薬と血、そして鉄
月一くらいで投稿予定の気持ちです
西暦二〇三八年。昼本来の明るさを根こそぎ遮る陰湿でどす黒い雲に覆われた空の下、昼夜の概念を無くしたトーキョーのアキハバラ駅前に私はいた。
目的地は眼前にある錆色のパン屋。無論、ショーケースに並ぶ薄汚れたパンのサンプルなどに目を奪われることはない。目当ては既に決まっている。
「ザクロパン一つ」
「はいよ。五百三十円」
注文に答えたのは、こじんまりとした店舗に似つかわしくない筋骨隆々の外国人店主。
慣れた口調ではあるが、普段とは少しばかり違う返答に私はウンザリとした気持ちを覚える。
「……また値上げしたの?」
ポケットから小銭を出しつつ、私は声色に小さな棘を潜ませて尋ねる。
すると店主はぶっきらぼうに「ああ」と返した。
「最近はザクロなんて高級品、どこも卸してくれなくてな。このパン買うのなんてアンタか金持ちの観光客くらいだから別に無くしちまってもいいんだけどよ」
「それは困る」
意地の悪い物言いにノータイムで文句をつけると、店主は持ち前の悪人面でニヤリと笑った。
「だろうな。ウチとしても常連のアンタの為だ。出来るだけ頑張ってやるよ」
そう言って、店主は慣れた手つきでパンをよこした。
「そう……また来る」
「あいよ。毎度あり」
店主の決まり文句を聞き流し、私は店に背を向けた。
街は電子看板と連邦人の排斥を訴える政治団体だけがやけにうるさくて、その二つのアンバランスさに時代の変革を感じてならない。
ザクロパンの封を開ける。
何処かしみったれた雑踏の渦中を歩きながらひと口齧ると、血液にも似た赤が分厚い生地の膜からじわりと溢れ出した。
「美味しいってわけじゃ、ない」
ただ何故か、無性に食べたく——否、吸いたくなるのだ。
滔々と流れる、鮮やかな紅の液体を。
人の潮流を揺蕩い行き着いた先は裏路地のアダルトショップ。
機能していない形式だけの自動ドアを手動で開き、私は迷うことなく陰鬱な店内へと足を踏み入れた。
「お疲れ様」
声を掛けると、レジの中に鎮座する金髪の少年は私を一瞥して何も言わずに会釈を返す。
そして彼はそれ以上なにかしてくる事もなく、手元のレトロチックな携帯ゲーム機に視線を戻した。
私も彼に話しかけることはせず、関係者以外立ち入り禁止と書かれているレジ横の階段を上る。
アダルトショップはただの隠れ蓑だ。この建物の本当の利用目的はそこじゃない。
ここの本当の姿は——
「あら、ずいぶん遅かったじゃない。フィーア」
二階にある事務所の扉を開けると、幼い声が私を出迎える。
私達の特徴である透明に近い銀の髪をツインテールに束ねた美しく小さな身体の声の主は、入り口近くの椅子で足を組み鎮座していた。
「パン、食べてたから。駄目だった? ツヴァイ姉さん」
聞くと、ツヴァイ姉さんは大仰に両手を広げてわざとらしいため息を吐く。
「別にぃ? 駄目ってワケじゃないけど、私らはアンタのこと待ってたんだから少しは急ぎなさいよね」
「ツヴァイ」
部屋の最奥にいるもう一人、アインス姉さんが嗜めるように声を上げた。
「まだ昼休みの時間が終わる二分前だ。昼休み中はどう過ごそうとフィーアの自由、違うか?」
「う……それはそうだけど」
堂々としたアインス姉さんの態度に、ツヴァイ姉さんはすっかり萎縮してしまう。
「だけど? 何か言いたげだな、ツヴァイ」
容赦のない追撃にツヴァイ姉さんの肩は震え、間もなく臨界点を迎える。
アインス姉さんに攻められるとツヴァイ姉さんは弱いのだ。そしてアインス姉さんは私に甘い。
「あーもー! なんでもないわよ! ごめんなさいフィーア! これでいいアインス姉!?」
若干、否、かなりキレ気味の謝罪であったがいつものことなので私は気にしない。そもそもツヴァイ姉さんが何を言ってもだいたい気にしてないし改める気もない。
アインス姉さんもいつも通りそれで良しと判断したのだろう。満足気な笑顔で頷いてみせた。
「うん。それでいい。いい子だツヴァイ。きっと十五分程前からここで資料を読んでいる私のことを案じてくれたのだろう? ありがとう。だが……」
「もうわかったから! そんなことよりどうしてまた会議なんて開いたの!?」
また説教モードに入ったアインス姉さんにウンザリしたのか、はたまた図星を突かれたのが恥ずかしかったのかは分からないがツヴァイ姉さんが謝罪の勢いそのままで叫ぶ。
顔がちょっと紅いので、図星を突かれて恥ずかしい方かもしれない。無論、私には関係ないのでなんでもいいが。
「む、そうか。確かにその話をしなくてはな。ではフィーア、席に着いてくれ」
アインス姉さんに言われるまま、私は扉から一番近い位置にある椅子に座る。
明らかに疲労困憊といった風にツヴァイ姉さんが頭を抱えている。正直、少し面白い。
「では、会議を始めよう。まず今回の議題だが……」
手元の空中ディスプレイを弄り、アインス姉さんが卓の中央に球状の資料を映し出す。そこには、一人の男の顔が大きく映し出されていた。
「違法密輸商人の殺害依頼について、だ」
そう。ここの本当の姿はアダルトショップなどではない。
——ここは連合直属の特殊部隊ドラクル、その本拠地。
今の私達はここで日々仕事をこなしている。
二〇三〇年代の初め。第三次世界大戦の終局。古来より世界の裏側に棲まう吸血鬼の遺伝子をもとにして連邦側の組織により造られた人型対人兵器、それが私達姉妹だ。
産みの親である博士のもと、当初は戦場での任務や連合軍要人の暗殺など本来の用途で使用されていた。
しかし連邦の敗北や博士の失踪、組織の解体など紆余曲折あった結果、現在は姉妹のうち三人で集まって戦勝国である連合、特に日本政府からの指令をこなす事で生活をしている。
私の目的は三つ。
一つはこのまま、何事もなく姉妹で暮らしていくこと。
二つ目は行方不明になっている他の姉妹を探すこと。
そしてもう一つは——まだ。
「で、なんでいつも私とアンタで行かなきゃいけないワケ?」
東京は新宿の某所。
神吹町と呼ばれる犯罪の温床をツヴァイ姉さんと私は歩いていた。
「なんでって……荒事は私達の領分だからじゃないの? アインス姉さんの能力はこういう依頼に向いてない」
「あーもーそういう事じゃなくて……! はぁ……もういいわ」
ツヴァイ姉さんは何が不満なのか、疲れたように肩を落とした。
なにかしてしまっただろうか。ツヴァイ姉さんの考えていることはたまに理解できない。まあ、別にいいけど。
「ねえねえ、そこのお姉さん。よければ俺と遊ばない?」
しかし私に原因があるというのなら改めるべきなのだろうか。でもなにか悪い事をした覚えなどないわけだから改めようにも——
「ねえお姉さんってば」
考え事をしながら歩いていると不意に肩を掴まれる。
振り返るとそこには見るからに軽薄そうな肥満気味の男が立っていた。外見から推察するに、大方どこかのボンボンかこの町で成功した成金のどちらかだろう。
「……なに?」
軽く睨みながら返事すると、なにが可笑しいのか男はヘラヘラ笑ってみせた。
今すぐにでも殴ってやりたい顔面をしているが、ここで騒ぎを起こせば任務に支障をきたすかもしれない。
ここは適当にあしらっておくとしよう。
「お姉さん一人? よければ遊ぼうよ」
なんだこいつ。
どう見ても私は姉さんと一緒にいるのだが、なにをどうやったら私が一人に見えるのだろう。
「いや、姉さんと一緒だし悪いけど今から用事がある。もちろん用事がなかったところでお前と遊んでやる義理は無いが。それじゃあ」
「いやいやいや! ちょっと待ってよ」
再度肩を掴まれる。
こちらにも都合があると言っているのにこの男はまだ粘るのか。いい加減腹が立ってきた。
「姉さんってもしかしてそのちっこい女の子? もしかしてお姉さん頭イッちゃってる人? 最近多いんだよねぇ〜ダメだよ? 子供連れでこんなとこ来ちゃ」
なるほど。そうくるか。
じゃあこっちも相応のお返しをしてやらなくちゃな。
「……いいよ」
「え?」
素っ頓狂な声を上げる男の手を払い除け、私は改めて男に向き直る。
「遊んでやるって言ってる。着いてこい」
「え、マジ? やりぃ!」
これまた知性を感じない猿のような喜びようで、男はなんの警戒もせず着いてくる。
自棄でも起こしているのか知らないがこの時代においてこんな馬鹿、もはや天然記念物レベルだ。
「ちょっとフィーア、なにやってんの! こんなのに構ってる暇ないわよ」
隣を歩くツヴァイ姉さんが背後に聞こえないくらいの声量で咎めてくる。
「大丈夫。すぐ終わるから」
答えて、私は軽く周囲に意識を向ける。
視覚、聴覚、嗅覚を研ぎ澄ませる。現在、後ろの男とツヴァイ姉さん以外に人型の気配は感じられない。
「……頃合いね」
「ん? なになにホテル街まではまだあるけどもしかしてここで始めちゃう? お姉さん趣味エッグい……」
「黙れ」
バク宙の要領と「羽」を使って舞い上がり、なにやら戯れ言をほざく男の背後に回る。
きっと、男からは私が急に消えたように見えたことだろう。
「は?」
そのまま眼前にある男の後頭部に拳を叩き込む。
無論気絶で済む程度の威力なので安心安全だ。多少記憶の混濁だったりがあったとしてもそれはご愛嬌というものだろう。
「あーもーこんなことしちゃって……んじゃ、気は済んだでしょ? 早く行くわよ」
「ん。ちょっと待って……お、結構持ってるよコイツ」
男のポケットに入っていた財布には、十数万の現金が入っていた。不快な思いをしたのだから、慰謝料くらい貰って当然だろう。
「はいはい……私にも分けなさいよ。アインス姉には黙っといてあげるから」
「はーい。それよりツヴァイ姉さん、この男もなんか言ってたし、やっといた方がいいんじゃない? アレ」
「それもそうね。じゃあ……ま、コイツでいっか。キモイけど」
そう言ってツヴァイ姉さんは男の首根っこを掴み、大きく口を開けるとその首筋に添えるようにして牙を立てる。
「いただきまーす」
男の皮膚がプツリ、と音を立てて貫かれる。吸血鬼の鋭い牙によって。
そして時は進み日付が数を変えようとする頃。
私は神吹町内にあるビルの屋上で夜闇に紛れ、ドブ鼠のように息を潜めていた。
暗い、陽光の届かないこの時代において夜とは形骸化した数を示す時でしかない。
にも関わらず、夜は犯罪率が高い傾向にある。それが夜という大義名分を人々が欲しているからなのか、あるいは夜のもつ魔力が人を狂わせるのか、私にはまだわからない。
「……来た」
カチャリ、と控えめな音を立てて扉が開く。中から姿を現したのは大きな籠を抱えた痩せ気味の薄幸そうな男だった。
アインス姉さんの資料にあった違法密輸商人と顔が一致する。
「待たせたな。約束の物を持ってきた」
男が話しかけたのは私ではなく、屋上の柵に腰掛けているもう一人。
「確認する」
それ以上なにか言うことも無く、さっき私がのした男と全く同じ姿をしたそれが一歩、また一歩と商人に近づく。
そして男の手が商人の持つ籠に触れた。
その瞬間、男の肉体——否、少女の纏っていた血液が解け、弾けた。
「なっ……!」
「死になさい。違法密輸商人、マクレガー!」
男の身体に擬態した血液の中から姿を現したツヴァイ姉さんが、商人の首筋目掛けて飛びかかる。
これで殺されてくれれば楽なのだが。
そう思い壁から小さく顔を覗かせると、地上からの煩わしい明かりにのみ照らされていたこの屋上に火花が舞った。
火花の在処は、男の出てきた扉の中だ。
銃弾に撃たれた衝撃で飛び上がったツヴァイ姉さんの身体は後方に吹き飛び、重力によって床に叩きつけられる。
「ゲホッ……最悪……!」
目を凝らしてみると口とわき腹から血が垂れているようだったが、まだ無駄口を叩ける辺り大丈夫そうだ。
しかし男は勝利を確信したのか、倒れるツヴァイ姉さんの前で大きく手を広げ勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべて見せた。
「ハッ、バカが! 一人な筈ないだろ! どんなトリックを使ったか知らんが、そんな子供騙しで僕を殺せると思うなよクソアマがッ!」
これぞ悪役といった風の商人だが、残念。悪役は悪役らしく今から負けるのだ。もちろん正義の味方なんかじゃなくて、同じ悪役に。
拳を強く握り締めて、爪を掌に食い込ませる。指の隙間から垂れた血によって形成された小さな血溜まりは、数匹の赤黒い鼠へと変貌した。
「行け、血鼠」
合図と同時に、小さな下僕どもは闇の中を流れるようにして身を潜めた射手のもとへ殺到する。
扉の向こうから悲鳴が聞こえてくるのに時間はかからなかった。
「は? なんだよ。なにがあった、おい! どうした!?」
唐突に聞こえてきた今まで自分の命を支えていたものの崩れる音に、商人はパニックにも似た困惑を露わにする。
こうなると、もう他に手はないと自白しているようなものだから楽で助かる。
「生きてる? ツヴァイ姉さん」
念の為、周囲への警戒は怠らないまま影から出ていく。
こちらを見る商人の大きく見開かれた目は紛うことなき絶望に満ちていた。
「生きてるに決まってんでしょ。あーもーホント最悪。血が流れると貧血で気分悪くなんのよね」
携帯血液パックを吸いながら古い映画のフランケンシュタインみたいに起き上がったツヴァイ姉さんのわき腹を見ると、もう流血は止まっていた。
さすが吸血鬼。私もだけど。
「ま、まさかお前ら、生体兵器なのか……?」
「正解。んで、アンタを殺害しろって命令が下されてんの。なにしたか知らないけど、アンタ調子に乗りすぎたみたいね。観念しなさい」
「そ、そんな……嘘だ……」
情けない声を上げながら商人が後ずさる。その目に映っているのは私達ではなく、絶望そのもののような気がした。
「殺そうか、姉さん」
「そうね」
私が一歩を踏み出す。すると商人はポケットからなにか赤黒い液体の入った注射器を取り出して、迷いなく自分の腕に突き刺した。
「え、なにそれ」
「も、もうどうなっても知らねぇ……くそ! お前らが、お前らが悪いんだからなっ! クソっクソが、ガッ……ガガガガ……!」
商人が注射を刺した点から獣じみた毛並みが波紋のように生え広がる。細かった腕と脚は筋肉が肥大化し、口鼻は飛び出て歯が牙と化す。
その形貌はまるで御伽噺の中のオオカミ男のようであった。
「……なんの冗談よ」
商人だったものの鋭い瞳が、愚痴っぽく呟いたツヴァイ姉さんを捉える。そこから怪物が飛びかかってくるまで、一瞬とかからなかった。
硬いものの砕ける爆音が新宿の夜空に響く。
「ちょ、ちょっと聞いてないわよこんなの!」
羽を出して飛び避けながらツヴァイ姉さんが狼狽の声を上げる。無理もない。私だってビビってる。
「私も聞いてない。イレギュラーだよ、ツヴァイ姉さん。どうする?」
「どうするって……!」
ツヴァイ姉さんが下のオオカミ男を見やる。奴の攻撃が直撃したであろう床のコンクリートは明らかに大きく抉られていた。
「あんなの、ほっとけるワケ無いでしょ! ああもう! やってやるわよ、フィーア!」
「賛成。行こう、ツヴァイ姉さん……遺伝子解放だ」
瞬間、ツヴァイ姉さんの瞳、そして恐らくは私の瞳も暗黒にて真赤に光る。それはまるで、夜闇に浮かぶ赤い月のようで。小さな羽は影を纏うように昏く拡がる。
そうして紛うことなき吸血鬼が二匹、隣のビルの鉄骨へと降り立った。
「さぁ、ここからは吸血鬼の時間だ」
標的はビルの屋上に居座るオオカミ男モドキたった一人。この程度なら、問題じゃない。
「フィーア、左頼んだ」
「了解」
私達は同時に鉄骨を蹴り、中空へと勢いよくその身を投じる。足場となった鉄の梁は衝撃によって容易にひしゃげてしまった。
羽は閉じ、まるで全身が一つの弾丸であるかのようにオオカミ男へと真っ直ぐに突撃する。
されど無論、オオカミ男とて何もせず無様に散ってくれる訳はない。夜空を裂く咆哮と共に、私達の突進に合わせて怪異と化した男が両腕を振るう。だが、遅い。
奴が腕を振り上げた時点で回避は既に完了しているのだ。私達がいたはずの空間にてオオカミ男の鋭い鉤爪が空を切る。
そしてガラ空きとなった左脇にはツヴァイ姉さんの蹴りが、右脇には私の殴打が叩き込まれた。
オオカミ男は断末魔を上げることすら敵わず、身体をおかしな方向へと屈折させて塵のように地面に転がる。暫くは痙攣を起こしていたが、その後にピクリとすら動かなくなった。
「依頼完了……疲れた」
遺伝子解放を解除し、私はその場に倒れ込む。
もとは商人であったオオカミ男は、骨も内臓も取り返しがつかない程グチャグチャになっているだろう。恐らく、もう襲われる心配はない。
「ホント……やってらんないわよ。なんなのよコレぇ〜」
グロッキーな様子のツヴァイ姉さんも私と同じくその場に座り込む。いつも高慢そうな表情を浮かべている顔にも余裕の色はなく、肌は青白く染まり息も上がっていた。
遺伝子解放。その名の通り、私達の中に存在する吸血鬼の遺伝子を解き放つ事で身体機能をより吸血鬼に近づける——まあ、必殺技のようなものだ。
もちろん、これを常時発動していない事には理由がある。
吸血鬼に近づけば近づく程、一つ一つの動作により多くの血液を必要とするのだ。
人間に例えるならば、強くなる代わり消費カロリー量が増えて簡単に餓死しやすくなる、といったようなイメージだと思う。
その為、遺伝子解放を使った後は大抵、貧血状態に陥る。
今回はすぐに片付いたからまだいいが、標的に粘られたりすると地獄だ。
にしても私達が少し遺伝子解放しただけでこれなのだから、本来の吸血鬼というものはどれだけ血を必要とするのだろう。なんとなく血色悪いイメージがあるのも頷ける。
なんて、どうでもいい事を考えているとツヴァイ姉さんがいい加減に起き上がってフラフラと動き出した。
「んじゃ、依頼も達成したしとっとと死体詰めて帰るわよ……あと血液パック少し分けてくれない? 私、もう切らしてるから」
「わかった……あとツヴァイ姉さん、あれも持って帰んないと」
「あれって?」
まるで理解出来てないツヴァイ姉さんを横目に、私は屋内へと続く扉を指さした。
「さっき撃ってきたアイツ、回収した方がいいと思う。色々」
「あー、確かにね……取ってきなさい。私はこの死体詰めとくから」
「えー……まあ、仕方ないか。はい、とりあえずこれ」
多少の面倒くささを覚えつつ、まずはツヴァイ姉さんに携帯血液パックを投げ渡す。
「ん。助かる。さっさと済ませて帰るわよ……疲れた」
「うん。そうしよう、私も疲れた」
中身のない言葉のキャッチボールをしながら、私も血液パックを口にしつつ屋内階段へと向かう。
扉の向こうから微かな足音がするのに気づいたのは、その時だった。
——マズい
そう思うより先に、勢いよく目の前の扉が開かれる。
ビル内部へと続く闇の中から現れたのは、ポケット・ガトリングガンを脇に構えた一人の少女だった。
「貫かなくちゃ」
少女が呟く。
意味不明。脳がその感想を弾きだすよりも早く体が反射的な回避行動をとる。それでも、既に砲身は回転を始めていた。
幾重にも繰り返される銃声。その衝撃によって放たれた無数の銃弾が私の左腕を吹き飛ばすまでに、一秒と要しなかった。
「え」
熱い、なんで、誰。纏まりのない思考が断続的に脳裏で交錯し、やがてそれらは尋常ではない痛みによって塗りつぶされる。
「ぎっ……!」
倒れるも、歯を食いしばって叫びそうになるのをグッと堪える。まだ任務中だ。ここまできて騒ぎを起こす訳にはいかない。
「フィーア! 止血しなさい!」
朦朧とする意識の中、どこか遠くから聞こえたツヴァイ姉さんの声により、私は自分の肩から大量の血が流れ出ていることに気がついた。
ひと目見ればわかる。これは明らかにマズい、致死量だ。
揺れる視界の中、吹き出た血を捉えて気持ちだけで意識を集中に持っていく。
大丈夫。できるはずだ。私の能力なら。
私達姉妹にはそれぞれ造られた目的に応じて特殊な、血に関する能力が付与されている。
アインス姉さんの能力は『知る』能力。ツヴァイ姉さんは『化ける』能力。そして私は——
「『操る』!」
死の淵に立ち、己の集中力がピークに達するのが分かる。
それと同時に、屋上に出来た血溜まりがまるでゲームに出てくる意志を持ったスライムのようにゆっくりと動き出し、グチャグチャになった左肩へと帰ってきた。
「ぐっ、ハアッ! ハアッ……!」
体内にある血の総量が平常に近づいたお陰で、廻り揺らいでいた視界が幾らか静止する。
残った右手と両足でなんとか身体を動かして辺りを見回す。すると闇夜の屋上では、ツヴァイ姉さんが日本刀を持った少女と一進一退の攻防を繰り広げていた。
これは悪夢だろうか。あろうことか吸血鬼と、ただの少女が近接戦闘で互角に渡り合っている。兵器として造られた私達と人間が、だ。
「嘘、だ」
半ば無意識に零れた呟きが聞こえたのか、少女が一瞬、横目で私を見やる。
そして隙としか思えない間を狙ったツヴァイ姉さんの一撃を刀で受け、その衝撃を利用して飛ぶとフェンスの上へと降り立って私達から距離を取った。
「思ったより回復が早かったわね。吸血鬼フィーア。アナタの『操る』能力はまだまだ不完全と聞いていたのだけど……読み違えたかしら」
いつの間に移動させていたのか、屋内階段に転がっていたハズの男を少女が担ぐ。
「想定外だけど、貫かなくちゃ」
「ゴチャゴチャうるさいっ!」
羽を出して一気に間合いを詰めたツヴァイ姉さんが少女に飛びかかる。しかし少女はフワリと背後の中空に身体を預けることで、それを躱した。
「えっ、ちょっ!」
慌てたツヴァイ姉さんがフェンスから身を乗り出して下を見るよりも早く、今まで何処に隠れていたのか。轟音と共にヘリコプターと、垂らされた梯子にぶら下がる少女が姿を表した。
「は!? なによコレ!」
「見て分からない? ヘリコプターよ」
「そういう事じゃないっ!」
ディスコミュニケーションと共に暴風が私達のいる屋上を襲う。
これでは羽を出したところで姿勢の制御が出来ず墜ちる危険がある。このまま飛んで少女を追うことは難しい。
「それではサヨウナラ、吸血鬼。私は帰らせてもらうわ。今回の目的は貫いたもの」
少女の宣言とともにヘリコプターがゆっくりと上昇を始める。
今の私達ではそれを見送ることしかできない。
だけどそれじゃあ、あまりにも。
「ま、待て!」
考えて出た言葉じゃなかった。それでも少女は多少なりとも興味を示したようで、梯子を登らずに私を見やる。
「一体……何者!? 目的はなに!」
こんな事を聞いたところで、相手に答えるメリットがないことくらい分かってる。だけど、今の私は小細工をする余裕なんて大層なものは持ち合わせていなかった。
されど少女は微笑むことも怒ることすらなく、ただ淡々と答えた。
「私の名前は鉄島徹美。連邦の亡霊どもを貫く女よ」
酸性雨のチラつき始めたアキハバラ。その裏路地にある事務所へとどうにか戻った私達はアインス姉さんに事の経緯を報告していた。
「では、標的はなにか薬のようなものを打ってオオカミ男のような姿に変貌。そしてお前達はこれを殺害。その後、鉄島徹美と名乗る少女が現れ戦闘。フィーアは重症、標的の仲間と思われる男は連れ去られた……これで間違いないな?」
「……そういう事。散々だったわ」
カップに注がれた血液をストローで吸いながら、不機嫌そうにツヴァイ姉さんが答える。
帰ってから大量の血液を吸ったおかげだろう。顔色も傷もすっかり元通りに戻っている。羨ましい限りだ。
「ことが起こった背景はまるで理解できないが……死体を持って帰ることができたのは不幸中の幸いだな」
言って、アインス姉さんは床に置いてある死体袋へと視線を落とす。たしかに、これとアインス姉さんの能力があれば薬についても何か糸口が掴めるかもしれない。
「それで……ガビ、どうだ? フィーアの腕はくっつきそうか?」
アインス姉さんが問いかけたガビというのは、いつもアダルトショップで店番をしている無口な金髪の少年。
私の隣にいる彼は、吹き飛ばされた私の腕と肩の欠損部を見て、首を大きく横に振った。
「これはすぐには無理だよ。傷口がグチャグチャすぎる。フィーアさんの『操る』能力にもよるけど、完全に元通りってなるまでには二週間から……遅ければ半年くらいはかかるんじゃないかな。もちろん一生くっつかない可能性もゼロじゃないけど、フィーアさんなら大丈夫だと思う」
ガビの見解を聞いて、アインス姉さんは少し残念そうにため息を吐いて椅子にもたれた。
二週間か。長いな。
「それでは、フィーアの腕が完治するまでの間は任務の危険度を下げるよう私から上に要請しておく。薬についても隊長に頼んで調べていただく為、少し時間を要するだろう」
「てことは、休み?」
不機嫌から一転。希望に満ちた声でツヴァイ姉さんが問うと「そうなるかもしれん」とアインス姉さんが頷いた。
「やったぁ! ちょうど観たいアニメとか読みたい漫画が溜まってたのよねぇ〜。ああ……! どれから片付けてやろうかしら!」
休み、か。
アニメに漫画といった、まさにアキハバラに棲む者らしい趣味を持つツヴァイ姉さんと違い、私にはこれといってやりたいことがない。
その為、休暇を貰っても持て余すのがお決まりなのだ。
「……なにしよう」
誰に向かって言ったわけでもない呟きだったが、答えは意外にもすぐ近く。左隣から聞こえてきた。
「フィーアさんはできるだけ回復に努めてください。そうすればあなたの能力を回復の為だけに活用できるので、遅くとも二ヶ月程で左腕は元通り動くようになるはずです」
「そうだね。そうするよ」
なんて。答えながら私は、汚染された雨に飲まれたアキハバラを窓からボンヤリ眺めていた。
それから数時間後。ツヴァイ姉さんが眠りについた頃合いに、私はアインス姉さんの部屋の前に立っていた。
金属製の扉をノックすると、「入れ」という言葉が返ってくる。
「……フィーアか」
部屋に入ると、パソコンの画面を見つめるアインス姉さんがこちらを振り返ることもなく話し始める。その声は先ほどよりも何処か冷たく感じられた。
「うん。アインス姉さん、その……見つかりそう?」
私の質問にアインス姉さんはゆっくりと首を横に振る。
予想通りの答えとはいえ、私にはそれがひどく残念に思えた。
「まったくだ。流石と言うべきかな。足跡が辿れない……だが」
アインス姉さんがなにかのキーを押す。すると、赤い液体の入った見覚えのある注射器の画像がディスプレイに表示された。
「これだろう? 商人が使った薬というのは」
「うん。だけどこの写真、どこで」
「警察が他の案件で掴んでいたようでな。私如きに抜かれるとは、彼らも不用心なものだ」
明らかな犯罪行為の示唆にも関わらず、アインス姉さんはなんら悪びれること無く答える。
「……そっか」
しかし咎めることはもちろん、この件について私がそれ以上聞くこともない。
目的の為に手段は選ばない人だ。私なんかがなにか言ったところで、意味なんて無い。
「それで、だ。この薬を打った商人はオオカミ男のような異形に変身した……それは確かなんだろうな?」
「確かだよ。幻覚とかじゃないと思う。身体能力も格段に上がってた。あれは、人間に出せる力じゃない」
そこまで話して、鉄島徹美のことを思い出した私は念の為「……たぶん」と付け加えておいた。
「なるほど。では恐らくだが、この薬の製造には私達、生体兵器計画の前身であった改造人間計画……その技術が流用されている可能性が高い」
「改造人間計画?」
聞きなれない単語に私はオウムように言葉を返す。
「ああ。異形の遺伝子を人に組み込むことで身体能力を飛躍的に向上させる……後発で造られたお前は知らないかもしれんが、私とツヴァイが出来た頃にはまだ連邦内で計画が動いていた。人道に欠けるといったくだらん反発のせいで立ち消えになったらしいがな」
「へえ……え。じゃあ、この薬って」
アインス姉さんがようやく振り返る。その顔には、まさに心からの笑顔が貼り付けられていた。
「そうだ、フィーア。これを流したのは連邦残党の可能性が高い……それに、こんな素晴らしい物を造れる人間なんて限られている。そうだろう?」
語るアインス姉さんの目は虚ろで、声色には興奮が見え隠れしている。いつもなら、こんな様子は絶対見せないのに。
「なら、日本にいるかもってこと?」
「ああ。あの御方が、な……フィーア、分かっているな?」
アインス姉さんがこう問いかける時、私はいつも決まった返答を求められている。ならば今は、その思いのままに答えるだけだ。
「うん……全ては連邦の為に」
あの人にもう一度逢う。それが私のもう一つの、そして一番の目的だから。
屋上の戦いから一週間が経ち、ところは再びアキハバラ駅前。
相も変わらず、煌々と輝く街の明かりを飲み込む黒雲が立ち篭める空の下。私の目的はもちろん錆色の小さなパン屋。その商品の——
「あれ、ザクロパンは?」
ショーケースに見当たらない目当ての品を求めて店主に声をかけると、彼は申し訳なさそうに目を逸らした。
「あー、悪い。実はザクロが仕入れられなくなってよ……ザクロパンは暫く無理だ」
なんだと。
店主によるあまりにも無情な宣告に、私は咄嗟に言葉が出てこなかった。
ザクロパンがない。そんなわけがあるか。あってたまるか。きっとこのデカブツは己の私利私欲のまま、店のザクロパンを独り占めするために私を騙そうとしているのだ。そうだ。そうに違いない。
であれば、私が取るべき行動は一つ。
脳が結論を弾きだすや否や、私はギブスを巻いていない右手で財布から一万円札を取り出し、店主の眼前へと勢いよく叩きつけた。
「……言い値で買おう。だから、出せ」
しかし、それでも店主は私の剣幕にたじろぐこともせず、むしろ何か憐れむような、可哀想なものを見るような目をしてみせた。
なんだ。なにか言いたいなら言え。
「出してやりたいのは山々だが……無理なんだ。もう作れないんだよ、ザクロパンは」
「そ、そんな……」
あまりの衝撃に、私は膝から崩れ落ちる。
「じゃあ……もう、食べられないのか……? ザクロパン……」
「ああ……すまねぇ」
無念そうに目を落とす店主に嘘をついている様子はない。
ザクロパンが、ない。その事実に直面した私の頬を一筋の雫が伝った。
いつにも増して暗く思えるアキハバラの街は、今日も静かに俯き歩く人々でごった返している。
この街で存在を主張するのはやはり、ビルに設置された電子看板と拡声器越しに聞こえる連邦残党を非難する団体の声のみ。
そう。私達がいくら任務をこなそうと、街に変化はない。あるとすれば、それはきっと悪い変化だけだ。
黒雲の下、私は大きなため息をついて二百円で買った塩パンの封を噛み切った。
赤を示していた信号が青へと変わる。
「……塩パン、ビミョー」
その呟きは横断歩道の雑踏に紛れて、消えていった。