第十一話「女神の契約」
あの夢から三日。
何事もなかったように日常は続いていた。朝の祈祷、街の巡回、フィオナとのお茶、レイナルドとの夕食。全部いつも通りで、結界も安定している。
あれは本当にただの夢だったのかもしれない。
――そう思いたかった。
その日、私は神殿の大広間で治癒の祈祷を行っていた。
列をなす人々に、一人ずつ手をかざして金色の光を灯す。
老人の腰痛、子どもの高熱、農夫の骨折。光が触れると痛みが引き、傷が塞がる。
もう何百回とやってきた、慣れた所作。
――のはずだった。
五人目の患者に手をかざした瞬間、指先の光がちらついた。
「……え?」
金色の光が、点滅する。ばちばちと、不安定な火花のように。
「せ、聖女さま?」
患者の女性が不安そうに見上げてくる。
「だ、大丈夫です。少し集中が乱れただけで――」
力を込め直す。光は安定した。治癒は問題なく完了した。
でも、指先に残る違和感。いつもなら何の抵抗もなく流れる力が、一瞬だけ、引っかかった。
――気のせい。疲れているだけ。
祈祷が終わった後、フィオナが水を持ってきてくれた。
「リーゼルさま、お顔の色が良くないですよ。最近、あまり眠れていないんじゃ……」
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
フィオナの心配そうな目を、笑顔でかわした。
嘘が下手なのはレイナルドだけじゃない。私だって、下手だ。
その日の午後、レイナルドに呼ばれて書斎に向かった。
公爵邸の書斎は天井まで届く本棚に囲まれた部屋で、窓からは庭園のアーチが見える。レイナルドの一番好きな場所だ。
扉を開けると、レイナルドが机に向かっていた。その前には、見覚えのない眼鏡の研究者が立っている。
「ああ、リーゼル。紹介します。大聖堂付きの古文書研究官、エーリヒ老師です」
エーリヒと呼ばれた老人が深々と頭を下げた。白髪を後ろに撫でつけた、温厚そうな老学者だ。
「聖女さま、お初にお目にかかります。本日は古い文献について、お耳に入れたいことがございまして」
「古い文献?」
レイナルドが私に椅子を勧め、老師が一冊の革張りの書物を机の上に広げた。
ページは黄ばみ、端が朽ちかけている。文字は古い言語で書かれていて、ほとんど読めない。
「これは約四百年前に記された文献です。大聖堂の最深部の書庫から発見されました。内容は――聖女と女神ルミナリスの"契約"に関するものです」
契約。
あの夢の中の声が、耳の奥で蘇った。
「……契約、とは」
「女神ルミナリスの祝福は、無条件に永続するものではございません」
エーリヒ老師が、震える指でページを繰った。
「女神ルミナリスは、時を選んで聖女に"試練"を課す。試練に堪えれば祝福は更新される。しかし――」
「しかし?」
「試練に堪えられなかった場合、祝福は剥奪されます。聖女の力は完全に失われ、二度と戻らない」
空気が、冷えた。
「……力が、完全に?」
「はい。この文献によれば、四百年前に試練に敗れた聖女がいたようです。彼女は力を失い、その国の結界は消滅しました。以降、その国には聖女が現れず……国は百年もたずに滅んだと」
背中を冷たいものが走った。
結界の消滅。それはエルステッド王国で見たばかりだ。聖女を失った国がどうなるか、この目で見た。
「試練の内容は?」
レイナルドが訊いた。声はいつも通り冷静だったが、机の上で組んだ指が白い。
「詳細は記されておりません。ただ一節だけ――」
老師が該当の一文を指さした。
「『聖女は記憶の門をくぐり、己の魂を女神に捧げねばならぬ。心砕けし者は、光を失う』」
記憶の門。
あの夢で聞いた言葉と、同じだ。
「時期は」
「文献によれば、前回の試練は四百年前。その前が五百年前。必ずしも百年ごとではなく、女神の意志に委ねられるようですが――現在の聖女様の祝福が、歴代で類を見ない規模であることを考えると……」
「女神が放置するはずがない、と」
レイナルドが、静かに言い切った。
老師が重々しく頷く。
「閣下の仰る通りです。歴代最強の祝福。それを維持し続けるに値する魂かどうか、女神が確かめに来ても不思議ではない」
沈黙が落ちた。
私は、自分の手を見つめた。
昼間、光がちらついた手。あれは――試練が近づいている兆候だったのか。
「……エーリヒ老師。試練に備える方法は、ありますか」
「残念ながら……文献には試練の具体的な内容が記されておらず。わかっているのは、"記憶の門"をくぐること、そして心が折れたら終わりだということだけです」
「つまり、対策のしようがない」
レイナルドの声が、低くなった。
「……申し訳ございません」
「いや。貴重な発見だ。引き続き関連文献を探してくれ」
「はい。必ず」
エーリヒ老師が退出した後、書斎に二人だけが残った。
窓から差し込む午後の光が、埃の粒子をきらきらと照らしている。
レイナルドは机の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
「レイナルド」
「ああ」
「あのね……実は、三日前に夢を見たんです」
打ち明けた。白い空間のこと。女神の声。「契約の刻が近づいている」という言葉。結界が明滅したこと。
全部、隠さずに。
話し終えると、レイナルドは長い沈黙の後、立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、庭園を見下ろす。
「三日も、一人で抱えていたのか」
怒っているのかと思った。
でも振り返ったレイナルドの顔には、怒りではなく、痛みがあった。
「すみません。心配をかけたくなくて」
「心配するのは俺の仕事だ」
窓辺から離れて、レイナルドが私の前に立った。大きな手が、私の両肩にそっと触れる。
「何があっても、一人で抱え込むな。それだけは約束してくれ」
蒼い瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
この目を見ると、嘘がつけなくなる。
「……はい」
「試練がどんなものであれ、対策を講じる。エーリヒには全力で調査をさせる。大陸中の文献をあたらせてもいい」
「でも、試練に挑めるのは聖女だけだと――」
「試練の場には一人で行くかもしれない。だが、試練の前と後は俺がいる。あなたを送り出して、あなたを迎える。そのくらいは許されるだろう」
胸が熱くなった。
この人はいつもこうだ。できないことを嘆くんじゃなく、できることを探す。
「……ありがとう、レイナルド」
「礼はいい。それより」
レイナルドの手が肩から離れて、私の頭にぽん、と乗った。
「飯をちゃんと食べろ。最近、少し痩せた」
「……見てたんですか」
「見ている」
そっけない声なのに、あたたかい。
この人の不器用な優しさが、どうしようもなく好きだ。
その夜、一人で庭園を歩いた。
冬枯れの薔薇のアーチの下をくぐって、噴水の前に立つ。月明かりが水面に映って、きらきら揺れていた。
――女神の試練。心が折れたら、力を失う。
怖い。正直に言えば、怖い。
でも、それ以上に怖いのは別のことだった。
力を失ったら、この国はどうなる。結界がなくなったら、あの子どもたちは。マルタさんは。みんなは。
そして。
力を失ったら、私はどうなる。
エルステッドの記憶が蘇る。「無能な聖女はいらない」。あの言葉。あの視線。
ルミエールの人たちは違う、とわかっている。レイナルドは「あなた自身がほしい」と言ってくれた。フィオナは「リーゼルさまだから」と。
でも――頭でわかっていても、体が覚えている恐怖がある。
力がないと言うだけで、全てを奪われた記憶。
「……負けない」
拳を握った。
「何が来ても、絶対に負けない。この場所を、この人たちを、守る」
見上げた空に、金色の結界が静かに光っていた。
その光が、ほんの一瞬だけ、揺らいだ気がした。
――今度は、気のせいだと言い切る自信がなかった。




