5話
意外なことに、私はアンシェル様の一週間の滞在を短く感じていた。
初めはアンシェル様が美形すぎる事と、名前に関する違和感と───やけに親しげな態度に不信感しかなかったのだが……。
彼の膨大な知識を駆使しての話はとても面白く、退屈を持て余していた私にとっては恰好の遊び相手になっていた。
「アストラル様」を「アンシェル様」とお呼びすることにもすぐに抵抗はなくなっていた。
何しろお爺様も「アンシェル殿」と呼んでいるし、警備兵団のおじ……お兄さん達も「アンシェル様」と呼んでいるのだもの。
後からお爺様が教えて下さったのだけれど、アンシェル様が最初から本名を名乗ることの方が稀なことであるらしい。
多くの人は「アストラル」という名を知ってはいるが、「アンシェル」として認識している───
やはりこの辺りのことは「デルフィーン公爵家」の男子が育ち難い家系、ということが大きく関係しているのかな?
聞き難い内容なので、確認はしないでおこう。
そういえば、お土産に頂いたイルカのぬいぐるみの大きな青いイルカを「アニキ」。ピンクのイルカを「コモモ」と名付けた。日本語の発音のまま名付けたので、アンシェル様はこの二つの単語の意味を知りたがった。
「ゆめのなかで2ひきがそういったの」
と誤魔化した。
いけないいけない、アンシェル様は語学が堪能なのよね。将来的に他の国の言葉も覚えていくはず。近隣の国にそんな言葉がないと判ったら、どれだけ追求されることやら。
16歳という若さながら、すでに母国語以外に二ヶ国語を自在に操るので私には読む事のできなかった外国語の本まで翻訳しながら読んでくれるのだ。
その結果、お父様の書庫には外国語の恋愛小説も存在していることを始めて知った。
私はアンシェル様の甘く優しい声で、それらの本を読んでもらうのが大好きになった。
おそらく私の両親の新婚時代には───父が読む声を母が聴いている。そんな日常もあったのかも知れない。
私の両親は政略結婚ではなく恋愛結婚だったと、お婆様も言っていたし。
そして、アンシェル様はちょっと色っぽい場面にさしかかると、途端にたどたどしくなって一生懸命表現を和らげようとしているのも可愛らしい。
普段大人びた様子でいるので、16歳の年齢相応の青少年ぽくてなかなか可愛いですよ。
こちらとしても実践経験は決して多くはないけれど、一応成人になって何年も過ごしてきた前世があるのでこれくらいの表現ではびくともしませんけどね。
でも、ちょっとアンシェル様の声で
「姫は私のものだ」とか「愛しの君」とか耳元で囁かれると、ぞくぞくっと鳥肌が立ってしまうのは内緒。
春先なので、肌の露出の少ない衣装で助かったわ。
そして、そんな季節なので私とアンシェル様は、お母様のお気に入りだったサンルームで過ごすことが多かった。
と言っても一日中一緒にいるわけではない。
朝食後の私には家庭教師による勉強があったし、アンシェル様もお父様の蔵書を読むという本来の目的を果たすために別行動だった。
昼食を済ませた後も、アンシェル様は書庫に籠ったままだったし、私は子供の身体のためお昼寝が必要だった。
そのため、アンシェル様に本を読んで貰えるチャンスは午後のお茶の時間だけだった。
残念───。
お爺様とお婆様と、アンシェル様と私でのゆったりとしたティータイム。
私が強請ると、アンシェル様は長椅子へと移動して私を隣に座らせてくれた。
私の膝の上にはピンクイルカのコモモが乗っている。
触っていると、シュシュジュダマって何気に気持ち良い。手の平のツボを刺激するというか、癖になる手触りなのだ。
アニキの方は抱き枕として愛用しているし、コモモはサイズ感も丁度いいので割と持ち歩いているのです。
中身である「シュシュジュダマ」は、別名「コトリムギ」。
天日で乾かしたコトリムギを炒って、煮出したものを世の女性たちは愛飲しているらしい。飲みすぎると身体を冷やしすぎてしまうので、妊婦が飲むときには注意が必要らしい。
でも、所謂カフェイン的なものを含有していないので子供にも───全世代で安心して飲める代物である。
利尿作用も高くて肌荒れやむくみにも効果的な、世界中の女性のマストアイテムであるらしい。等級も特Aから始まり、Eランクまで分かれていた。
もちろん特Aは王家のご愛用、Aは公爵家、Bは侯爵・伯爵・一部の金満家などが主に購入している。ちなみにEランクは飲用には向かないため、ぬいぐるみや、枕などの中身に使用されていた。
私が頂いたぬいぐるみの中身は、実はAランクだったらしい。
お婆様が仰るには、お茶にしたときの立ち上がる香りが全く違うのだという。
そんな上等な品を使ってアンシェル様は、あの大きなぬいぐるみを作って下さったのね。確かに眠りにつくまで、優しい香りが心地良い。
これを頂いたときにお婆様が気にしていたことは、香りで中身にAランクが使われていると気がついたかららしい。
シュシュジュダマを煎ってお茶にするけれど、ぬいぐるみの中身は天日干しの状態のままなので、農業の知識があれば路地栽培も可能な種子。
このまま我が家の庭に種を植えれば、やがて芽が出てコトリムギ茶が大豊作!
それも高級なAランク茶。
──────世の中甘くないのです。
不思議なことにAランクの種を使って栽培を試みても、この家の庭で育つのは良くてもDランク。大抵はその下のランクのコトリムギ茶しか採集できない。
もちろん我が家の土壌には何の問題もない。むしろお婆様がお花好きなため、日々庭師によって園芸用の土は改良されているので状態はかなりいいはず。
そもそもシュシュジュダマ自体は珍しい植物ではない。わりとその辺りの道端でも生えていたりする。でもそれは野生種というか、原種に近いものなので煎ってもコトリムギ茶にはならない。むしろ嫌がらせレベルの下剤に匹敵する苦茶らしい。
もちろん飲んだことはないので、栽培結果を含めてこれはアンシェル様に聞いたこと。
「高級コトリムギ茶」=「デルフィーンの特産品」と言われるほど、珍重されているらしい。
特A、A、Bランクはデルフィーン領でしか収穫できないし、Cランクも隣接するいくつかの土地でしか収穫できないのだという。
「デルフィーンは、海がない内陸の領地だからね。それが原因じゃないかな?近隣の産地もやっぱり海からは離れているんだよ。
そう言えば昔特Aの種を盗まれたことがあるんだけど───」
なんとなく想像がつくわ……。
「見事に失敗」
で、しょうね。
「結果的には土地が荒廃して、二度と農業ができなくなったらしいよ?」
想像の上をいきました。
二度と農業ができないほどの土壌の荒廃っていったいどんな天変地異が起きたというのでしょうか?
「───と言うのは、教訓的な昔話かな。『他人の物を盗んではいけません』だね」
「ほんとうは、ちがうのですか?」
私の言葉にアンシェル様は、ふと気が付かれた様子。
「そうだね。例えば隣国だと『復讐するは我にあり、我これを報いん』って、神様の言葉があるんだけど……」
あ、前世でも似たような言葉がありました。確か、「復讐しようとしてはいけない、それは神の役目だ」的な意味だったような?
「───デルフィーン家は、自分で片をつけるせっかちな家系ってことかな?」
それ「せっかち」で片付けられることじゃないですよね?
思い切り「武闘派」一族ってことじゃないですか!
かなり間が開いてしました。
デルフイーン公爵領の説明をしたかったのですが、特産品の説明が長引きました。