忠犬ビッグ
渋谷駅の前に日本一有名な忠犬がいるらしい。テレビではその犬がどんな一生を辿ってきたのかを紹介していた。信幸も裕子も感嘆の息を吐いている。
「うちの犬は馬鹿なのにねぇ、同じ犬種とは思えないけど」
「そこが可愛いんだろう。ご飯を食べている時の必死そうなところとか」
「そんなことない!うちの子は頭もいいし、かっこいいっての!」
好き勝手を言う二人に対して、反論をしたのは晴翔だ。ソファに寝転がって自分の両親にかみつく。
テレビではそのハチ公像の前で待ち合わせをしている若者に、ハチ公を知っているかインタビューをしていた。マイクを向けられた金とピンクのメッシュの髪色をした女子高校生が、わかんなーい、と笑っていた。うちの犬は少なくともこんなバカ女よりは賢い、と晴翔は思った。
「名前を呼べば振り向くし、リードの鈴を鳴らせば散歩だと気付くんだぞ」
「けど、お手も待ても出来ないし、寝る時はいびきをかくじゃない」
「そこが可愛いんだけどねぇ」
「なんで自分ちの子をそう悪く言うんだ!」
「いや、悪くないわよ。可愛いって言ってんのよ。ほら、晴翔。お昼食べたんだし、ウチのかしこーいビッグと一緒に散歩に行ってらっしゃい」
洗い物を片付けた裕子が布巾で手を拭いた。日曜日の昼過ぎ、平日は早朝に一度だけ散歩をしているが、休日は朝と昼過ぎの二回、散歩につれて行くことになっている。信幸が近くにあったリードを晴翔のいるソファに投げ渡した。その際にリードについた鈴が小さく鳴った。
家の奥から軽やかなリズムで鈍い足音が近づいてくる。リビングの引戸を鼻で開けて、ソファにいる晴翔の足元に一匹の犬が駆け寄ってきた。晴翔の伸ばした手に額を擦りつける。
「ほら、ビッグは賢いだろ?」
「うん、可愛いね」
「あ、散歩ついでにスーパーで卵買ってきて」
「……へい」
晴翔が家着からズボンだけ履き替えて玄関に行くと、待っていたビッグがワンと鳴いた。晴翔はそのそばにしゃがみ込んでお手、と言ってみた。ビッグは首を傾げ、早く行こうとばかりにもう一度ワンと鳴いた。
公園に着くとビッグは突然走り出した。リードを持つ手を強く引っ張られ、晴翔は前のめりになり、走り出す。あの小さな体のどこにそんな力があるのか分からないが、四肢を存分に動かして駆けるビッグはまるで弾丸のようだった。
ひとしきり走った後、休憩のために木陰のベンチに座る。公園のベンチは汚いから嫌、という言葉が晴翔の頭に浮かぶ。一年間片思いをしてきた人とやっとの思い出こぎつけた公園デートでの言葉だった。あれはハンカチを敷けという意味だったのだろうか、未だにどう応えるのが正解だったのか分からない。晴翔は大きくため息をついた。友達にいろいろとデートの極意を聞いたりしたのだが、しかし、結局公園デートは終始気まずい雰囲気のまま解散してしまった。あれから一か月経つが一度も連絡をしていないし、高校でも話していなかった。
「なぁ、彼女、犬が苦手らしいよ」
足元に座るビッグの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。話題に困って、飼っている犬と公園によく散歩しに行くのだ、と言った時だったか。彼女は、犬はうるさいし臭いがちょっと、と苦笑いしていた。
きっとお互いをよく知っていたら合わないことがあっても寄せ合っていくことが出来ただろう。けれど晴翔達は特別仲が良かったわけではないし、きっとこれからも交流することはないだろう。無理に合わせることはない、という彼女の言葉なき意志を感じてしまったのだ。
「告白しなくてもフラれるのわかるんだよなぁ。おかしいなぁ、漫画とかだともっとこう、ドラマがあったり展開があったりするのに。どう思う?ビッグ」
そんなこと聞かれても、とばかりにビッグがワン、としょげた。
スーパーの外、柱にくくり付けられたビッグは大人しくお座りしている。晴翔は卵を買うだけだからといつものようにリードを簡単に結んでスーパーに入っていった。ビッグは静かに座り、道行く人を眺めている。たまに子供が来ると吠えて近づかせないよう威嚇する。子供の乱暴な手には何度痛い目を見たか、ビッグは子供が嫌いだった。黄色い蝶がビッグの鼻先をひらひらと舞う。最初は気に留めなかったが、あまりに鬱陶しかったため、口を開けて牙をむいた。
近くを通りがかった子供がその様子を見ていたのか、突然泣き出してしまった。今度は煩い子供に向かって牙を見せた。子供は乱暴なだけでなく耳障りであることもビッグが子供を嫌いな理由の一つだった。
遅い、とビッグは思った。普段であれば子供を五、六人脅かしてやれば帰ってくるのに、今日はもう十人は脅かしていた。様子を見に行こうにもリードが柱にくくりつけられている。ビッグは昼のテレビを思い出していた。忠犬と持て囃されていたハチ公はリードで繋がれていないにも関わらずただ主人の帰りを待つだけだった。もし自分であったら、主人を探しに行くだろう、こうして柱にリードが結ばれていなければ。むしゃくしゃしてぐいと首を引っ張った。
すると、柱に絡まっていたリードがするりとほどけた。ビッグは三秒間立ち止まり、やっと状況を理解したのか、まるで野に放たれた獣のように突如走り出した。閉まりかけの自動ドアを目掛けて滑り込み、その勢いのままスーパー内を駆け巡る。突如としてスーパーに紛れ込んだ犬の姿に、最初は、可愛がる声や優しい声が聞こえてきたが、止まる気配のないビッグに悲鳴や怒声へと変わっていった。青果コーナーを突っ切って、精肉コーナー、総菜コーナーと追いかける人々に捕まらぬように疾駆した。いろんなにおいを振り切るようにスピードを上げる。スーパーを一周したところで、誰かにリードを掴まれひっくり返って背中から地面に激突した。誰かが掴もうと手を伸ばしてきたので吠えて牙をむいた。周りを囲まれ、皆が腰を落としてビッグを捕まえようと身構えている。
「す、すみません!それうちの犬です!」
突然の声にビッグを囲っていた輪が崩れる。晴翔が人混みを掻き分けて威嚇し続けるビッグを抱きかかえる。
「すみません、うちの犬がお騒がせしました。すぐ連れて行きます」
抱きかかえられてなお、周囲の人間に吠えるビッグは、人々から可愛くないだの、馬鹿犬だのと囁かれながらスーパーを後にしたのだった。
ビッグがスーパーで騒動起こしてから遡ること十五分、晴翔は卵と自分用に買ったアイスをエコバッグに詰めていた。何回か卵を買う事はあったが一番下に置いてもいいのか、エコバッグを地面に置いた衝撃が直接伝わり卵が割れてしまわないか、未だにどうエコバッグに詰めれば良いかわかっていなかった。結局卵の上にアイスをのせエコバッグを肩に担いだ。ビッグを待たせているためすぐにスーパーを出ようとしたその時だった。晴翔の目に先日公園デートした女の子の姿が目に入った。
「よぉ、買い物?」
咄嗟に出た声は少し震えていて、内容はひどくつまらないものだった。スーパーに来ているのだから買い物をしに来たに決まっている。
「あ、え?藤川くん?」
晴翔に気付いた彼女はほんの少し肩を強張らせて驚く。どう返答したら良いのか、どう返答したらこの場を切り抜けられるか、という気持ちが感じ取れるほど彼女は狼狽えていた。
「あ、ちょっとね。じゃあ、また学校で」
「え、ちょっとまって」
「あれぇ葵、その男のコ誰?」
晴翔と彼女の間に割って入ってきたのは、髪を茶色に染めてピアスを光らせた20歳くらいの男だった。レジ袋を提げ、車のキーを手で遊ばせている。
「同じ学校の子。買い物終わったなら行こう?」
「話さなくていいの?彼葵と話したそうにしてたけど。あ、名前なんていうの?」
「……藤川くん」
「あぁ、例の?なるほどねぇ」
男の見定めるような視線が晴翔にまとわりつく。
「まぁ、もういいなら行こうぜ」
男が彼女の手を引いて階段をのぼっていく。二階の駐車場に車を止めているのだろう。
晴翔はしばらくその場を動くことが出来ず、数秒経って我に返り、急いで階段をのぼって追いかけてもその姿はどこにもなかった。
階段の踊り場には、アイスの自販機がありその隣にベンチが設置されている。晴翔はベンチに勢いよく腰を下ろした。
晴翔の頭の中にはずっとあの男の言った、例の、という言葉がぐるぐると回っていた。例の、その後に続く言葉は何だ。彼女が裏で自分の事をなんと言っていたのか。言い寄ってきているダサい男子か?彼氏がいることも知らずにデートに誘ってきた哀れなやつか?あの二人が自分のことを嘲笑している絵が頭に浮かび、無気力感が一気に押し寄せてきて、晴翔は立てなくなっていた。それは好きな子に恋人がいた衝撃からではなく、それを知らずにあれこれ考えていた自分への羞恥心からだった。月曜日からどんな顔をして学校に行けばいいのだろうか、デートに誘うのに手伝ってくれた友人には事の顛末をどう伝えればよいのか。
途方に暮れる晴翔の耳に一階の喧騒が入ってくる。やがて犬の遠吠えが聞こえて来て弾かれるように走りだした。
「ごめんな、俺が戻るの遅かったから心配して来てくれたんだな」
ビッグが応えるようにワンと鳴いた。スーパーを出て近くのコンビニの駐車場に退避した一人と一匹。
「ごめんな、もう大丈夫だぞぉぉおお」
そう言いながら公園を駆け回った後のビッグの体に顔を埋める。
「よし、帰るか」
立ち上がり、ビッグを先導するようにリードを引っ張る。しかし、ビッグはその場を動こうとはしなかった。
「えっ、藤川?」
つっかけに上下スウェット、無造作にまとめられた長い髪の毛、眼鏡を掛けた女、杉浦玲奈がいた。晴翔が居たことに驚きを隠せない表情で、急いで髪を下ろして手櫛をしていた。
「おぅ。偶然だな。あ、もしかして期間限定のやつか?」
「そうだよ、そっちはビッグの散歩がてらスーパーと見た」
「正解。よくわかったな。じゃ。俺らもう帰りだから」
「そっか、じゃあまた学校で」
杉浦玲奈、彼女こそが晴翔がデートのイロハをあれこれ聞いた恋愛相談相手である。晴翔は玲奈に先の事を言うか迷ったが、まだ言う気持ちにはなれなかった。リードを引っ張ってビッグに帰るよう促す。しかし、ビッグは従おうとはせず、どころか先ほど散歩した公園の方へと引っ張りだした。
「お、おい?もう公園は言っただろ?もっかい行きたいのか?」
「あ、そ、それならさ、私も公園ついていってもいい?一緒に期間限定のやつ食べようぜ」
「いや、俺らはもう帰るんだって」
「ワン!」
「ねぇ川崎、多数決って知ってる?」
「……仕方ねぇな!くそぅ」
指についたお菓子の粉を舐める。晴翔が隣を見ると、玲奈が指を払って、スウェットで拭っていた。
「そこが味があって一番おいしいのに」
「私だって家だったら舐めてるわ。今は外だから」
「スウェットで拭うのは良いのかよ……」
公園のベンチに座り二人、期間限定のお菓子を食べている。あれほど公園に行きたいと駄々をこねていたビッグは不思議なほど静かに足元に座って虚空を見つめていた。
「なんかあったの?」
「え?」
「眉が三ミリ下がってる。川崎に元気がないときの特徴だよ」
「……ハッタリだ」
「ハッタリでーす」
玲奈が茶化すように舌を出した。ビッグがあくびをした。
「ま、何かなかったというわけではないけれど」
「どっち?」
「あいつ、彼氏いたっぽい。年上の」
「ありゃ、デート現場にでも出くわした?」
「今日は察しが良すぎるな」
「星座占い一位だったからかな?」
「関係あるか、そんなもん。ま、そんだけ。一応杉浦には色々と相談に乗ってもらったし報告しといた」
「へぇ、それは残念だったね。一応、女は星の数ほどいるらしいよ?」
「そんな雑に慰めるやつがあるか。まぁ、早めにお前に伝えられてよかったよ」
「なんで?」
「たぶん日跨いだら恥ずかしくて言えねーもん。好きじゃなくなった、とか言い訳言ってるよ、明日の俺」
「確かに、想像できる。変なところでプライド高いもんね」
「恥ずかしがり屋なの。プライドは高くねぇ」
玲奈が買った期間限定の菓子の袋を持ち上げて一気に書き込んだ。柚子胡椒の香りが鼻から抜けていく。
「まぁ、こういうときはぱーっと遊んじゃうのが良いよ。今日この後暇?」
「ひま。カラオケでも行くか?」
「いいねぇ、backnumber歌ったげる」
「泣くぞ!?」
「冗談、ナオトインティライミにしとく」
「ならヨシ。じゃあ15時にさっきのコンビニで」
「うい。あ、せっかくだし葵ちゃんとの公園デートに着ていった服着て来てよ」
「おい、まだ生傷なんだからあんまいじんなよ?」
「私もとびっきりおしゃれしていくからさ。選んであげたやつだし、それにせっかく買った服なんだしもったいないじゃん?」
「……まぁ、そういうことなら」
「うぇーい、じゃあねビッグ。ありがとうね」
そう言って玲奈は一人走って帰って行ってしまった。残された晴翔はビッグを見る。
終わったか?とでも言いたげな視線に、晴翔が終わったよ、というとゆっくりと立ち上がった。もしかするとビッグは玲奈が近づいてきている事を知ってコンビニの駐車場で駄々をこねたのだろうか。
春風の匂いを嗅ぐビッグを見て、やっぱりうちの犬は賢い、と晴翔は思った。
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