序章:あの日、あの時、あの場所で
ブローカー、それは不特定多数の車を買い付け、金銭に換えることを生業にする者の呼称。私みたいな女さえも車を愛する者ならば、生涯に一度は憧れる職業。
幼い頃、友達の少ない私は、いつも一人で公園に来ては道路を走る車ばかり見ていた。
よく見かける少年は沢山の友達と公園に来ていた。楽しそうで羨ましかったが、少年たちに声をかける勇気が当時の私には無かった。
そんな日々が続いたある日、珍しく一人でブランコで遊ぶ少年と目が合った。
少年は走り寄ると私に手を差し出して言った。「ねぇ? 一緒に遊ぼうよ」
それから母親が公園に迎えに訪れるまでの間、私と少年は沢山の車の話をして楽しく遊んだ。
母が迎えが来る少し前に公園横に一台の白いスポーツカーが停まった。
「……格好良いね。私も……いつかあんな車に乗ってみたいな。私ね、パパや周りの人は無理だって言うけどいつか……色々な車を売る人になりたいの」
普段は馬鹿にされてばかりで、人には決して言わない自分の夢だったが、その少年には普通に言えた。きっと少年には聞いて欲しかったんだと思う。
「どうして? 無理なの? 乗れるよ。きっと!」少年は不思議そうな顔で私に訊いてきた。
「きっと無理だよ。だって左にハンドルがある車は凄い高いんだよ? パパが言ってたもん」
少年の言葉は嬉しかった。だが、現実も少年に伝えたかった。子供でも女は男と違ってどこか現実的な思考をしている。
「車を買うには沢山のお金がいるんだって。だから、みんな人生で沢山の車には乗れないんだって」
少年は俯くと拳を握っていた。次の瞬間、私の肩を掴み私の目を見ていった。
「じゃあ、俺が買って絶対にオマエを乗せてやる! だから、夢はずっと諦めるなよ! 人に無理と言われた時は言えよ。俺が大丈夫って何度でも言ってやるから! いつまでも応援してやるからさ! 車って夢を与えてくれて、夢は叶えるものだろう? だから、俺も車が大好きなんだ」
あの時、その一声に勇気を出して「うんっ!」と言って良かったと思う。なぜなら、私が急に引っ越して二度と少年とは会えなくなったのだから。
「車って夢を与えてくれて、夢は叶えるものだろう? だから、俺も車が大好きなんだ」
私は少年のこの一言に人生でどれだけの回数を救われた事だろう? 「信じれば夢は叶う」何度そう思って頑張れたことだろう?
――都会の雑踏を忘れられる程、夜空に浮かぶ月が綺麗で肌に触れて感じる風は心地良かった。月が妖艶な雰囲気で輝き、雲が夜という名の海原をまるで客船のようにゆっくりと流れ、まるで灯台のように輝く月に向かい漂っていた。
私は借りている月極駐車場に向かっていたが、ふと立ち止まり、再び夜空に輝く月を見上げた。
「……あの日の少年も……何処かで、この月を見ているの……かな」
ふと、忘れかけた少年の顔と声を思い出す。
「……もし、もう一度……あの少年に出会えたら……今も……私の人生は変わるのかな?」
私は気づくと幼き頃から変わらぬまま車が好きな大人になっていた。あの頃に思い描いていた大人とは、程遠い人生を歩んでいる今の自分がいる。あの頃の私が見たら……そう考えると自然とため息が零れた。
夜の首都高を走ると日常から解放され、非日常が堪能できる。だが、今夜だけはある目的があり、いつもとは違う理由で首都高へと向かわなければならない。
運転席に座った私は、ゆっくりと深呼吸をした。イグニッションを回し、左足を踏み込みながら相棒のギアをリバースに入れ、借りている駐車場を後にする。相棒とはS15シルビア、日産が作ったライトウエイトスポーツ最後の2リッターFRだ。少ない稼ぎの大半を、今どき車に注ぎ込む時代錯誤な馬鹿女が私だ。毎晩のように、アパート前の車一台がやっと通れる狭い道を抜けては、首都高に通い、走っては弄りを繰り返して自分仕様に改造したシルビア。
昨日までの私は、いつまでもそんな関係が続けば良い……そして、当たり前に続くものだと思っていた。だが、そんな日々に終わりを告げられたのは今朝のたった一本の電話だった。
そして、今は金融車として買った愛車のシルビアと別れる為に首都高辰巳PAへと向かっている。自分が選択した方法が、どう弁解しても許されない行為だという事、それは充分な程に理解しているつもりだ。シルビアが金融車である限り、そう長くは付き合えない事、付き合えても車検証の有効期限までという事、それを頭の中では理解したつもりでいた。車検証に記載された使用者は、所有者から車輌引き上げの督促連絡が来た場合は、車をキッパリと諦めるという条件を付けてきた。その代わりに、現在の市場相場からすれば破格といえるたった十万円で人気車のシルビアを譲ってくれた。そんな美味しい取引の間に入った闇ブローカーは知り合いに紹介された企業舎弟だった。闇ブローカーには二種類いる。売ったらそのままの売り捨てる人間と、リピーターを得る為、車検の期間は保証する人間。残念なことに私を仲介した闇ブローカーは前者の人間だった。その為、運が悪ければすぐに引き上げになる。それでも私は今までの期間乗れたのだから運が良かった方だと思う。シルビアを手に入れた私は、それから毎日のように洗車をし、まるで撫でるように大事に乗った。そんな愛車だけに別れが辛い事は想像はしていた。
別れは突然に来るという言葉のとおり、前触れもなく書類上の使用者から連絡が来た。「所有者のローン会社から盗難届を出される前に港に乗り捨てるなり、金に換えるなりしてくれ」電話の先から聞こえた声は、私が予想していた以上に冷めたものだった。
金融車とは、一般的に金銭取引などの際に債務者から債権者へ違法な担保として提供された自動車の総称をいう。所有者が信販系で残債がある為、名義変更は誰かが残債を清算しない限り難しい。所有者から盗難届が出されたまま乗るような高いリスクを背負うならば乗り続ける事も可能だろう。だが、今の私には金銭的にも精神的にも無理な相談だ。
今夜の首都高は、まるでシルビアが私に最後の走りを楽しませてくれているようにさえ思えた。珍しく車は少く、閑散としていつになく走りやすかった。私は気の向くままに何周か環状線を流すように走ると、目的地と決めた辰巳PAへと沈んだ気持ちのままでゆっくりと向かった。アクセルを踏むとエンジンの咆哮だけが虚しく響いた。
しばらく首都高を周回してから辰巳PAに到着すると、シルビアを駐車場の白線に沿って丁寧に停めた。それからしばらくの間、車内で感傷に浸っていたが、離れた喫煙所で煙草でも吸い、このなんとも言えぬこの気持ちを落ち着かせようと思った。
助手席に無造作に置かれたバッグは、少し前に流行ったデザインで使い込まれ擦れた中古品。同世代の女性がファッションや交際費に使うであろう金。それを車につぎ込んだ自分にはこの中古のバッグがお似合いだ。私はバッグから煙草と使い込まれた長財布を取り出すと、車から降り自動販売機へと向いゆっくりと歩き出した。歩き出して直ぐに車内に携帯電話を忘れたことに気づき、車へと足早に戻った。
慌ててキーレスでドアを解錠し、小物入れと化した灰皿横のドリンクホルダーに置かれたスマートフォンに手を伸ばすと、何かの着信を知らせるランプが一定の間隔で点滅をしていた。手に取ったスマートフォンの画面を人差し指でフリックし、起動すると未読メールのアイコンが表示されていた。「なんだろう?」と私は思いながらも、未読のメールのアイコンを軽くタッチした。開いたメールは、不定期に勝手に送信され、今となっては気にもしないメールマガジンの占いだった。少しでも良い事が書いてあれば、この沈んだ気が紛れるかと思い、一応メールの内容を確認することに決めた。
「今日の運命――とても相性の良い異性が現れる予感」
そう画面に表示されていた。私は続きに目を通した。
「――しばらくは友達づきあいから始めると良さそうです」
「――貴方に素晴らしい出会いがありますように」
……思わず、大きなタメ息をついた。
「同性とすらも上手く付き合えない不器用な私……そんな私と相性が良い異性? ……何処にそんな異性がいるというのだ? もしも、本当にそんな男がいるというならば是非会ってみたい」
再び深いタメ息をついた。それがメールを読み終えた私の素直な感想だった。
沈んだ気持ちのまま自販機に向かいゆっくりと歩き出すと、視界の先に一台の80型のスープラが駐車場の白線に沿って綺麗に駐車していた。シルビアと同じ日産が誇るフラグシップスポーツカーで、当時は世界最強と呼ばれた第二世代の32から34までスカイラインGT―R、そして打倒GT-Rを掲げ世界最大の自動車メーカートヨタが作ったフラグシップスポーツカーがこの80スープラだ。銀灰色にマッチした流線形ボディー、グラマラスなリアフェンダーはいつ見てもカッコイイ。スープラは名前こそ有名だが、車好きな私でさえも乗ったことはもちろん、ゆっくりと見たことさえ無かった。バブル崩壊後の平成五年に発売された高額スポーツカーということもあり全く売れなかった。もしかしたら、クラウンなど高級セダンのイメージが強いトヨタが作ったということも関係したかもしれない。首都圏に限るならこの車に出会うよりフェラーリに遭遇する確率の方が圧倒的に高いことだろう。
私はさり気なく周囲を見回したが、スープラの所有者らしき人物はいない。パーキングには自分の他にも数人の如何にも車が好きそうな若者がいるが、皆エンジンをかけた自分の愛車の近くに居る為、どの車が誰の愛車なのか容易に想像することが出来た。
自分を正当化するように小声で呟いた。「……ちょっと見るくらいなら……別に……構わない……よね?」
私はそんな軽い気持ちで、なるべく怪しまれないよう少しだけ見るつもりだった。しかし、無意識の内に車好きの血が騒いでしまい、気づくと私は周囲も気にせずマジマジとスープラに魅入っていた。このスープラには、まるで妖気を帯びたように私を惹きつける不思議な魅力があった。
一人の青年が車に魅入ってしまっていた私に、何の前触れもなく、とても軽やかな口調で声をかけてきた。
「お姉さん、俺のクルマがどうかした?」
予期せぬ突然の言葉に驚き、私は思わず声の聞こえた方角に振り向いた。声の主は時計や靴など、誰が見てもわかる少し良いモノを身に着けていたが、決していやらしくはないくらいに自然だった。そして少しだけギラついた鋭い目をしていた。だが、私の好みの顔立ちだったせいか、決して印象は悪く感じなかった。年齢は見たところ、私と同じか大差ないほど上だろう。私とは違い人生を謳歌している感じが滲み出ていた。
「ごめんなさい。……あんまり近くで見ること無いクルマだったから……つい……」
私は言葉につまりながら持ち主の青年に謝罪した。驚きを隠せない私は、内心とは裏腹に出来る限りの平静を装ってみせた。
「――そっか、まぁ……確かにコイツはあんまり売れた類の車では無いからな」
彼は自分の愛車を見ると、スープラの特徴でもあるリアフェンダーを撫でながら言った。外見から彼を判断してしまった私の予想を裏切り、彼は普通の対応をしてきた。その言葉を聞いて、人を見た目で判断してはいけないと少しだけ反省した。
――もし、彼がもし自分が嫌う輩タイプの人間だったなら、きっと、女の私にくだらない難癖をつけてきたことだろう。
彼はその直後に無糖と微糖の缶入りの珈琲をいきなり私の前に両手で差し出し訊いてきた。
「で、お姉さんが飲むなら……どっちの珈琲が良い? 運良くそこ自販機で当たったんだけどさ……よく考えたら、流石に続けて二本も飲めないからさ。ちょうど良かったよ」
私に話しかける彼の口調は柔らかだった。彼の予期せぬ提案に少し驚いたが、この好意を素直に受けることに決めた。
「じゃあ……無糖をちょうだい」
私は笑顔で答え、手を伸ばし彼から無糖の珈琲を受け取った。女とは悲しい生き物で、こんな時にまでカロリーというモノをを気にしてしまう。
――それは女の悲しい性だ。
「まさか……新手のナンパじゃないわよね?」
私は思わず彼に訊いた。これはナンパでは? そんなくだらない事をつい考えてしまう。
次の瞬間、私の台詞が彼には余程面白かったらしく、大きな声でケラケラと笑いだした。
「アハハハ、なかなか面白い事を言うよね? もし、ナンパする目的ならPAは無いでしょ? だってさ、PAって車かバイクでしか来れない場所だよ? ……ナンパするなんて……聞いた事もないって」
彼のその言葉と表情から自分の素性を話しても問題の無い相手だと直感し、自分から自己紹介することに決めた。
「……アハハ、確かにそうだよね」
言われてみれば確かにそうだ。高速道路のPAは徒歩や電車では来れる場所ではない。
「珈琲ありがとう、私の名前は芹沢諒。……で、あなたの名前は?」
クスりと笑った後、彼の顔を見ながら名前を訊ねた。
「俺? 俺の名前は仲村廣樹。トイレから出たらさ、余りにも輝いた目で俺の車を見てるんだもん。仕方ない珈琲でも飲んで待つか、と思ってさ。そこの自販機で珈琲を買ったら運良く当たったんだ。だから、思い切って声をかけたんだよね。芹沢さん、そんなに車が好きなの?」
彼も車好きみたいで嬉しそうな表情で私に訊いてきた。
「いや、スープラみたいな車に乗っているのだから……車好きに決まってる」
私はそう勝手に決めつけた。彼の声は何処か懐かしい感じがした。自然と私の人生を根底から変えた、幼い頃に公園で出会った少年の事、それに誰かに聞いたことがあるこんな言葉を思い出させた。「その時の出会いが、人生を根底から変えることがある」幼き頃に出会ったあの少年との出会いは、私にとって確かにそういう類の出会いだったと思う。
「……愛してる。私は……クルマを愛してるの」
私は無意識に口を開くとそう口にしていた。彼の懐かしささえ感じる声に釣られ、思わず本音を話してしまった。その直後、きっと馬鹿な奴だと思われたと心の底から後悔した。
その言葉を聞いた彼はまるで釘付けになった様に私の顔を真面目に見ていた。ふと、優しい笑顔になると私の前に手を差し出し、日本語っぽい英語でこう言ってきた。
「Nice to meet you」
私は彼の意外なリアクションにつられ、思わず握手をしてしまった。それと同時に彼が自分の事を笑わなかった理由を知りたい衝動に駆られた。今までも車好きな男には数えきれない程に出会ってきた。だが、ある程度親しくなり、私からこの台詞を聞いた男は必ず二者択一だった。馬鹿にして大笑いするか、可笑しなヤツだとドン引きするのか、そのどちらかの反応だけだっだ。そして、私は自分から去っていった。しかし、彼はそのどちらにも当てはまらない。私が人生で初めて会うタイプの人間だ。こんな自分を笑わない理由、それをどうしても訊きたかった。
「……仲村さんは……なんで……私の事を笑わないの? ……変な女とか思わない?」
すると彼は笑顔で即答した。
「だってさ、俺もクルマを心から愛してるから!」
私の予想を遥かに超えた台詞を言った彼、その無邪気な笑顔、澄んだ瞳はまるで少年だった。彼が持つモノはきっと私がいつの間にか何処かで無くしたモノだろう。彼が幼き頃に出会った少年と重なり、心が躍った。思わずその嬉しさから、顔が明るくなっている事が自分でも解った。まるで頭の中に「情熱大陸」のサビの部分が、流れ続けているようにハイテンションになる。こんなにも心が躍ったのは本当に本当に久しぶりだ。
「……ありがとう。今日、ここに来て良かった。そして、あなたに会えて本当に良かった。だから……ちゃんと……サヨナラ出来そうな気がする」
最後のサヨナラという台詞を言った直後、シルビアとはすぐ別れることになるという現実に引き戻された。先程まで躍っていた気持ちが、波が引くように冷めていくのがわかった。
「さ、さようなら? ……サヨナラってどういう意味だよ!」
彼は急に真剣な表情と口調になり、その理由を聞き返してきた。私の顔に「今から飛び込み自殺する」と書いてあるように見えたのかもしれない。
私は首をゆっくりと左右に振ると、おもむろに少し離れた白線内に停められた自分のシルビアを指差した。この街では見慣れない神戸ナンバー、鮮やかな綺麗な赤に全塗装された私の愛車。
シルビアに向かって先に歩く彼は、何度か私の方を振り返りながらゆっくりとシルビアに近づき、一通り車を見ると、何処か自信の無い口調で訊いてきた。
「これってさ、……やっぱりSpecR?」
私は首をゆっくりと左右に動かした。彼の答えが間違っていた事が何故か少しだけ嬉しかった。
「違う、オーテック。だから、タービン無しのNAでも6MT積んでるんだ」
私はワザと少し間を空けてから話を続けた。
「――綺麗でしょ? ……私ね、自分で言うのも変だけど、すごく大事に乗ってたんだよ。でも、今日でサヨナラなんだ。……今朝ね、車輛引き上げの督促が来たの……これは……俗に言う金融車だから……」
心に寂しさを覚えた私は、まるで暖をとるように、両手で持った缶入り珈琲を飲みながらその理由を説明した。こんな心情で飲む珈琲は、不思議といつもよりほろ苦味さだけが際立つ。
「今日も沢山走ったし……今から友達でも呼んでこのコはここに置いていくつもりなんだ。……誰か今夜走ってる知り合いがココに寄るだろうしさ」
切ない気持ちで押しつぶされそうな私は、元気もなく小さな声で彼に話した。
「……そっか……コイツ、金融車なんだ。勿体ないなぁ……綺麗な車なのに」
PAの照明に照らされたシルビアを見て、彼の口からもタメ息が零れた。その態度から金融車という意味を理解していることは間違いない。
「……でも、仕方ないよ。いつかは……こうなることがわかっていた訳だしさ……」
泣き出したい程切ない気持ちになり、言葉に詰まりながら彼にそう伝えた。
それを聞いた彼は、デニムのポケットから煙草を取り出し、使い込まれた純銀製のZIPPOでカチャンという心地良い金属音をさせ、数回擦り、火をつけると深く一服した。吸い終わった煙草を地面に擦りつけるように消した。その直後にまるで何か妙案を思いついたように私の顔を見ると、前触れもなく訊いてきた。
「――その督促ってさ、芹沢さん宛に直接来たの?」
私はその言葉に自分の耳を疑ったが、彼は確かにそう訊いてきた。普通の真面な人間ならこんな自分に関わったり、首を突っ込もうとはしないだろう。その為か、彼が私の不幸を楽しんでいるかもしれないとさえ思えてきた。いや、「彼はきっと違うはず」と自分に言い聞かせた。いや、正確にはそう思いたい、彼を信じたいというのが正しいのかもしれない。そのせいか、根拠も無く彼を信じても良いと思えた。
「……ううん、違うよ。もしも、所有者から車輛引き上げの督促が来たら……諦めるって条件付きであるブローカーの仲介で格安で買ったの。そして今朝、売主……つまり車検証上の使用者から「所有者から未納金が払えない場合は車を回収する旨の督促が来た」って連絡があったんだ」
こんな事を今日会ったばかりの彼に話すなんて、自分でも不思議だった。俯いたままとはいえ、詳しく理由までも説明してしまった。それにしても「芹沢さん」は、普段あまり聞き慣れていない為か、なんだか心がくすぐったい。
「……あのさ……その……芹沢さんって呼び方なんだけど、普段呼び慣れていないから……なんか変な感じだし、私の事は諒って呼んで。その代わり……私も仲村さんの事を……廣樹って呼ばせてくれないかな?」
彼にそんな事をせがんでみたが、今迄あまり異性と付き合った事が無い為か、なんだかぎこちない仕草になってしまった。
「わかった。次から廣樹で良いよ。次から俺も諒って呼ぶからさ。それにしても、諒ちゃんは車に優しいね?」
急に親し気に話しかけてきた廣樹は、再び煙草を咥えると、火をつけ夜空を見上げて紫煙を吐いた。
私も真似するように煙草に火をつけると、都会の明かりで星も見えない夜空を見上げた。そこには雲が消えた夜空に月だけが煌々と明るく輝いていた。
それから廣樹はしばらくの間、煙草を吸いながら考え事をするように黙っていたが、吸い終わった煙草を足で踏み消した直後、何かを思いついたように口を開いた。
「――よし決めた! 流石にいつまでも此処にいる訳にはいかないし、そのシルビアに乗って俺について来なよ」
そう言われて少し驚いた。ふと、周囲を見ると本気組だろうか、走り屋なら一目で解るほどのオーラを発した車達でパーキングは満車近くなっていた。自分でも不思議だったが、廣樹が提案したことの内容も理由も知らないまま承諾をしていた。
首都高を降りた私達は、二台で暫くネオンに照らされて明るい街道を走った。前を走るスープラのグラマラスなリアテールはいつまで見ても飽きない。そう思っていた事もあり、いつもなら嫌煙する少し渋滞した都会の雑踏さえも全く気にならなかった。スープラは減速するとハザードを数回点灯させてから、左にウインカーを出して見慣れない名前のコインパーキングへと吸い込まれていった。辰巳PAから此処までは、意外と長く思えたが、実際の時間にしたらきっと三十分くらいだったと思う。今の御時世では珍しい大手運営ではなく、有り触れた名前の個人経営の駐車場だった。路上と隔てるメッシュのフェンス、四方にある全体を照らす明るいLED照明、上書きタイプだろうか常時稼働の死角を埋める程の監視カメラ、イタズラや当て逃げとは無縁そうな高いセキュリティーの駐車場だ。車を停めてから看板を見て気づいたが駐車料金も相場より高い気がする、その為か、ここに駐車している車は高級車が多い気がする。
「――ねぇ、廣樹? ……まさか……ココに置いていくとか言わない……よね?」
車を駐車し降りた私は、思わず不安になりすぐに尋ねると、廣樹は煙草に火を灯し、大きく一服すると笑顔でこう答えた。
「うん、そうだけど……何か問題でもあった?」
「いやいやいや! 駄目だってっば! ここのオーナーに迷惑がかかるじゃん! それにカメラだってこれだけ沢山あるし、絶対バレるってば!」
私は思わず大声になり、まるで子供が考えるような事を平気な顔でサラッと口にした廣樹に、半分呆れてしまった。
「しかも、十五分で三百円だよ? それに注意書きの一日の上限金額は無しって……」
一日毎に二万八千八百円が加算されるなんて、私の金銭感覚では考えただけで眩暈がしそうだ。
「シルビアが見つかって取りに来るまでに、法外な金額になるじゃない!」
あまりの非常識さに再び声を荒げた。
「たぶん……大丈夫だって! 良いから俺に任せておけって、ここのオーナーはよく知ってるから……きっと上手くいくよ」
確かに廣樹は笑顔でそう話したが、今の私には心配という気持ち以外は何も残らなかった。
「ところで、諒ってどんな仕事してるの? やっぱり車関係?」
廣樹はまるで話題を変えるように違う話を振ってきた。
「……一応、ガソリンスタンドでバイトしてる」
私は俯きながらそう答えたが、この年齢で非正規社員という負い目からか、働いているのに何故か口があまり進まなかった。
「私さ、大した学歴も資格も無いし……営業が出来る訳でもないから、ディーラーとか華やかな車関係の仕事は採用されなかったんだ」
普段から感じている劣等感から、声も自然と小さくなった。結局、車関係の仕事以外はどれも長くは続かなかった。有り触れた職種で車とは無縁の会社に入ったが、全然続かなかったという嫌な過去までも鮮明に思い出してしまった。しかし、その後に車の話をしてると、自分でも分かる程の幸福感で笑顔になっていた。
「それにさ、車って――」
「へぇ、そうなんだ。やっぱり車は良いもんな」
しばらく車の話で盛り上がった後、廣樹はまるで何かを考えているような表情で口を開いた。
「とりあえず、時間も遅いし、諒を家の近くまで送るよ」
廣樹がスープラに向けてキーレスをかざすと、キュンキュンという電子音と同時に、ハザードが作動し左右のウインカーが二回点滅した。
「……近く? 家までは送ってくれないの?」
私は悟られないように精一杯に慣れない演技をした。本当はこの楽しい時間に終わりを告げたくなかった。明けない夜があるならば今夜にして欲しいと思える程に少しでも長く廣樹と一緒にいたかった。
「いや、だってほら? 家まで送るって事はさ……家の場所を知ってしまう訳だし、今の御時世はストーカーとか色々とあるし……」
廣樹の今までの態度からは信じられないが、頭を掻きながら少し照れ気味も話してきた。見た感じはクール、実は純粋というギャップが可愛く見えて、私は思わず声を出して笑ってしまった。こんなに素直に笑ったのは本当に久しぶりだった。
「ううん。そんなの全然、構わないよ!」
私はそう言って、無意識に廣樹の肩を数回ほど軽く叩いていた。本当に廣樹は不思議だ。今日、初めて会った筈なのに、まるで昔から知っている友達のように思える。
「だって、もう友達でしょ? それにさ、次に送ってもらう時も迎えに来てもらう時も楽じゃん! あ、そうだ! 携帯の番号教えてよ」
先程までの落ち込みが、まるで嘘みたいな笑顔になり、気づくと無邪気に話していた。
「アハハ……俺の考え過ぎか」
そんな私につられ、廣樹も笑顔になった。
廣樹がこんな私をちゃんと一人の女性として見てくれていると思うと、こんな有り触れた事が無性に嬉しかった。そんな事もあり、部屋に帰る車中、廣樹の運転するスープラの助手席で私はご機嫌だった。
「この車ってさ、アンチが多いから中々乗る機会が無かったんだよね? 助手席からだと時計が半分しか見えないんだね?」
運転する廣樹の方を見ながらいった。エアコンスイッチの上にあるデジタル時計は、十時二十二分を示しているが、ドライバー中心のクラスターパネルの為、私の座る助手席側からは二十二分の部分しか見えなかった。
「なんか……ちょっとエロいね?」
私は思った事を思わず口に出してしまった。その瞬間、廣樹がブレーキを踏み込みスープラは強めの減速をした。後ろの車がクラクションを鳴らし、廣樹は慌ててハザードを数回点灯させ後続車に謝罪し再び加速した。
「エ、エロい? なんで?」
廣樹はそう言うとこちらを見て訊いてきた。さっきから延々と話している私のクルマ話を、相槌を打ち頷きながら聞いてくれていたが、この言葉にはすぐに食いつき聞き返してきた。
「助手席ってさ、普通は女の指定席じゃん?」
私は少しもったいぶらせるように話すことにした。ウンウンと頷く廣樹を横目に、私はどうするか迷っていた。丁度その時、信号が黄色から赤に変わり、車を停めた廣樹はサイドブレーキを引き、タイミング良くギアをNに入れた。なので、この信号待ちで思い切って行動に移すことを決めた。
「だってさ、女が帰る時間を気にしても……」
そう言って笑顔で廣樹を見た。運転席の廣樹はその意味が理解出来ずに首を傾げた。
「――こうっ! しないと正確な時間が見えないじゃん!」
右手でシートベルトを引き伸ばし、廣樹の肩に思いっきり寄りかかった。
「ちょ、ちょっと待てって!」
廣樹は私を見ながら焦った口調でいった。思わず逃げるように運転席のドアに身体を寄せた。予想しなかった私の行動に戸惑った廣樹を見て、なんだか暖かい気持ちになった。廣樹に対して自分でも気づかない好意を抱いたのは……この瞬間だったのかもしれない。
「あー、廣樹ってば照れてるの?」
私は燥ぎながら揶揄った。信号待ちの車内で、ふざけ合っていた自分達。歩道を行き交う人から見れば、きっと有り触れた仲の良い恋人同士にしか見えないだろう。でも、本当の関係なんて二人にしか分からないものだ。不思議だが人見知りな自分が、さっき知り合ったばかりの廣樹となら……そんな関係になっても良いとさえ思っていた。
そこを直進、次を右、トイレに行きたいからちょっとコンビニ寄って、しばらく直進、そこを左、この先は狭いから気を付けて、そんな会話を繰り返しながら辿り着いた有り触れた住宅街。その一画にある私の住む安アパート。エンジンをかけたまま停車しているスープラの車内で、私はまるで付き合ったばかりの恋人のように、廣樹と過ごす時間の終わりを惜しみ、なかなかドアノブに手を伸ばせずにした。そして思いつく限り話題を一生懸命探していた。「こんなに頭を使ったのは、いつが最後だったのだろう?」そう思えるほどにいろいろと話題を考え続けていた。
「ねぇ、廣樹? さっきさ、私に優しいねって言ったけど……なんで?」
私は理由を訊いた。話す話題に詰まってしまったが、先ほど辰巳PAで廣樹に言われて気になっていた話をふいに思い出した。良い時間稼ぎになるので、その理由を訊いてみる事にした。
「……あぁ、あれか。だって、そこいらの港湾地域に置いてくる事も出来たけど……パーツ泥棒とかに漁られて、大事なシルビアが、解体車みたいにバラバラになる事が耐えられなかったんだろ?」
「……うん。廣樹はそんな事まで解かっていたんだ。……すごいなぁ」
こんな自分を、ちゃんと理解してくれていたことが無性に嬉しかった。再び話題を探すように廣樹と車内で話していると、闇に紛れ誰にも気づかれないまま、何者かがスープラに近づいてきた。
次の瞬間、何者かが助手席のドアガラスをノックした。不意に見上げた私は窓の外の人物を見て心臓が止まるほどに驚いた。
「――か、母さん!」
私の驚いた声を聞くなり、廣樹は手慣れた仕草でエンジンを切り、慣れない車のドアノブを探すことに戸惑っていた私よりも早く車外へと出ていた。
「……あんた、諒の何なんだい? 女の子を平日の夜にこんな時間まで連れ回して……」
母は怒りがこみ上げた目つきで、廣樹を睨み付けながら文句を放った。
「すみませんでした。……自分が娘さんを連れ出したせいで、ご心配をかけました」
そう言って廣樹は母に対し、言い訳もせずに深々と頭を下げて謝罪した。
「ちょっと! 廣樹は何も悪くないじゃん! 母さん、違うの! 廣樹は悪くないの!」
慌ててドアを開け外に出ると、母に対し弁明した。
「――諒! オマエは黙ってなさい。私はアンタみたいな常識が無い男と、諒が付き合うなんて、絶対に認めないからね!」
――そんな事、言わないで……。
「今日、ガソリンスタンドの店長さんから、もう来なくて良いって実家に連絡が来たわよ」
――私は母からの信用の他に職さえも失ったかもしれない。
「また無断欠勤したそうじゃない? 何か言い訳はあるの?」
母は私を睨むと鬼のような形相で、欠勤した理由を問い質してきた。
「どうせ、また車が理由なんでしょ? 諒、違うの?」
――母の声が、怒りから自分への哀れみへと変わっていく……
「頼むから……母さんまで私を見捨てないで……」
私は心で縋るような思いを抱きながら母を見ていた。今までの行いが生んだ結果とはいえ、実の親にさえ全く信用が無い。そんな自分がとても情けなかった。母親の前で俯くとそのまま黙ってしまった。不器用なりに頑張ってはいるつもりだが、上手くいかない日常が悔しかった。気づくと俯いた私の瞳から、地面に数滴の涙が零れ落ちていた。その直後、私の悔しさと悲しさの感情が臨界点に達した。
「もう嫌! 私だって……不器用なりに努力して生きているんだから!」
私はスープラに乗り込み、ドアをロックして膝を抱えて蹲った。
「諒さんのお母さん、後日改めて必ず挨拶に伺います。だから、今日だけは……娘さんをお借りします。本当にごめんなさい!」
廣樹は母にサッと会釈すると、次の瞬間に母の静止を無視して車に乗り込んだ。手慣れた無駄の無い仕草でエンジンをかけると、私を助手席に乗せたまま、一瞬でその場から走り去った。
それからしばらくの間、私達は人も車も少ない夜の国道沿いを、お互い無言のまま、ゆっくりと流すように走っていた。車内には、時折聞こえるシフトチェンジの音と、ラジオだけが内容もわからないくらい微かな音量で延々と流れていた。
巻き込んでしまって申し訳ない気持ちから、私は謝ろうと思い、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめん……なさい。……廣樹の事を巻き込んじゃったね」
自分でも聞こえないくらいの小さな声で謝った。
「――別にいいさ、俺だって車が好きだから……気持ちは解らなくもないよ。愛車に一秒でも良いから長く乗っていたかったんだろう?」
横から聞こえる廣樹の声はとても優しかった。心の核心を突いた優しい台詞を言われて、思わずまた泣きそうになる。
「……うん」
それは自分でも聞こえないほど、小さく弱々しい声だった。
「高校まではなんとか卒業したけど、社会の底辺みたいな高校で真面な企業に就職は出来ない。……お金だって無いし、マイカーローンも組めないから……真面な中古車も買えない。それでも車が好きだから、仕方なく闇ブローカーから金融車ばかりを買う日々……だから……今回みたいな辛い別ればかり……」
私は小さく切ない声で、今まで心の奥に隠し通し、誰にも話したことが無い本音を、愚痴るように話していた。きっと廣樹には全てを知って欲しかったんだと思う。
「……なんでなの? 車を物や装飾品としか見てないような金持ちは、フェラーリさえも新車で買えて……消耗品としか見ない金持ちの子供は、現行のBMWとかに乗ってるのに……こんなにも車好きな私は……どんなに努力しても……自分の中古車さえ持てないの? 人は……一度でも選ぶ道を間違ったら、もう抜け出せないし……戻れないの? 私は……身体でも売らないと……自分の車って買えないのかな?」
気づくと目に涙を溜めていた。自分でも気づかない間に熱くなってしまい、思わず強い口調で廣樹に答えを求めていた。それからしばらくの間、廣樹は黙ったまま考えるような表情で運転を続けると、急にバス停に車を停めて真面目な口調で答えてくれた。
「……冷たいようだけどさ、実際は難しいだろうね? そりゃあさ、諒くらい綺麗なら……身体を売れば簡単に好きな車の一台や二台買えると思うよ? だけどね……もし、それをしてしまったら……もっと大事な何かを失うことになると思うな。自分の身体を売った回数が一回と二回なら大差は無いけど、ゼロと一回は全く違うから。……それに……身体を売った後悔は……思うほど軽いモノじゃない」
廣樹の言葉は、私に対する同情ではなく正論だった。そして、そうした人間をよく知っているような口ぶりに聞こえた。
「もし、諒に……本当に風俗をするぐらいの覚悟があるのならば……俺に人生を預けないか? スーパーカーは無理でも好きな車くらい、身体を売らなくても買えるようにしてやるからさ」
廣樹は笑顔になると、頭を優しく撫でてくれた。肉体関係が無い愛人なんて聞いたことも無い。私にそんな聞いたことも無いような愛人になれとでも言ってるのだろうか? それとも、自分の女になれとでも言いたいのだろうか? 廣樹の彼女なら少しくらい考えても良いかもしれない。
「え? どういう……事?」
私には廣樹の言ってる言葉の意味が、全く理解できなかった。
「とりあえず……今日はもう遅いし、明日からでも行動に移そうか? 諒の家まで送るからさ、今日はゆっくり休みなよ」
廣樹が再び頭を優しく撫でてくれると、何故か不思議と心が落ち着いた。冷静になった私は、廣樹の何処か抜けた言葉と思考に思わず言い返してしまった。
「――無理! 合鍵を持ってるから、絶対アパートに母さんがいるもん!」
続いて思わず出た台詞、それは自分でも信じられないような言葉だった。
「そうだ! 今日は廣樹の部屋に泊めてよ!」
思いついた事をろくに考えもせずに口にしてしまった。
「はあ? なんでそうなるんだよ? お前さ、男の部屋に泊まるって意味をわかってるのか?」
私の台詞が予想外だったらしく、廣樹はすぐに大きな声で言い返してきた。
「……別に廣樹なら……良いよ。だって、沢山迷惑……かけちゃった……しさ」
私は俯きながら言った。自分で言っておきながら、恥ずかしさから萎らしくなり、急にモゴモゴと話す。男も知らない私が自分から部屋に泊めてくれと言った挙句、この人となら一生連れ添っても構わないと思える男に出会うまではと、二十年以上も守った純潔を簡単に捧げても良いと思うなんて……今日の私は絶対に何処かおかしい。
「ったく、馬鹿な事を言ってんじゃねぇよ! もっと自分を大事にしろよな?」
廣樹は少し説教気味な口調で話してきた。そして私をチラリと見た後、大きく深い溜息をついた。窓を開け煙草に火をつけると大きく吸い込み、ゆっくりと窓の外に吐き出した。煙草を吸いながら無言で私を見た後、ゆっくりと口を開いた。
「確かに諒は可愛いと思うし、一緒にいて楽しいことは俺も否定しない。だけどな、俺にだって男のチンケなプライドがあるからさ、諒ともし関係を持つなら……もっと好きになってから口説いて抱きたいんだよ。……頼むからさ、そんな安い女にならないでくれよ」
その台詞を聞いた私は、世の中には廣樹のような男がいるんだと感動すら覚えた。今までに出会ったヤル目当てで都合の良い事を並べるような男に純潔を捧げないで本当に良かったと心から思えた。
廣樹はポケットからサフィアーノ・レザー製のマネークリップを取り出し、数枚の留められた紙幣から壱万円札を二枚程引き抜くと私の前に差し出してきた。
「ほら、ホテル代は出してやるから。今夜はそこら辺の適当なホテルにでも泊まれよ」
「えっ? ……ホテルって……これから二人で……ラブホに行くの?」
この辺りには私が知る限りラブホテルしか無かった。思わず二万円を受け取りはしたが、少し照れながら訊いた。
「はぁ? オマエ一人でビジネスホテルに決まってるだろ! 大体、二人で泊まるならなんで前金で俺がホテル代を渡すんだよ?」
廣樹は私を軽く睨み付けると、語気を強めていった。
「だってぇ、多分だけど……この辺りってさ、ラブホくらいしか無いよ?」
地元に近い私はこの辺りに土地勘はあるが、ラブホテル以外の宿泊施設を知らない。ふと、あまり考えたくないことが脳裏を過ぎった。
「あ……もしかして……廣樹って女と同棲してるの?」
今更ながらにそんな事を思った。整った顔立ちにこの優しさとくれば、目敏い女が既に隣にいても全く可笑しくはない。廣樹に彼女がいて欲しくないという、自分勝手な発想が脳裏を過る。
「いや、俺は誰とも同棲はしてないよ。だって、俺は独身で一人暮らしだし、今は彼女もいないし……」
廣樹にとって予想外の答えだったのか、反射的に答えたように思えた。
「……じゃあ、もしかして……私みたいな女に部屋を教えなくないとか?」
不安を感じながら訊いた。もし、そうならば結構ショックだ。
「いいや、全然そんなことは無いよ」
私を見ながらクスクスと笑って答えた。その言葉を聞いた私は、理由の解らない不思議な安堵を感じていた。
「ならさ、廣樹の部屋に泊めてよ」
そのせいもあり、私はしつこく食い下がった。
「……はぁ、まったく諒もしつこいな。……わかった、いいよ」
廣樹はタメ息を吐くと渋々という感じで承諾してくれた。
「じゃあ、これ返すね?」
私は明るい口調で話すと、先ほど廣樹から受け取った二万円を差し出した。
「ん? この金は諒にあげたんだから返さなくて良いよ。もし、要らないなら寄付とか……諒にそれは無さそうだから……ガソリン代にでもすれば良いさ」
後半は少し考えたような感じがする口調だった。私が寄付などしないと思ったのだろうが、確かに当たっている。
「……それとさ、俺が思うに……諒が自分で築いた心の見えない壁によって……どうせ無理と、諒は自分自身を閉じ込めているんじゃないかな? はじめから無理と決めつけないでさ、人間やってみると意外になんとかなるもんだぜ?」
確かに。今までの自分は最初から出来ないと決めつけて生きてきた気がする。今日、廣樹に出会えたことが人生の分岐点な気がする。こういう考え方を出来る人間に出会えた私は本当に幸せだ。その日の少年と一緒で会って間もない廣樹が私の人生観を根本から変えた。
それから廣樹の部屋へと向かうまでの車内、私たちは最近の発売されたばかりの車談議に華を咲かせた。
深夜の表参道を走ると、廣樹のマンションに着いた。どんな部屋だろうと車内で想像を膨らませていたが、訪れた廣樹の部屋は3LDKの分譲マンションだった。
「廣樹ってさ……今更なんだけど……どんな仕事してるの?」
驚きから戸惑いを隠せない声になっていた。見た目の雰囲気と持ち物、私が三日働いて貰えるかわからない二万円を軽く出す気前の良さからして、それなりの金持ちだろうなとは思っていたが、自分の予想を遥かに上回っていた。
「俺の仕事? なんで?」
私を見ながらそう言った廣樹は、腕を組んで少し考えているようだった。
「……何が本業なんだかよく解らないな……別に、そんなのどうだって良いじゃん……個人事業主ってことにしておいてよ」
廣樹は誤魔化す様な口調で答えた。答えに困っているので、これ以上を詮索するのを止める事にした。このまま付き合っていれば、いつかは知る日はきっと来るだろう。だから、今すぐに焦って知る必要は無い。
「よく当たる占いに書いてあった、今日会う人と結ばれる」
昔、流行った歌にそんな歌詞があった。そして占いメールを思い出し、自分でわかる程に思わず笑みが零れた。
「諒? 何笑ってんだよ?」
「ん? ……ヒミツ」
私達はそのまま何も無い朝を迎え、その日から行動に移った。廣樹は今のアパートでは何かと不便だろうと、私が自宅兼事務所に使うマンションを借りる連帯保証人になってくれた。私に古物商の自動車商の資格を取らせてくれ、それから数週間後にその認可はおりた。税務署での屋号登録の方法を教えてくれ、私に銀行で屋号口座も作ってくれた。その費用は廣樹が全て貸してくれただけでもありがたいが、暫くの運営資金として二百万円まで貸してくれた。私は不謹慎だが、世間の愛人とはこんな事をされているのだろうか? それならば、人生がどれだけ楽だろうと思った。廣樹が私に提示した条件、それは借りた金額を全額返済後、そこから一年間だけ売り上げの利益から二割を廣樹に領収書無しで払う事、全額返済後は追加融資する代わりに、融資された金額の他に純利益の一割を払う事だった。それは私にとって信じられない好条件だった。これを知ったのはしばらくしてからだったが、廣樹は信用出来る知り合い相手に立替払いで利益を得るという事もしていたのだ。それから車好きの私は、たまに廣樹に相談しては寝る間も惜しんで我武者羅に働いた。車を買いに行く経費を減らす為、電車や高速バスに乗り他県に行くことも、登録をする為に運輸支局に行く事も、買ってきた車を仕上げる為、女の自分が手を怪我しながら整備する事もあった。だが、すべてが楽しくて堪らなかった。毎朝、起きるのが楽しいと思えるようになったのは、きっとこの頃からだと思う。確かに高い勉強代を払ったり、失敗もそれなりにした。それでも楽しいからこそ続けられた。この仕事をしているうちに沢山の知り合いも出来た。
車業界には、違法な闇ブローカーの他にも、合法的なブローカーと呼ばれる人間が沢山いる。自動車商の資格だけで、店も持たず目利きと自分の人柄や信用だけで車を仲介し売る者。まさにそれこそが、私が憧れて夢見てきた車との付き合い方だ。
一年後。
辰巳PAで廣樹と出会い、ブローカーを始めてから丁度一年が経つ頃、私は廣樹に借りた借金を全額返済した。その頃には、仕事も覚え順調にブローカーとして生計を立てられていた。今になって思うと、廣樹は私が借金を返さずに消える事は考えなかったのだろうか? それとも、私の夢が叶うと信じて投資してくれたのだろうか? 私に貸した金額は、もしかしたら廣樹にとっては大した金額では無かったのかもしれない。だが、必ず夢が叶うと信じてくれて私に投資してくれたならたまらなく嬉しい。
店の屋号の名前はBNR。そう聞くと車好きはスカイラインGTーRと言う、BNR32とBNR34のGT-Rの型式と思われがちだが、実は違うのだ。ビアンコ、ネーロ、ロッソ、それはイタリア語で白、黒、赤を意味する。廣樹と初めて会ったあの日の車内で、車の色は黒、白、赤だけは絶対にこの色じゃないと駄目だって人がいるという話の流れから、フェラーリ=赤となり、イタリア語で赤をrossoと黒をneroと白をbiancoという事を教えてくれた。だから、屋号を決める時にその頭文字を取ってBNRにした。
あの日、そうブローカーになると決意し、廣樹が私の夢に投資してくれた日。私は車好きが絶対に譲れないような車を扱うブローカーになれるようにと願掛けしたのだ。
後で聞いた話だが、例の駐車場に停めたシルビアは、駐車場所有者側の弁護士が車を引き取る条件として所有者に駐車料金を求めて訴訟を起こしたそうだ。そしてシルビアの所有者側は敗訴。桁違いな駐車料金を立て替えたくないローン会社は、シルビアの所有権を放棄して駐車場オーナーに譲ることで和解したらしい。その後、廣樹がシルビアを駐車場オーナーから買い取り、ブローカーとして仕事を始めた私に完全整備した状態でプレゼントしてくれた。廣樹のおかげで一度は別れたシルビアだが、今は再び私の相棒として毎日元気に走っている。もちろん、車の名義は自分になっている。
よく「人は死ぬ気になれば何でも出来る」と言うが、今ならばそれをハッキリと理解できる。廣樹と出会ったあの日、自棄を起こしてスリルに身を任せシルビアで暴走しなくて本当に良かった。あの頃の私は人生に希望なんて全く持てなかった。生きる意味の無い世界で苦しみ、悩むくらいなら、いっそ大好きな車ですぐに死んだ方がマシだとさえも思っていた。まるで幼き頃に出会った少年のように、偶然出会った廣樹が私を救い人生を変えてくれた。あの日、あの時、あの場所で、廣樹に会えなければ、私の人生はこんなにも変わらなかっただろう。
自分が好きな車を題材にしました。自分の小説は基本同じ時間軸の同じ登場人物になります。
S15シルビア:諒の愛車はオーテックバージョン。ターボのSpecRのボディーにオーテック仕様のチューンエンジンを積んだグレード。NAでは唯一の6MTを積んでいる。