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要請されるドラマ

 

 


 「純粋『意志』批判としてのシェイクスピア」という文章を前に書いたが、もう少し問題を進める。


 シェイクスピア「オセロー」は嫉妬の物語である。夫が妻の浮気を疑い、最後には妻を絞め殺す。その後、妻の浮気の疑いが、自分の部下が策略したものだと知り、自死する。そういう話である。


 あらすじだけ見れば、こんな話は沢山あるだろう。渡辺淳一とか、そういうものかもしれない。しかし、シェイクスピアと渡辺淳一が違うというのなら、その意味を示さなければならない。


 シェイクスピアの作品を呼んでいて感じるのは、純粋で強固な「意志」である。この意志は、外部にドラマというものを要請する。どれほど馬鹿馬鹿しくても、意志は外部に対象を持ち、それに裏切られる事によって自己を完結する。


 例えば、「誰かを好き」という感情があって、これを無媒介に信じられるというのが普通の物語・小説であるし、一般的な想念だと思う。ある作家の書いた作品に「最初、彼はどうでもいい存在だったけど、次第にかけがえのない人になっていった」みたいな記述があって阿呆らしく感じたが、かけがえがあるとかないとかいうのが、重大な事であるのが現代の物語と一般にはされている。


 「オセロー」に見られるような純粋かつ強固な意志というのは、その意志が外的な振る舞いを持たざるを得ないから持つのだ、という風に自分には感じられる。つまりは、そこに実存的なものがあると言いたいわけだが、これは、人間の内的な意志と、意志が向かっていく対象を、作家ーーつまりシェイクスピアーーが分離して考えているからではないかと思われる。


 自分にとって疑問だったのは、次のような事だった。多くの作家が問題とする、また、一般の人が問題とする、金銭とか地位とか、恋愛とか、名誉だとかいった問題は実際には大した事はない。そんなものは取るに足らないというか、そんなもの全てを取り込み、素材として、思考する自己というのが最も重大である。少なくとも、自己意識が膨らんだ人間にはそんな風に感じられる。金によって、名誉、恋愛によって、自分が高みに昇ると考えている人間は浅はかであって、彼は自己というものを知らないのであると。自己というものが肥大した人間には世界は朧に映る。では、何故、いまさら、その世界に飛び出していかなければならないのか?

 

 話がずれるが、仏陀という人は、そんな問題を自分に引き受けたように見える。彼が菩提樹の下で悟りを開いた時、一々、外界の人間に真実を伝えるというのは、面倒くさいし、理解もされないであろうから、やんわりと拒否したのだった。しかし、彼の夢に神様が現れ、下界の人間に真実を伝えるよう要請した。それで、仏陀はやむなく、下界に降りて、自分の真理を伝えるという他者との関係に入っていた。


 仏陀という人は物凄く理知的な、科学的思考の人物だったと思うが、この理性の塊のような人物のような夢に、「神様のお告げ」という不合理なものが現れ教えを垂れたというのは極めて興味深い。それは、自己意識の塊のハムレットが、義父の亡霊を見たのと似ているとは言えないか。極度に圧縮された自己意識は、それが例え完全なものだとしても、その完全さに耐えられず、下界に、外側に出ていくのではないか。


 同様な事がドストエフスキー「罪と罰」にも言えると思う。ラスコーリニコフが、娼婦ソーニャに罪を告白し、大地に接吻し、自ら裁きにかけられていく姿は滑稽であるし、嘘くさい。これ関しては、普通の物語を見ている人には普通だと感じられるだろうが、鋭敏な人には嘘くさいと感じられると思う。ブコウスキーが「罪と罰」のラストを「強いられたような」と形容していたと記憶しているが、ブコウスキーがそう言うのも、うなずける。


 しかし…自分はこう思うのだ。ハムレットにおける独白、ラスコーリニコフにおける内的意識の方が、彼らが行う劇よりも真実であり、真性のものであるとしても、その単独の真実に人は耐えられなくなる。だから、ソーニャに罪を告白するという滑稽な劇を行わざるを得ないと。自己の内的意識、意志というものが単独である時、それがそれ自体に耐えられなくなる…するとそれは外部に指向していく。通常、人が愛好する物語は外部的な、殺した殺された、好き嫌いの世界であるから、ドストエフスキーもシェイクスピアもそんな風に読める。通俗的な興味だけで、ドストエフスキーやシェイクスピアを読む事はできるし、面白いと感じる事もできる。だが、ドストエフスキーやシェイクスピアはただ通俗的なだけの作家とどうしてこれほど違うのか。それというのは、真実は嘘によって救済されざるを得ないという、真実の先にある物語の為ではないか。自分にはそんな風に感じられる。


 「オセロー」という作品で、主人公オセローや妻のデズデモーナが悲劇に陥るのは、彼らの純粋な意志故に見える。その際、その物語は、ただ、そういう人物がそういう事をした、ただ、誰が誰を好きになった嫌いになったという、現象的なレベルを越えて、物自体(本質)に迫っているという感じを受ける。人は、自分の純粋な意志を持った場合、それに耐えられず、外部に指向せざるを得ない、だからこそ、ドラマ(悲劇)は起こるのだという風に自分は感じる。


 リア王の、嵐の中での嘆きの場面も、娘に裏切られた父親の嘆きというには、あまりにも過大すぎる。が、これはそもそも、人間が悲しいものであり、生きる事が陰惨なものであるという事実が、偶然的な、娘の裏切りという事象によって現れると考えれば、これは過大でもなんでもないという事になる。シェイクスピアにあった宇宙的感情、憎悪も愛も極度に高められた、高き世界は、人の嫉妬だとか憎愛という、我々に馴染みの現象を通じて語らなければ我々の目に見えるものとならなかった。シェイクスピアという人はそんな高い世界を背負っていて、なおかつそれを目に見える(ドラマ)で表現したから偉大なのだと思う。


 まとめると、シェイクスピアにしろドストエフスキーにしろ、そこに起こるドラマというのは、テレビドラマや通俗小説で起こる劇と変わる事はない。それは現象的なレベルにて起こる。が、彼らはその上により高い世界を把握していて、それが、低い世界の現象を通じて現れるという事も感じていた。だから、劇は二重になっているように見える。人間が行動し、そこで起こるドラマはより高度な場所からすれば些末なものである。くだらないものである。だが、そのくだらないものを通じて、あるいは結局はそのくだらないものを人は生きざるを得ないと感じた時、やっとドラマが起こる。


 通常のドラマでは、自分が誰かを好きになる嫌いになる、殺意を抱くといった事柄がそのまま信じられている。そこではドラマは普通に起こっているが、それがやむを得ない形式とは感じられていない。ウィトゲンシュタインが世界の有様を、極限まで行って帰ってきて、そこでようやく日常に到達するように、ドストエフスキーやシェイクスピアは、ドラマというものを、主体性の果てにあるものとして見ていたのだと思う。あるいは、自分はそんな風に考えたい。そこでは、プラトン的な観照的立場は更に推し進められている。そこでドラマが起こり、そのドラマは想定されていた通りにくだらないものであった。が、それでも人はそう生きざるを得ないし、そのようにしか生きる事はできない。そう知った時、人の意志は滅する。ドラマはそこまで辿り着く。そこでは様々なものが寂滅の域にまで達する。そこではハッピーエンドもバッドエンドも同じである。人間が限界を破ろうとして始めて、そう生きざるを得ないという形式が見えてくる。その形式から人は、彼らの作品を眺めるが、むしろ、その形式は我々の生の果てにあるものだと思う。そこで、ドラマ形式は要請されているのである。





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