第四話:JZS161アリスト 後編
二人が轟木モータースに向かう所から始まります。
私はナビのHDDに録音された軽快な音楽を聴きながら片手ハンドルでアリストを走らせ、心地よく流れる産業道路を走っていた。
「ねぇ、廣樹? 車をずっと好きでいる為に必要な事って……なんだと思う?」ふと、廣樹に訊いてみた。
「好きでいる為に……必要な事?」
廣樹は弄っていた携帯電話をパタンと勢いよく閉じると、考えを整理しているようで外を眺めながら無口になった。少しすると私を見ながら口を開き話し出した。
「そうだなぁ……モチベーションを保つことじゃないかな? 情熱を継続できる環境を築くことが最も大切なんじゃないかな。つまり、乗り続けられる環境にいられるかどうかってコト。乗り続けられない環境なら、乗り続けられる環境に変え、許してくれない恋人は離れていくだろうし、車を優先して仕事も変えて、よりベストな環境を探して自分をそこに置く事じゃない? 好きであり続ける気持ちは、その環境が作るんじゃないかな? 俺はそう思うよ」車内に穏やかな口調で話す廣樹の声が響いた。
「うん、私もそうだと思う……満点な模範解答だね」
まるで今の自分の事を言われているようで、なんだか嬉しかった。
「なんだ? 随分と上から目線な言い方だなぁ」
「もう、そんなつもりじゃないってば……」
勘違いされている気がして、私は慌てて弁解した。信号で止まって見たルームミラーに映る自分の顔は、嬉しくて仕方なさそうな笑顔だった。、廣樹は窓から見える似通った臨海工業地帯の風景と助手席の快適な環境に飽きてしまったようで、先程からHDDに録音された音楽を検索したり、ナビを弄ったりしていた。私に売ってしまい車内で煙草を吸うわけにはいかない為、暇で仕方ないのだろう。そんな助手席で借りてきた猫みたいに大人しくなった廣樹に、ある提案をしてみることにした。
「廣樹さ、助手席に飽きたんでしょ? そろそろ運転を交代してあげよっか?」
私をチラ見すると急に私の頭を撫でてきた。
「諒は優しいな。気づいてくれてありがとう。……実はかなり飽きていた」
何だろう……この気持ち? 普通に頭を撫でられるだけでこんなに嬉しいんだ……もっと廣樹に褒められたいな。私はそんな事を思っていると、廣樹は不意に助手席から手を伸ばし、私の髪を再び優しく撫でてきた。
「なんか、頭を撫でたら気持ち良さそうだったから、もっと撫でてみた」
笑顔でそんな事を言う廣樹を見て、暖かい気持ちになった私は微笑み返した。
しばらく走り、駐車場が広めのコンビニにアリストを停めた。廣樹は車から降りるなりズボンのポケットから煙草を取り出すと、箱でトントンしてから火をつけ、深々と吸い込んだ。そして吐き出した紫煙が宙に舞い消えていった。煙草を吸うと肺のすみずみにまでニコチンが浸透し、ストレスというモノを忘れる。煙草は合法覚醒剤とさえ言える程の中毒性がある。そのせいか、香りを嗅ぐと無性に吸いたくなる。
「廣樹、私にも一本くれない?」
私はいつものように廣樹の煙草を何気なくせがんだ。差し出された煙草と愛用するZIPPOライターを受け取った。箱から一本取り出し、火をつけて同じように紫煙を空に向けて吹き付けた。
子供っぽいと馬鹿にされるかもしれないが、廣樹の煙草を共有してる事がなんだか嬉しくて、ついつい貰い煙草をしてしまう。だから、それが廣樹の煙草でないならば迷わず自分の煙草を吸うだろう。煙草を吸う為に、手を広げると前髪を搔き上げた。廣樹は煙草を吸う私を見て急に話しかけてきた。
「あのさ、ほんと……本当に……今更なんだけど……諒って美人だな」
「ゲホっゲホっ! 何を言いだすのよ! きゅ、急に揶揄わないでよ! もうっ!」
私は予想せぬ言葉に驚き、思いっきり煙を吸い込み咳き込んでしまった。
「いや、別に揶揄っちゃいないよ。諒が煙草を吸う時に前髪を搔き上げた横顔を見ていたら……綺麗だなって思っただけ。男が女性のチラリズムに魅了される、そういう類の美しさ? なんか、上手く言えないけど……都会の涼しい女性って感じかな?」
少し照れながら顔を逸らして廣樹を見た。廣樹は自分でもよくわからないって顔をしていた。
「何それ? 美人に都会も田舎も無いでしょ?」
私はこんな事を言って誤魔化したが、廣樹に美人と言われた事が凄く嬉しかった。
「なんて言うか、クールビューティーって感じ……かな?」
廣樹は上手い言葉が見つからないみたいだった。
「冷めた美人って事? それって愛人みたいな魔性の女の表現じゃん!」
褒められているのに、何処か不満に思えた。
「でもさ、フェロモンの偏差値が高いとかって言われるよりはマシだろ? その切れ長なツリ目も、気が強そうな顔も、俺は好きだぜ。まぁ……一つだけ言わせてくれるなら、長い髪のポニーテールだったら俺的にはもっと良いけどさ」
廣樹は少し照れながら、自分の好みを教えてくれた。
「へぇ、廣樹って長い髪が好きなんだ。ロングのポニーテール? 私がそんな髪型だったのって小学生の時くらいかな? ……あー! うん、わかった!」
廣樹の出会った幼い頃の私は、確かに長いポニーテールだった。ひょっとしたら、ただの思い込みかもしれないが、廣樹の好みの基準があの頃の自分かもしれないという事。それは私にとっては何よりも嬉しく思えた。
「……そっか。また伸ばすから待っていてね」
私は廣樹の何気ない一言で、次の髪型を決まり、再び髪を伸ばすことを心に決めた。
廣樹は自分の髪を引っ張るように撫でる諒を見ていた。ふと、昔付き合ってしばらくした頃、彼女だった京子にロングヘアを辞めようかと相談された事を思い出し心の中で呟いた。
「そう言えば、あの時に頼むから切らないでくれと懇願したっけ。男にはわからないだろうが、長い髪は乾かすのも手入れも大変なんだから。そんな事をチクチク言われたことがあったな」
そう思うと廣樹はなんだか無性に罪悪感が増してきた。
「……いやいや、別に俺の為に伸ばさなくても良いよ。やっぱり、髪が長いとさ、手入れとか色々な意味で大変なんだろ?」
廣樹は自分の言いたい事を言って、私の答えを聞く前に話題を変えてきた。
「さてと、そろそろ轟木のオッサンの所に行くか」
私は自分が消した煙草を見て、翔馬さんに頼まれた煙草の件を思い出した。
「あ、そうだタバコ! パパに頼まれた煙草を買っていかないと」
私はまるで話を遮るように、車内の鞄から財布だけを取り出すと慌てて店内に向かい走り出した。
廣樹と運転を変わり、轟木モータースに辿り着いたのは、街中がゆったりとした感じで、住宅街は人も疎らな午後四時近くのことだった。廣樹は振り向きもせずに三つのミラーだけを使い、手慣れた仕草でステアリングを操り来客スペースに車を停めた。シートベルトを外しエンジンを切ると、電動ステアリングが始動時とは逆に上に向いて収縮した。私達はアリストのずっしりとしたドアを開けると、翔馬さんがいるであろう事務所へと向かい歩き出した。
「今日は……公園には行けそうに無いな」廣樹が私の横を歩きながら申し訳なさそう謝った。
「ごめんな、俺があんな輩に絡んだせいで、雅春まで来てズルズル過ごしちゃってさ。せっかく誘ったのに丸一日を不意にしちゃったな」
「ううん、別に気にしないで良いよ」
私にとってそれは、次に廣樹と会う口実になる。だから、一日くらい不意にしたって別に構わないので、廣樹が気にしないように気持ちを伝えることにした。
「……廣樹が構わないなら、これから夜の公園に向かったって良いし、また後日に改めて行ったって私は構わないよ」
「そっか、ありがとうな」
事務所に着き手を伸ばすと、アルミ製の引き戸が金属音を立てて開いた。
「パパ! 煙草を買ってきたよ」
「おう、思ったより時間かかったな。……危うくヤニ切れで悶絶するところだったよ」
冗談を言いながら翔馬さんは私から煙草を受け取ると、手慣れた仕草で開封し、すぐに火をつけた。煙草の独特な香りが充満していった。「男は黙ってセブンスター」それは私達が二十歳の頃によく雑誌やタバコ屋で見た広告のキャッチコピーだ。当時はオヤジ臭いと思っていたが、今は目の前でセブンスターを吸う男臭い翔馬さんは、私から見てもカッコ良く見える。きっと廣樹も同じ事を思っているだろう。翔馬さんがまるで広告の俳優さんみたいだなと思ったらつい笑ってしまった。
「翔馬さん、ところで俺のスープラはどんな感じ?」
「ま、部品交換は殆ど済んだから、後はアライメントと軽い調整だけだな。そうだ、純正のアンダーパネルを俺の不注意で割っちまったんだよ。知り合いに特注のカーボン製のアンダーパネル作らせているからよ……それで許してくれよ。まだリフトに載ってるから気になるなら見て来いよ」
「マジで! ちょ、ちょっと見て来るよ」
そういうと廣樹は足早にピットスペースに向かって走り出した。さっきから翔馬は、私を見ては小声で何かブツブツ独り言を呟いていたが、廣樹が事務所から消えるとおもむろに口を開き話しかけてきた。
「こんな事を俺が言うのも変だけどよ……諒、なんか急に艶っぽくなってねーか? 元々美人だったけど……なんていうか、一皮剥けたっていうか、色気が増したっていうか……」
私はチラリと翔馬さんを見た後、気分を落ち着かせる為、廣樹がテーブルに置いたままにした煙草の箱に手を伸ばした。トントンして一本取り出し、無造作に置かれたマッチで火をつけるとタバコを薄い唇の間に咥えて深くゆっくりと吸った。メンソールの刺激を感じるとゆっくりと吐き出し灰皿にそっと置いた。置かれた煙草のフィルターには、薄く口紅がついてなんだか妖艶な雰囲気を放っていた。
「あのね……実は……廣樹と寝ちゃったんだ……よね?」
少し照れた様子でチラリと翔馬さんを見て話す私は、声がいつもより小さかったかもしれない。煙草を咥えたままでウンウンと聞いていた翔馬だが、意味を理解すると煙を勢いよく吸ってしまい話せないほどに激しく咳き込んだ。
「ちょっと大丈夫? パパ? そんなに驚かなくても良いじゃない!」
心配になった私は、そう言って翔馬の背中を優しく摩った。
「お前……いきなり廣樹とヤっちまったってよ。だって、昨日の今日だろ? 今までオートマのクリーピングみたいな速度で進んでいた二人が、どうやったらスクランブルブーストかけたみたいに一気にそんな関係になるんだよ?」
「パパだって、廣樹と私が結婚して子供でも生んでくれたらとか言ってたじゃん!」私は頬を膨らまし顔を反らしながら翔馬さんにいった。
「まさか……俺の為に廣樹と?」
私の予期せぬ発言に翔馬が驚いた表情になった。
「いや、それは全く関係ないけど……パパがそんなこと言っていたなぁと思ってお腹を擦ったら……廣樹が焦って妊娠したのかと言った事を思い出したから……つい」
「そうか……俺は関係無いのか」
翔馬さんは少し肩を落としたように感じた。
「でも、廣樹と諒が付き合うのはすごく嬉しいな!」
そう話した翔馬さんは、まるで行き遅れの娘が結婚するという話をきいたみたいにとても嬉しそうだった。丁度、そんな時に廣樹がタイミングよくピットから戻ってきた。
「どうしたの二人とも? なんかあったの?」
このなんとも言えない雰囲気に違和感を感じたのか、私達を交互に見ながら廣樹は訊いてきた。
「翔馬さん、本当にカーボンのアンダーパネルなんて高価な物を作ってもらって良いの? なんかさ、あれくらいなら補修でなんとか出来そうだけど……」
「廣樹、気にするな。それよりも諒の事をよろしく頼むな!」ニヤけた翔馬は廣樹の尻を勢いよく数回程叩きながらいった。
「はいっ? 言ってる意味が全く解らないんだけど……」
いきなり話を振られた廣樹は困惑しているようだ。
「……ごめんね、昨日の廣樹とのコト……ついパパに話しちゃったみたいな?」
私は両手を合わせながら片目を瞑って廣樹に謝った。でも、本当は廣樹への気持ちが抑えきれなくなってつい話してしまったのだ。
「……マジ……ですか?」
廣樹は視線を一瞬落とすと、言葉にならない表情で私を見つめた後で頭を掻いた。
「諒さ……お前、いつからそんな策士になったんだ? オッサンを味方につけるなんて、将を射んと欲すれば先ず馬を射よかよ」
廣樹の表情はまるで、女の手中にいるようで情けない。今まで自分の思うように生きてきたのに、知らぬ間に決められたレールに乗ってしまったという感じだった。
「廣樹、いっそ私達……付き合っちゃおうか?」
私は勢いで笑いながら廣樹に言ってみた。
「……私は……全然構わないんだけどな」
急に恥ずかしくなり、独り言のように声が小さくなる。
「……また言った。軽い気持ちでそんな事を言うなよな? 俺らはもうそこ等の学生みたいな年齢じゃないんだぞ?」
先程と同じく、廣樹は半分呆れた表情で答えた。
「いやいや、お前達はまだまだ若いぞ。確かに結婚しても良い年齢だが、まだまだ恋愛を楽しんでも良い歳なんだぞ?」
急に私達の会話に翔馬さんが混ざってきた。翔馬さんからすれば私達はまだ若い、そして自分が感じた後悔の気持ちもあったのかもしれない。その言葉と声に、私達……少なくとも私は納得するのに充分すぎる説得力を感じた。気まずい空気に包まれた私達は、この雰囲気と己の言動に後悔を感じしばらく黙っていた。
アリストの整備を頼む事を思い出した私は口を開き、この状況を打破する行動に出た。
「あ、そうだった! パパ、そこに停めてあるアリストの全油脂交換とアライメント、それに慣らし運転に一通りの整備をお願いしても良い?」
「おう、任せておけ明後日くらいまでには済ませておいてやるよ。ただ、慣らし運転は俺も忙しいから試乗がてらに二人で行ってこい! わかったな廣樹」
恋愛に不慣れな翔馬なりに、私達に気を利かせたつもりなのは安易に想像できた。
「えー! 二人で行くの? ホントにぃ?」
私はもちろん乗り気なので廣樹の様子を伺ってみた。慣らし運転かぁ。まぁ、ざっと三百キロってとこかな? 私がそんな事を考えていると廣樹も口を開いた。
「うん、良いよ。明後日以降に予定入れておくよ」
「あー! 言ったなぁ! 今更、撤回とか認めないからね?」
私は嬉しくて思わず廣樹に釘を刺した。
「しない、しない。丁度良いし、佐野か御殿場のアウトレットにでもいこうぜ?」
廣樹は行先にアウトレットを提案した。
「アウトレット? 廣樹もアウトレットに行ったりするんだね? なんか、意外だなぁ。廣樹って高くても近場で買い物済ませるタイプだと思ってた」
私は廣樹の意外な一面に少し驚いたが、新たな一面を知れたようで少し嬉しかった。
「ところで翔馬さん、お願いがあるんだけどさ。俺達、帰りの足が無いから代車を一台貸してくれないかな? あ、久しぶりにR32乗りたいな」
廣樹はアリストを私に売ってしまったので、翔馬から適当な代車を借りるつもりなのだろう。
「R32だと? あれはお前が俺に譲った時から、この世で俺以外は運転不可なんだよ」
BNR32スカイラインGT-R、1989年発売当時、サーキットのレースではフェラーリやポルシェさえも跪き、世界最強を誇った車だ。車好きなら誰もが口を揃えて言う、あれこそ日産自動車の最高傑作車だと。話しに出たR32は廣樹の元愛車で、今は翔馬さんがオーナーのいわくつきの妖車だ。二人ともいつも口を濁して詳しくは話してくれないが、理由があり手放さなければならなかったが、廣樹には深い思い入れがあり、知らない人間には売りたくないし、だからと言って廃車にする事も出来ず、廣樹が困っていたところを翔馬さんが引き取ったのだ。
私もワガママを言って、たった一度だけだが少し運転させてもらったことがあったが、危険だと本能で感じた。あの車には何故かどこまでも踏んで走りたくなる危険な魅力があった。私が湾岸線で踏み込んで全開走行してからは、翔馬さんは誰にも貸さなくなったし、二度と乗せてはもらえなくなった。
翔馬さんが少し曇った顔と声でゆっくりと重い口を開いた。
「……実は……その……代車なんだがよ」
翔馬さんはポケットから煙草を出し、ゆっくりと火をつけると深く吸い込んだ。
「ん? 代車なんだが?」
聞き返した私は、なんとなくだがとても嫌な胸騒ぎがした。
「実は……軽トラしか……無いんだよ」
とても申しわけ無さそうに翔馬さんが口を開いた。それを聞いた私達は二人して、そんなオチかと笑いながら心から安堵した。
「なーんだ。別に軽トラで良いよ。どうせ家まで帰るだけだしさ」
廣樹は過去の経験から、どこに停めれば良いと言いたくなるような幌が壊れてついていないオープンカーとか、エアコンが壊れて温度調整が効かない車みたいな、もっと酷い車を想像していたので、それを聞いて安堵したと言った。特に代車のコンパクトカーは酷かったらしい。この業界では有名なK12マーチのオートエアコンの持病症状、部品代は二千円程度なのに、ダッシュボード全バラシでディーラー工賃が五万円程度かかる。夏に壊れたら冷蔵庫、冬に壊れたらサウナ、つまり温度調整が一切出来なくなるのだ。だから、後期型のマーチはマニュアルエアコンが圧倒的に多い。ようはメーカーの上手い欠陥隠しという訳だ。ちなみに、廣樹は真夏に暖房しか効かないマーチで、汗だくになりながら真昼の都内を抜けて他県の友人宅まで向かい、体重が一日で減ったと言っていた。
「あれ? パパ、軽トラってさ、何日か前に見たけど……何か積んでなかったっけ?」
私は思い出したように話に混ざった。数日前、廃棄する壊れたオーディオを店裏に置かれたパレットに置きに行った時に確かに何かが置かれた軽トラを見た覚えがあった。
「あぁ、確かに積んである。積んでるのは廃タイヤだから降ろせば良いんだが……あの軽トラは乗れば解るんだが訳ありでよ。なんだかエンジンが駄目みたいで、速度が四十キロくらいしか出ないんだわ」
煙草を深く吸った翔馬さんは、何とも言えぬ表情で私達二人を交互に見た。超が付く車好きな翔馬さんですら匙を投げた軽トラに、廣樹は少し興味を持ったみたいで目が輝いていた。翔馬に限っては、匙を投げたと言うよりは……興味が無いからわざわざ直さないが正しいかもしれない。
「それで良いよ。別に速度が出ないならゆっくり帰れば良いだけだし、俺にはアッシーしてくれる諒がいるから、明日からは何とかなるしさ」
廣樹はそう話しながら、まるで同意を求めるように私の方を見た。
「う、うん」
私は不意の廣樹からの言葉にどもってしまった。
「確かに約束したし、スープラの修理が済むまでは、責任もって運転手してあげるね」
一度、じっくりと廣樹の行動を見てみたいと思っていたので、私はこの提案を快諾した。
「翔馬さん、ところで軽トラの鍵は?」
「あ、ああ。シリンダーに刺したままにしてある」
「ふーん。じゃあ、取り合えずはタイヤを降ろしてくるわ」
廣樹はそう口にすると、軽トラに向かい軽快に歩き出した。
「ねぇパパ、廣樹……大丈夫かな?」
廣樹の背中を見た時に、言葉で言い表せない不安を感じて思わず訊いた。
「別に、普段からマニュアル乗ってるし、廣樹ならタコメーターなんか無くても平気だろ?」
翔馬は答えてくれたが、私が言いたいのはそっちの大丈夫かという話じゃない。
「あの軽トラってさ、お爺ちゃんとかが……大事に乗ってた系じゃない?」
私は変な胸騒ぎから、思っていたことを続けて訊いた。
「ああ、そうだ。免許返納するまで知り合いの近所に住む爺さんが使ってた軽トラだ。なんだ、その爺さんはおまえの知り合いか? よくナンバーまで見てたな?」
翔馬は自分が話していないのに、私が元オーナーが老人と言ったので、きっと元オーナーと知り合いか何かだと思ったのだろう。
「はい? 知り合いの訳ないじゃん!」
私は首を振って否定した。
「廣樹ってさ、車を大事にするし、車から愛されるタイプじゃない?」翔馬さんを見ながら呟いた。
「……だから、バカみたいな話だけれど……車のもっと走りたいって声が聞こえたんじゃないかなぁって思っただけ」
私の話を聞いた翔馬さんは鼻で笑っていた。
「……パパからしたら……馬鹿な話と思うかもしれないけどさ、なんだか……心配になったから」
私は翔馬さんにそう伝えると、胸騒ぎがして廣樹の元へ向かい走り出した。
「……俗に言う、車に愛されるヤツってことか」
翔馬は煙草を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「確かに廣樹はそのタイプだしなぁ……車が廣樹を呼んだってことか。でも、あの廣樹を射止めるのは軽トラじゃ無理だろ」
軽く笑うと煙草を水の入ったバケツに投げ捨てた。
「……だが、確かに意思を持ってるみたいに思える車は……アイツみたいなに存在するからな」
再び煙草に火を点けると軽く吸い込み、事務所のガラス越しから敷地の隅にあるシャッターに閉ざされたガレージを見て微笑んだ。ガレージの中にある車こそ、廣樹が乗っていたR32だった。
翔馬が初めて廣樹と出会ったのは、廣樹がまだ大学生の頃だった。店で客の車を整備していると、一人の少年が話かけてきた。それが廣樹だった。聞くと、ヘッドライトのバルブが切れたので売って欲しいとの事だった。初めて見た時、若いクセに生意気な車に乗ってるヤツだと思ったが、それから廣樹が整備を頼みに来る毎に親しくなり、その内に遊びに来るようになり、気づくと息子のように思っていた。そんな廣樹が「翔馬さん、俺のR32買わない? ちょっとさ、どうしても実家に帰らないといけない理由が出来て仙台に戻るんだけど……少しでも多く金が必要でさ。翔馬さんなら安心して譲れるし……どう?」その一言で翔馬は買う事を決め、四百万円で廣樹から買った。実走行で5万キロ弱、新車装着のニスモ製フルスケールメーター、サブメーターセットにBNR34のフロントシート、トラストの6速ミッション、フロントパイプから交換のチタンマフラーなど今では金を積んでも欲しがるモノが沢山使われていた。廣樹の購入当時は三百万だが、最終型のVスペックなど今ではいくらするかも解らない。前期モデルのサイドドアビームが装着されていない軽量ドア、F40ブレーキキットやCP-035RのGT-Rサイズなど、某オークションに出せば、パーツだけでも入札が止まらないだろう。そして横に置かれた未使用のN1エンジン。これは廣樹が当時ストックしていたモノだが、廣樹から車を譲り受けることが決まった時に、翔馬ならコレもと言われて、知り合いの嫌がる業者を引っ叩いてその当日に回収に行った。翔馬は廣樹からR32を買ってからは天気の良い平日の深夜は首都高に毎週のようにドライブに行っている。そして帰りにいつも独り言のように呟く。
「こんなにも魅惑的なお前は俺を選んでくれたのか? それとも廣樹を助けたのか? いったいどっちなんだ? そろそろ答えを聴かせてくれよ?」
そしてエンジン音を聴きながらこう言う。
「そうか、そうか。……そんな野暮な事、まだ言いたくないか」
そんな事を言いながら帰路につくのだ。純白のボディにネオンを映しながら、R32と翔馬は夜の闇に消えていく。
それから数年経った頃、廣樹はいきなり今の愛車であるスープラに乗って翔馬の前に戻ってきたのだ。翔馬はそんな事を思い出して再び鼻で笑った。
軽自動車特有の軽いエンジン音が聴こえて外を見ると、廣樹がエンジンをかけたままの軽トラから降りて事務所に入ってきた。
「じゃあ、翔馬さん。確かに借りて行くね。……もし、ぶっ壊れた時は……壊れてない状態の解体の値段で俺が買うから安心して」そう翔馬に伝えると廣樹は店を後にした。
翔馬は事務所の椅子に腰かけると独り言を呟いた。
「廣樹を見ていると本当に車と会話できるヤツなんじゃないかと思う時があるよ」
自分が好きな車を題材にしました。自分の小説は基本同じ時間軸の同じ登場人物になります。