理由
次の週末。
僕は玲奈さんと居酒屋の個室にいた。
二人だけで会うのは初めてだ。久しぶりに対面して「こんな人だったっけ」と思った。どこにでもいそうな大人しい女性だったのが、今夜は目に力があって、堂々としていた。
乾杯にハイボールを選んだのも意外だった。
店員が引き戸を閉めると、客達のがやがやした声が遠くなる。妙に緊張した。
気づくと玲奈さんはじっとこっちを見ていた。
「離婚式なんて、ずいぶん勝手な女だって思ったでしょ」
「え……」
「ごめんね」
そしてハイボールをあおる。言った割には、全然悪く思っていなさそうだった。
「離婚式を言い出したのは玲奈さんなんですか」
「そう。けじめをつけたくて」
途端に、マサ君の妄想がフラッシュバックして、僕は首を振った。
玲奈さんはそんな僕に構わず刺身を食べている。
「僕、離婚の理由、ちゃんと聞いていないんですけど」
「あー、優君からは言いづらいだろうね。私の話を聞いてからじゃないと。だから今日呼んだの」
「もしかして浮気とかDV……ですか」
玲奈さんはびっくりした顔で、ジョッキを持ち上げていた手を止め、それからけらけら笑い出した。
「優君が暴力? ないない。彼、本当に模範的な旦那さんだったもの」
僕は鼻白んだ。相手だけが答えを知ってる状況は面白くない。
大体、女性ってだけで優さんと結婚できる立場にいるのがずるい。僕は同じ土俵に立つことさえできないのに、優さんと結婚したあげく離婚までするなんて。
玲奈さんはハイボールを飲み干し、「はー!」と息を吐く。
それからついでのように、
「3ヶ月前、友達が死んだの」と言った。
「それは……ご愁傷様、です」
どういう話の流れだと思ったけど、確かに以前優さんと飲みに行った時、「今日玲奈は法事なんだよ」と聞いた気がする。
「幼なじみでね、大学で離れたけど、社会人になってまた遊ぶようになった。でも病気がわかって、あっという間に逝っちゃった。
それで、私の呪いが解けたの」
僕はさぞかし怪訝な顔をしてい
ただろう。「あ、酔っぱらってないよ、大丈夫」と付け足された。
「呪いって……」
「実の母の呪いよ」
玲奈さんはハイボールの氷を箸で回す。からん、と溶けた氷が崩れる。
「私の母、極端な考えの専業主婦でね。
『女は結婚して家庭に入るのが一番』『学歴より愛想がよくないと』って言われて育って、母のこと大好きだったし、従ってきた。
医学の道に進みたかったけど、普通の会社に入った。母は『若いうちに早く結婚しなさい』って圧をかけてくる。結婚すれば認められるって思ってた」
玲奈さんはひとつ、ため息をついた。
「実際、母は喜んでくれた。けど、今度は『仕事をやめて子供を』って言うようになった。
あれ、って思ったのはその時。母はいつ満足して、私を認めてくれるんだろうって。
ネットで見たら『子供を産んだら義母に二人目、三人目を急かされた』『女の子だと文句を言われる』『産んだ後も成長、学校、受験で他と比較される』……もう、いろんなことが出てきて、頭がパンクしそうだったの。
それで幸せになる人もいる。だけど、私は違う、って気づいた。
そんな時、友達が死んだの。『玲奈はやりたいことやりなよ』って言い残して。彼女、わかってたんだと思う。私は母に愛されたくて必死だったけど、反面、犠牲にしてきたものがあるって」
「犠牲……」
僕は玲奈さんの話に聞き入っていた。
立場は違う。だけどなぜだろう。僕は自分を押し殺して友達に合わせていた頃を思い出していた。
「私、これから大学に入り直して、医者になろうと思うの。
優君のことは人として好きだけど、愛じゃなかった。これ以上、私に付き合わせるわけにはいかない。
体裁を考えて別居婚にしようかと思ったけど、彼は私の話を聞いて、彼なりに思うところがあったみたいで。結局離婚することになったの」