第一話「無能な聖女はいらない――そう言ったのは、あなたですね?」
――ああ、やっぱり、こうなるんだ。
謁見の間に響いたアルヴィンの声を聞いた瞬間、私の頭に浮かんだのは、驚きでも悲しみでもなく、ただそれだけだった。
エルステッド王国の謁見の間は、白大理石の柱が何本も並ぶ、やたらと広い空間だ。
天井には王家の紋章が金で描かれていて、磨き上げられた床には、居並ぶ貴族たちの姿がぼんやりと映っている。
その貴族たちの視線が、今、すべて私に向けられていた。
「――俺はこの三年間、ずっと待った。おまえが聖女として目覚める日を、信じて待った」
玉座の前に立つアルヴィンが、まるで悲しげに首を振る。
金の髪が揺れ、碧い瞳には――同情のような光が浮かんでいた。
嘘だ。全部、演技だ。
「だが、もう限界だ。この国の民を守るのが俺の務めだ。無能な聖女を抱えて国を危うくすることは、俺には許されない」
民を守る、だって?
笑わせないでほしい。
「リーゼル。おまえとの婚約を破棄する。――これ以上おまえに辛い思いをさせたくないというのも、ある。これは、おまえのためでもあるんだ」
ざわり、と広間がどよめいた。
でも、それは驚きのどよめきじゃない。
待ってましたとばかりの、嘲りを含んだざわめきだった。
「まあ、当然ですわよね」
「魔力反応なしの聖女など、聞いたことがありませんもの」
「三年も置いてさしあげただけ、陛下も王太子殿下もお優しい」
扇の陰からひそひそと交わされる言葉が、やけにはっきり聞こえる。
三年間、ずっとこうだった。だから今さら、胸が痛むこともない。
――痛まないんだよ、もう。
* * *
私、桐島凛花がこの世界に召喚されたのは、日本で中学二年生だった十四歳の春だった。
突然現れた魔法陣に飲み込まれて、気がついたら神殿の祭壇の上にいた。
白い法衣の神官たちに囲まれて、「聖女さま」と呼ばれた。
なんのことかわからなくて、ただ怖くて泣いた。
でも、聖石の測定で「魔力反応なし」と出た瞬間、周囲の態度は一変した。
――あの瞬間の空気、今でも覚えている。
聖石は魔力を測る大きな水晶みたいな石で、手をかざすと色が変わる。
青なら一般人、白なら高い魔力、金に光れば聖女級。
私の前では、ぴくりとも反応しなかった。色すら変わらない。「無」だった。
* * *
それからの三年間を、一言で表すなら――地獄。
聖女としての部屋は取り上げられ、使用人棟の物置みたいな小部屋。
食事は一日二回、硬いパンと薄いスープだけ。
ある晩、配膳係が持ってきたスープに手を伸ばしたら、セリーヌが通りがかりにそれをひっくり返した。
熱い汁が手の甲にかかって、思わず声が出た。
セリーヌは言った。
「あら、ごめんなさい。でも無能な聖女さまにはこれくらいがお似合いよ」
翌朝アルヴィンに訴えたら、彼はこう言った。
「セリーヌも悪気はないんだ。おまえが至らないから、つい苛立つんだろう。気にするな」
――火傷の跡は、今でも右手の甲に残っている。
それでも私は「聖女」の肩書きだけは残されていた。
王太子アルヴィンの婚約者という、名ばかりの立場。それすらも――。
* * *
「アルヴィンさま、リーゼルさんったら、まだ突っ立っていますわ。――ああ、もしかして言葉の意味がわからないのかしら。無能なだけじゃなくて、頭も弱いんですもの」
甘ったるい声が、アルヴィンの隣から響いた。
金の巻き毛を揺らして、翡翠の瞳を細めるその女性――セリーヌが、アルヴィンの腕にぴったりと寄り添っている。
勝ち誇った顔。まるで、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。
セリーヌは貴族たちに聞こえるように、はっきりと続けた。
「皆さまご存じ? この方、使用人棟で必死にお掃除やお洗濯をして、聖女のお務めのつもりでいたんですのよ。――掃除婦と聖女の区別もつかないなんて、滑稽を通り越して哀れですわ」
広間に、くすくすと笑いが広がった。
私の三年間を、たった一言で笑い話にされた。
セリーヌは半年前にこの国にやってきた。「真の聖女」を名乗って。
聖石は彼女の前で白く輝いた。
金ではなかったけれど、「反応なし」の私よりはるかにマシだと、誰もが飛びついた。
彼女がアルヴィンに近づくのに、時間はかからなかった。
「――聞いているのか、リーゼル」
アルヴィンが苛立たしげに眉をひそめる。
「はい、聞いております」
私は、静かに答えた。
声は震えなかった。三年もかけて、震える練習なんてとっくに卒業している。
――でも、指先だけは、どうしても言うことを聞かなかった。スカートの裏で、爪が掌に食い込む。
「婚約の破棄と、国外追放。承知いたしました」
「……それだけか?」
アルヴィンが眉を上げた。慈悲深い王太子の顔で。
そうだ、この人はいつもこう。自分が正しいと思っている。心の底から、自分は優しい判断をしていると信じている。
だから怒鳴りもしないし、見下しもしない。ただ、穏やかな顔でこちらの全てを奪っていく。
「おまえが泣くなら、最後に一つくらい願いを聞いてやろうと思ったんだが」
セリーヌが、その言葉にすかさず寄り添う。アルヴィンに何かを耳打ちした。聞こえなかったけれど、アルヴィンの口元がわずかに歪んだ。
「……まあいい。おまえが望むなら、これ以上は引き止めない。今日中に城を出ろ。必要なものがあれば持っていけ」
必要なもの。あるわけない。
三年間、何ひとつ与えられなかったのだから。
――でもこの人は、きっと本気で「持っていけ」と言っている。
自分は最後まで優しかったと思いたいのだ。
何もない、か。
最初から何も持っていなかった。
この世界での居場所も、信頼してくれる人も、まともな食事さえも。
だから、失うものも何もない。
「では、これで失礼いたします」
私は深く一礼した。
顔を上げたとき、一瞬だけ、視界がにじんだ。
――泣くな。ここで泣いたら、この人たちの思い通りだ。
奥歯を噛みしめて、顔を上げ切る。視界の端でセリーヌが薄く笑うのが見えた。
――三年間、必死だった。
認めてもらいたくて、掃除も洗濯も薬草の手当ても、頼まれなくても全部やった。
誰にも感謝されなかった。「無能のくせに」と笑われるだけだった。
でも、もういい。もう、いいんだ。
背筋を伸ばして、謁見の間を歩く。
左右に並ぶ貴族たちが、わざとらしく道を空ける。まるで汚いものに触れたくないみたいに。
聞こえよがしの嘲笑。扇で口元を隠しながら、けれどまったく隠す気のない笑い声。
* * *
大扉をくぐり、長い回廊を抜け、城門へと向かった。
途中で誰にも会わなかった。いや、何人かの使用人とすれ違ったけれど、全員が目をそらした。
三年間、同じ城で暮らした人たち。
――まあ、そういうものだよね。
城門の前に立つ。
巨大な鉄の門が、きしみながら開いていく。門番すら、私を見ようとしない。
一歩、外に出た。
振り返らなかった。
背後から、甲高い笑い声が聞こえた。城壁の上から響くその声は、セリーヌのものだった。
「リーゼルさん! 最後に一つだけ、教えてさしあげますわ」
わざとらしく明るい声。まるで友達に声をかけるみたいな調子で。
「あなたが三年間必死にやってきたこと、お掃除もお洗濯もお料理の手伝いも――アルヴィンさまは一度もご存じなかったの。だって私が全部、報告しなかったんですもの。『あの子は毎日何もせず部屋に引きこもっています』って、そう申し上げていましたわ」
足が止まった。
「無能で、怠惰で、感謝も知らない役立たず。それがあなたの三年間の評価よ。――ねえ、どんな気持ち? 元の世界にも帰れない、この世界にも居場所がない。あなた、どこにも要らない子なのよ?」
背中に突き刺さるその声を、振り払うように歩いた。
一歩、また一歩。ただ前だけを見て。
その時だった。
背後で、バヂッ、と何かが弾ける音がした。
思わず振り返る。
城壁を覆っていた淡い金色の結界――あの、王国を魔物から守り続けてきた光の膜に、黒い線が走っていた。蜘蛛の巣みたいな、細いヒビ。
結界の光が、ばちばちと明滅する。まるで切れかけの蛍光灯みたいに。
ヒビは一瞬で広がり、城壁の一角を覆う結界がガラスのように砕け散った。金色の欠片が宙に舞って、消える。
――え。
城壁の上にいたセリーヌの笑い声が、ぴたりと止まった。
宴の音楽も、一瞬だけ途切れた気がした。
――でも、すぐに何事もなかったように再開した。あの人たちには、きっとあのヒビの意味がわからない。
私にはわかった。わかってしまった。
でも、もう関係ない。
前を向いた。今度こそ、振り返らなかった。
行くあてはない。お金もない。この地味な修道服と、痩せ細った体ひとつ。
それでも足は止まらなかった。止まったら、もう動けなくなるから。
風に乗って、城の方から宴の音楽が聞こえてくる。
私が門を出てから、まだ一刻も経っていない。
ああ、そうか。
あの人たちは今ごろ、杯を掲げているんだ。「厄介払いができた」と。
結界が壊れ始めていることにも気づかず。
その瞬間、三年間ずっと堪えていたものが、決壊した。
膝が折れた。街道の真ん中に、崩れ落ちた。
声にならない声が喉から漏れて、涙が止まらなかった。両手で顔を覆って、子供みたいに泣いた。みっともなくて、情けなくて、でもどうしようもなかった。
三年間、一度も泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。
でも、もう、誰も見ていない。
――泣いていいよね。もう、いいよね。
涙が地面に落ちた。
ふと気づくと、涙が染みた地面から、小さな白い花がひとつ、ぽつんと咲いていた。
こんな枯れた街道に、花なんて生えるはずがない。
――気のせいだ、きっと。
私は袖で乱暴に涙を拭って、また立ち上がった。
膝は笑っていたけれど、歯を食いしばって、一歩を踏み出す。
振り返らない。もう二度と。
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