
あの日の記憶。おぼろげだけれど、確かにそう言った気がする。
「ボロボロの体で、見知らぬ国で、見知らぬ男の前で。それでも礼を言った。あの瞬間、俺は知った。この人は強い人だ、と」
レイナルドの腕に、わずかに力が込められた。
「力があろうがなかろうが、おまえはおまえだ。聖女でなくなっても、俺の妻だ。――この家から追い出されるなどと、二度と考えるな」
涙が、ぼろぼろとこぼれた。
わかっていた。この人がそう言ってくれることは、わかっていた。
でも、言葉にして聞くのとでは、全然違った。
恐怖が消えたわけじゃない。三年分の傷は、一言で治るようなものじゃない。
でも今は、この腕の中にいれば、大丈夫だと思える。
「……ありがとう」
「礼はいい」
「いります。何度でも言います。ありがとう、レイナルド」
顔を上げたら、レイナルドが困ったような顔をしていた。
泣いてる私を見ると、この人はいつもどうしていいかわからなくなるのだ。その不器用さが、たまらなく愛おしい。
翌日から、公国は静かに動き始めた。
エーリヒ老師は書庫に篭りきりになり、大陸中の学者に書簡を送った。
ヴァルターは騎士団の訓練を倍にした。「三人同時に泣かせるどころじゃねえぞ」と気合を入れている。
フィオナは私のそばを離れず、でもいつも通り明るく振る舞ってくれた。ただ、昼休みの時間だけは騎士団の訓練場に通い始めた。「何かあったとき、そばにいるだけじゃ嫌なんです」と言って、弓の練習をしているらしい。ヴァルターが「筋がいい」と褒めていたのが、少し意外だった。
私は変わらず祈祷を続けた。力は日に日に弱くなっていたけれど、やめなかった。
一人でも多くの人を治したかった。この力がまだ残っているうちに。
ある日の夕方、祈祷を終えて疲労で足がふらついた私を、フィオナが支えてくれた。
「リーゼルさま、無理しすぎです」
「まだ大丈夫。明日、東地区に疫病の兆候があるって聞いたから――」
「大丈夫じゃありません!」
フィオナが、珍しく声を荒げた。
はっとして振り向くと、フィオナの目が赤くなっていた。
「……ごめん。フィオナ」
「謝らないでください。私が言いたいのは」
フィオナが、ぎゅっと私の手を握った。
「聖女の力がなくなっても、リーゼルさまはリーゼルさまです。力がなくなったら価値がないなんて、そんなの嘘です。――だから、自分を削るようなことしないでください」
その言葉に、胸の奥がぐっと熱くなった。
フィオナの手は、小さくて、温かかった。
「……うん。ありがとう、フィオナ」
「ありがとうじゃなくて、約束してください」
「約束する」
フィオナが泣き笑いの顔で頷いた。
――ああ、私はこの子に支えられているんだ。
力が弱まっていく恐怖は消えない。
でも、握ってくれる手がある。それだけで、もう少し頑張れる。
窓の外で、金色の結界がかすかに揺らいだ。
時間は、あまり残されていなかった。




