第十話「幸せすぎて、怖いんです」
幸せには、重さがある。
結婚式から一年半が経った冬の朝。いつものように枕元の白い花を見つけて微笑み、いつものように食堂でレイナルドと朝食を取り、いつものように神殿へ向かう。
その「いつも」が、こんなに眩しい。
――前の世界では、こういうのを「日常系」って呼ぶんだっけ。
神殿での祈祷を終えて外に出ると、冬だというのに陽射しが温かかった。結界の恩恵で、ルミエール公国は真冬でも穏やかな気候が保たれている。
石畳の道を歩いていると、パン屋のマルタさんが店先から手を振った。
「聖女様、今日もご苦労様! 焼きたてのクルミパン、持ってって!」
「マルタさん、毎回いただいてばかりで……」
「いいのいいの、うちの旦那の腰痛治してもらったんだもの。一生分のパンじゃ足りないくらいよ」
温かいパンを受け取って、ほくほくしながら歩く。こういう何気ないやり取りが、胸の奥をじんわり温める。
広場を横切ると、噴水の前で子どもたちが遊んでいた。
「あ、せいじょさまだ!」
「ねえねえ、お花咲かせて!」
小さな手に引っ張られて、噴水の縁に座る。
手のひらを開いて、ほんの少しだけ力を込めた。金色の光がふわりと散って、石畳の隙間から小さな白い花がぽこぽこと咲く。
「わあーっ!」
子どもたちが歓声を上げる。その笑顔を見ると、何度やっても胸がいっぱいになる。
――私の力が、こんな風に誰かを笑顔にできるなんて。
「リーゼル」
聞き慣れた低い声。
振り向くと、城門の前にレイナルドが立っていた。陽光を背にして、黒髪が青みを帯びて光っている。
「お迎えですか?」
「通りがかっただけだ」
「嘘が下手ですね、閣下」
「閣下はやめろと言ったはずだ」
「レイナルドさま」
「さまもいらない」
「……レイナルド」
名前を呼ぶだけで、まだ少し恥ずかしい。一年半経っても、こればかりは慣れない。
レイナルドが自然に手を差し出す。その手を取って歩き出すと、背後で子どもたちがきゃあきゃあ騒いだ。
「せいじょさまとこうしゃくさま、てつないでるー!」
「らぶらぶー!」
顔が熱い。隣を見上げると、レイナルドは何食わぬ顔で前を向いている。
でも耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
「……聞こえてますよね」
「何がだ」
絶対聞こえている。
城に戻ると、フィオナが廊下を全力で駆けてきた。
「リーゼルさまーっ! 大変です!」
この出だし、もう慣れた。フィオナの「大変」は、十回中八回は大変じゃない。
「どうしたの?」
「ヴァルターさんが訓練場で新人騎士を泣かせました!」
「……それは毎週のことでは」
「今回は三人同時にです!」
「それはさすがに注意しないと……」
レイナルドが無言で踵を返した。ヴァルターへの指導に向かうらしい。その背中を見送りながら、フィオナと顔を見合わせて笑った。
こんな日常が、愛おしい。
息が止まるくらい、愛おしい。
――だから、怖い。
その夜のことだった。
レイナルドの隣で眠りについた私は、いつの間にか見知らぬ場所に立っていた。
真っ白な空間。床も壁も天井もない。光だけがある。
夢だ、と思った。でも、普通の夢とは違う。空気に、力がある。呼吸するだけで体中が震えるような、圧倒的な気配。
そして、声が降ってきた。
「――我が子よ」
女の声だった。温かくて、冷たくて、優しくて、厳しい。矛盾した全てを含んだ、人間には出せない声。
「女神、ルミナリス……?」
答えはなかった。代わりに、声は続いた。
「契約の刻が近づいている」
「契約……?」
「聖女は試される。我が祝福に値する魂であるかを」
心臓が、冷えた。
「試練に堪えよ、我が子。さもなくば――祝福は還る」
「祝福が、還る……? それは、私の力が――」
声は、もう答えなかった。
白い空間が揺らいで、崩れて、意識が暗転する。
目を覚ました。
天井がある。柔らかなシーツ。隣にレイナルドの寝息。
現実だ。
心臓がまだばくばくと暴れている。汗で寝間着が背中に貼りついていた。
――夢? ただの夢?
違う。あれはただの夢じゃなかった。体が覚えている。あの圧倒的な気配を。
「祝福は還る」。
つまり、聖女の力を失うかもしれない、ということ?
隣でレイナルドが身じろぎした。起こしてしまったらいけない。
そっとベッドを抜け出して、バルコニーに出た。
冬の夜空は澄んでいて、星が近い。金色の結界の光が、薄く空を覆っている。
私の力。この国を守っている光。
――もしこの力がなくなったら。
その考えが浮かんだ瞬間、足元が崩れるような恐怖が走った。
力を失ったリーゼルに、価値はあるのか。
聖女じゃなくなった私を、この国は受け入れてくれるのか。
あの温かい日常は、「聖女リーゼル」だから許されていたんじゃないのか。
――考えすぎだ。レイナルドは「あなた自身がほしい」と言ってくれた。フィオナは「リーゼルさまだから」と。
でも。
あの三年間が、まだ胸の底にこびりついている。
「無能」と呼ばれた記憶。力がないというだけで全てを奪われた記憶。
幸せになっても、あの傷だけは完全には消えない。
「……怖いよ」
呟いた声は、冬の空気に白く溶けた。
そのとき。
ふっ、と。
空を覆う金色の結界が、一瞬だけ明滅した。
ちかちか、と。まるで切れかけの蛍光灯みたいに。
息が止まった。
すぐに光は安定した。何事もなかったかのように、結界は静かに輝いている。
でも今の一瞬は、見間違いじゃない。
バルコニーの手すりを握る手が、白くなるほど力が入っていた。
「……夢じゃ、なかった」
あの声。あの警告。
何かが、始まろうとしている。
振り返ると、寝室の奥でレイナルドが静かに眠っている。
穏やかな寝顔。この人の隣にいられる幸せ。パン屋のマルタさんの笑顔。子どもたちの歓声。フィオナの「大変です!」。ヴァルターの豪快な笑い。
この全部を失うかもしれない。
私は唇を噛んで、バルコニーの手すりに額を押し当てた。
――言えない。まだ、誰にも。
こんなに幸せなのに、その幸せが壊れるかもしれないなんて。
空を見上げた。結界の光は、もう揺らいでいなかった。
でも、胸の奥の不安は、消えてくれなかった。
白い息を吐いて、寝室に戻る。
レイナルドの隣に滑り込んで、そっとその背中に額を押し当てた。
温かい。
――お願い。この温もりを、もう少しだけ。
目を閉じた。
あの白い空間の夢は、もう見なかった。
代わりに見たのは、金色の光がゆっくりと消えていく夢だった。




