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浮気されましたが婚約破棄なんていたしません

作者: たまユウ

ヴァイス公爵家の人間は、その徹底した価値観によって貴族社会で一目置かれていた。

その価値観とは、至ってシンプル。


『受けた恩は倍で返し、受けた仇は百倍で返す』


単純明快にして、苛烈極まる家訓。

ヴァイス公爵家は、これまで敵対した者を例外なく社会的に抹殺し、その地位を盤石なものとしてきた。味方であればこれ以上なく心強いが、敵に回せば最後、地の果てまで追い詰められる。人々は畏怖を込めて、彼らを『微笑む悪魔』と呼んだ。


そのヴァイス公爵家の現当主が溺愛する一人娘が、アリアナ・フォン・ヴァイス。

白銀の髪に紫水晶の瞳を持つ彼女は、まるで芸術品のような美貌と、公爵家の血を色濃く受け継いだ怜悧な頭脳を併せ持っていた。父である公爵をして「私よりも余程、悪魔らしい」と言わしめるほどの才女である。


そんな彼女の婚約者に選ばれたのは、レオナルド・フォン・クライン伯爵子息だった。

国内でも有数の歴史を持つ伯爵家の嫡男であり、人当たりが良く穏やかな性格の好青年。アリアナの隣に立つには少々平凡との声もあったが、ヴァイス公爵の威光の前に、異を唱える者はいなかった。


二人の婚約は、典型的な政略結婚だ。

ヴァイス家はクライン家の持つ歴史と伝統的な権威を、クライン家はヴァイス家の持つ財力と政治的影響力を求めた。利害の一致による、極めて合理的な結びつき。


しかし、アリアナはレオナルドに、政略以上の感情を抱き始めていた。

彼は裏表がなく、誰にでも優しく接する。アリアナの怜悧すぎる頭脳や、時折見せる非情な判断力に怯える者も多い中、レオナルドだけはいつも穏やかな笑みを浮かべていた。


「君はすごいな。僕にはとても真似できない」


素直な賞賛の言葉に、アリアナの心が少しだけ温かくなるのを感じていた。この人となら、冷え切った政略結婚ではなく、穏やかな家庭を築けるかもしれない。アリアナはそう期待していたのだ。




だが、その期待が砂上の楼閣であったと知るのに、そう時間はかからなかった。


レオナルドは、アリアナの完璧さに安らぎを覚えるどころか、日に日に劣等感と息苦しさを募らせていたのだ。

何をしても彼女には敵わない。領地の経営について意見すれば、より優れた代替案を即座に提示される。剣の稽古に励んでも、護身術として叩き込まれたアリアナの動きについていけない。


婚約者であるはずの自分が、まるで彼女の引き立て役のようだ。

そんな歪んだ自尊心が、彼を癒やしへと向かわせた。



相手は、イザベラという男爵令嬢だった。


大きな瞳を潤ませ、常に誰かに庇護を求めるような儚げな美少女。彼女はレオナルドの愚痴を熱心に聞き、そのプライドを巧みにくすぐった。


「レオナルド様は、本当にお優しいのですね」

「アリアナ様は、少し冷たい方のように見えますもの。レオナルド様のような素敵な方が婚約者で、本当にお幸せな方……」


イザベラの甘い言葉は、乾いたレオナルドの心に染み渡った。彼はアリアナの目を盗み、イザベラとの密会を重ねるようになる。

アリアナが気づいていないと、信じきって。





そして、運命の日がやってくる。


アリアナの二十歳の誕生日を祝う、盛大な夜会が開かれた夜のことだった。


公爵家の大広間は、煌びやかなシャンデリアの光に照らされ、着飾った貴族たちの喧騒で満ちていた。

主役であるアリアナは、祝福の言葉を述べる人々に対し、完璧な笑顔で応対している。その姿は、まさに『微笑む悪魔』の異名にふさわしい、近寄りがたいほどの美しさだった。


「アリアナ、おめでとう。今日の君も、月が霞むほど美しい」


レオナルドはそう言ってアリアナの手に口づけをしたが、その目はどこか上の空だった。


「ありがとう、レオナルド。楽しんでくれているかしら?」

「ああ、もちろんさ。……少し、夜風に当たってくるよ」


そう言い残し、レオナルドが人混みへと消えていく。その背中を、アリアナの紫水晶の瞳が冷たく見送っていた。


レオナルドが向かった先は、公爵家の庭園の奥にある東屋だった。

そこには、一人の令嬢が彼を待っていた。イザベラだ。


「レオナルド様!」


イザベラはレオナルドの腕に駆け寄り、その胸に顔をうずめる。


「会いたかったですわ。あんなに冷たい女の隣にいるなんて、お辛かったでしょう?」

「イザベラ……。君に会うと、本当に心が安らぐよ」


レオナルドはイザベラの体を強く抱きしめた。


アリアナの完璧な美貌も、怜悧な頭脳も、今は息苦しいだけだ。自分を無条件に肯定し、癒やしてくれるこの存在こそが、本物の愛なのだと錯覚していた。


「アリアナは、まるで氷の人形だ。美しいが、心がない。君のような温かい女性こそ、僕の隣にいるべきなんだ」

「まあ、レオナルド様……!」


うっとりと目を潤ませるイザベラ。彼女はここが勝負どころだと確信していた。


「でしたら……でしたら、アリアナ様との婚約を破棄してくださいまし! そして、私を……!」

「ああ、もちろんだ。必ず君を、僕の妻に迎えてみせる。誓うよ」


二人は、お互いの未来を確信したかのように、熱い口づけを交わした。



……その一部始終が、庭園の木々の陰から、数対の目によって冷静に観察されていることなど、知る由もなく。




―・―・―




夜会が終盤に差し掛かった頃。

挨拶を終えたアリアナは、会場の中央に進み出て、楽団に演奏を止めるよう合図した。

ざわめきが静まり、全ての視線が彼女に集まる。


「皆様、本日は私のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。宴もあと少しではございますが、この場をお借りして、皆様にご報告したいことがございます」


アリアナはにこやかに微笑むと、庭園から戻ってきたばかりのレオナルドに視線を向けた。


「レオナルド様、こちらへ」


その声に、レオナルドの心臓が大きく跳ねた。

まさか、イザベラとのことがバレたのか? いや、そんなはずはない。

彼は動揺を押し殺し、平静を装ってアリアナの隣に立った。


「どうしたんだい、アリアナ。改まって」

「ふふっ。先日、あなたがイザベラ嬢と浮気をしているという、由々しき噂を耳にしましてよ」


アリアナの言葉に、会場が大きくどよめいた。

レオナルドの顔から、サッと血の気が引く。イザベラは群衆の中で扇を落とし、顔を青くさせていた。


「な、何を言うんだ! そんな、根も葉もない噂を……!」

「あら、噂でしたの? ならば良いのですけれど。もし仮に、それが事実であったとしても……私はあなたとの婚約を破棄するつもりはございませんわ」


「え……?」


予想外の言葉に、レオナルドは呆然とアリアナを見つめた。婚約破棄をされるものとばかり思っていた。責められ、罵られるのだと。

イザベラもまた、信じられないという顔で二人を見ていた。


アリアナは、そんなレオナルドの戸惑いを愉しむかのように、蠱惑的な笑みを深める。


「ええ、婚約破棄なんて、生ぬるいことはいたしません。だって、あなたはヴァイス公爵家にとって、実に〝有用(ゆうよう)な〟方ですもの。手放すには惜しいのですわ」


「有用……?」

「ええ。あなたを〝罰する〟ことで、我がヴァイス家の家訓がいかに徹底しているか、皆様に改めてご理解いただく良い機会ですわ」


アリアナがパチン、と指を鳴らす。

すると、執事が盆に載せた分厚い書類の束をレオナルドの前に差し出した。


「な、なんだ、これは……」

「クライン伯爵家が、我が家から受けている融資の契約書ですわ。契約条項によりますと、『契約者の一方が相手方の信頼を著しく損なう行為を行った場合、即時一括での返済を求めることができる』とあります。もしあなたが浮気をしていたら、これに該当しますわね」


クライン家は、その古い家名を維持するために、ヴァイス家から多額の融資を受けていた。それを今すぐ一括で返済するなど、到底不可能だ。


「そ、そんな……! 待ってくれ、アリアナ!」

「あら、何をそんなに焦っておいでで?だって貴方は浮気をしていないのでしょう?…まあ嘘かどうかはすぐにでもお分かりになるかと思いますが」

「す、すまない!一時の気の迷いだったんだ!本当に愛してるのは君だけだ!」

「ふふ、認めなさるのですね。私も愛してますわよ?ただ、契約は契約です。本日中にご返済いただけない場合、契約通り、クライン伯爵家の持つ鉱山の採掘権、主要な交易路の利権、その全てをヴァイス家が接収いたします。……ああ、そうなれば、伯爵家は破産を免れませんわね」


アリアナは淡々と、しかし会場の隅々にまで聞こえる明瞭な声で告げた。

それは宣告だった。クライン伯爵家の、社会的生命の終わりを告げる宣告。


レオナルドは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

だが、アリアナの『報復』はまだ始まったばかりだった。


「それから、もう一つ。レオナルド様とイザベラ嬢の、心温まる恋物語を皆様にもおすそ分けいたしませんとね」


アリアナが再び合図すると、今度はメイドたちが会場の招待客一人一人に、小冊子を配り始めた。

表紙には、『真実の愛の物語 〜レオナルド・フォン・クライン伯爵子息の告白〜』と優美な文字で記されている。


人々がページをめくると、そこにはレオナルドがイザベラに送った恋文の写し、二人が密会した日時と場所、そこで交わされた会話の克明な記録が、詳細に綴られていた。

先ほどの東屋での会話も、一言一句違わずに。


「なっ……! き、貴様、監視していたのか!?」

「人聞きが悪いですわね、レオナルド様。これは監視ではなく、婚約者であるあなた様のお身を案じての〝見守り〟ですわ。ヴァイス家の者に〝見守られ〟ているとも知らず、愛を育んでいらっしゃったとは……お二人とも、よほど夢中だったのでしょうね」


くすくすと上品に笑うアリアナ。

会場は静まり返り、人々は侮蔑と好奇の目で、レオナルドと、群衆の中で震えるイザベラを交互に見ている。二人の社会的立場もまた、この瞬間に絶たれたのだ。


「さあ、最後になりますわ」


アリアナは、青褪めた顔で立ち尽くすイザベラへと、その紫水晶の瞳を向けた。


「イザベラ嬢。あなたはレオナルド様を心から愛していらっしゃるのですよね?」

「わ、私は……」

「結構ですわ。あなたの家の男爵様が、長年にわたり領地の税を不正に着服していた証拠が、こちらにございます」


アリアナが掲げたもう一通の書類に、イザベラの父である男爵が顔面蒼白になる。


「男爵位は剥奪の上、ご一家には北の僻地にあるヴァイス家の鉱山にて、労働に従事していただきます。もちろん、イザベラ嬢、あなたもですわ」

「そ、そんな……いやっ!」

「あら、嫌ですの? レオナルド様を愛しているのでしょう? クライン家の借金を返すために、彼と一緒に働く絶好の機会ではありませんか。それとも、あなたの愛はその程度のものでしたの?」


アリアナの言葉は、悪魔の囁きそのものだった。

愛しているなら働け。働けないのなら、その愛は偽物だ。

どちらを選んでも、イザベラを待つのは地獄だけだ。


イザベラは、その場にへなへなと泣き崩れた。

彼女が夢見た伯爵夫人の座は、あまりにも遠い幻となった。


全てが終わった後、静まり返る大広間に、レオナルドの嗚咽だけが響いていた。

家も、社会的信用も、愛人さえも、全てを失った。

彼に残された道は、ただ一つ。


レオナルドは、アリアナの足元にみっともなく這いつくばり、そのドレスの裾を掴んだ。


「アリアナ……! 私が、私が間違っていた……! 頼む、どうか、どうか許してくれ……! なんでもする! 君の言うことならなんだって聞くから!」

「許して? 何をですの?」


アリアナは、自分の足元で許しを乞う男を、虫けらでも見るかのように冷たく見下ろした。


「私は別に、あなたを憎んではいませんわ。怒ってもいない。ただ、ヴァイス家の家訓に従い、あなたが私に与えた仇を、きっちり百倍にしてお返ししているだけ」

「……っ!」

「婚約破棄なんて、生ぬるいことはしません、と申し上げましたわよね。ええ、しませんとも。あなたはこれから先、私の婚約者として、私の『所有物』として、一生をかけて私を裏切ったことを後悔し続けるのです」


アリアナはゆっくりと屈むと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったレオナルドの顎を掴み、顔を上げさせた。

その紫水晶の瞳には、かつてレオナルドが美しいと感じた輝きは一片もなく、底知れない闇が広がっていた。


「それこそが、私のあなたへの愛ですわ。光栄に思いなさい」



絶望に染まるレオナルドの顔を最後に一瞥すると、アリアナは踵を返し、その場を後にした。


彼女の背後では、新たな『悪魔の伝説』の始まりを目の当たりにした貴族たちが、息を呑むことしかできずにいる。



アリアナ・フォン・ヴァイスは、決して婚約破棄などしない。


裏切った相手を生かしたまま、永遠に続く後悔という名の地獄を与える。

それこそが、彼女の過激で、歪んだ、唯一の愛の形なのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございました!


今までもざまぁ系の短編小説を書いていたのですが、よりざまぁ感のある話を書いてみようと思いこの作品を作りました!


よろしければ評価してくださると嬉しいです!

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これ、公爵家側には一切の利益がない婚約に成り下がってるんたけど、婚約破棄しない理由って単にヤンデレでした〜って事で合ってる? 普通に借金の肩のペットとして飼うくらいで良い気もしましたが…。
イザベラが鉱山送りになればレオナルドと一緒に働けると言うことでしたが、婚約者の立場のままで鉱山で働いてもらうということ?傍に置いて晒し者にするのかと思ったけど違うのかな?
コレは資産接収するために倫理観緩いのを選びました?
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