第五話 魔獣を律する鎖、デメンサヴァリテータ・白痴の剛力、キューピディダシア
スミス大佐は撤退の命令を出した。
最終手段、取るのが遅すぎた嫌いすらある。
「スクウェア」を通してもといた世界へ。
同時に空軍に支援を要求する。
近隣のネリス空軍基地からすぐに爆装した機体が助けにやってきてくれるはずだ。
しかし彼らが「スクウェア」を超えてこっちまで進出する許可が下りるとは思えなかったから、すぐにでも向こう側へ帰らなければならない。
急げ……。
「もういい!お前たち!装備はほっとけ!体一つで家へ帰るんだ!」
スミス大佐が無線機に向かって叫んだ言葉に、近くにいた兵士が反論する。
「しかし大佐、まだ負傷した仲間がいるでしょう……」
スミス大佐はその兵士の方をにらんだ。
そう。その通りだ。
見捨てることなど許されない。
そういう部隊のはずだった。
大佐自身、そういう部隊に育ててきたはずだった。
血が出そうなほど唇を噛み締めた。
「あとで、救出する」
それだけ言うと再度無線で全員に指示を出した。
めいめいに撤退せよ、と。
「大佐」
また指示を出しているところを遮られた。
スミス大佐はさすがにイラついた。
「気持ちは大いにわかる!しかしダメだ、ダメなんだ……」
「いえ、そうではなく……あれは……」
いくつもある丘のうち一つを指差す兵士。
スミス大佐は無線機を手に持ったまま指し示された方を見た。
「あ、あれはなんだ……」
黒い津波だった。
先ほどの燃え立つ獣を先頭に、黒い軍団が丘の斜面を覆い尽くすようにこちらに向かってきていた。
「撤退!『スクウェア』の向こうまで走れ!」
大佐は反射的に叫んだ。
「あっはは、奴ら泡を食ってますぜ」
デメンサヴァリテータが言った。
彼の、鎖をより集めてできた人形のような体から幾本もの鎖が伸び、地面に突き刺さっている。
一本が引き抜かれる。
ジャララ、と音を立てながら引き出されたそれの末端には、巨大なドラゴンが繋がれていた。
「さあ、我が鎖により召喚されし魔物よ、俺の手足、俺の目と耳になれ!」
デメンの能力、それは魔物の召喚能力だ。
魔素さえあれば一瞬でいくらでも魔物を呼び出すことができる。
オグンとともに突撃させたオーガ千体の軍勢もこうして召喚された。
それも、一瞬で。
数本の鎖を地面から一気に抜き取る。
ワイバーンベイビー。
小さめの、鱗に覆われた空飛ぶ龍が丸まった体を外気に晒す。
それは先ほど召喚されたドラゴンとともに目覚めると、畳まれた翼を広げて前線へと飛び去って行った。
スミス大佐は走った。
日課のランニングでもここまで体を酷使したりしない。
人生でこれだけ必死に走ったのはいつの訓練以来だったか。
中年の心肺に鞭打って走る。
走るしかない。でなければ……。
「大佐!奴ら、自動車並みの速さです!追いつかれます」
「クソッ!」
一緒に走っていた兵士の言葉に悪態を吐く。
後ろを振り返る余裕はない。
ドドドドというあまたの足音が耳に届いてきた。
(ここまでか……)
ズン、と大音を立てて目の前に何かが降り立った。
自分たちの頭の上を飛び越えたのだろう。
燃え盛る炎のたてがみを持った獣がそこにいた。
初めて近くで見た。
象ほどの大きさのあるライオン。
印象としてはそれだった。
もちろん、体から炎を吹き上げているところは他のどんな生物にも似ていないが。
熱気を感じる。
キャンプファイヤーのそばにいるようだ。
スミス大佐は思わず手を顔の前に掲げる。
それにしてもこれでは逃げられそうにない。
グルル、と、唸り声が聞こえた。
「貴様ら……この我に手傷を負わせておきながらそのまま逃げ去ろうというのか。誇りというものはないのか!」
「な……」
大佐の脳は処理しきれない状況にパンクしそうだった。
(英語、だと?)
「貴様らのようなやつらは蛆虫だ。いくら弱かろうがその心意気は戦士のそれだと思っていたのに、がっかりだぞ……。そんな貴様らにはこの末路がふさわしい。全身火傷で苦しめ。『百万の炎の舌|」!!」
オグンが口を大きく開く。
吐き出される甚大な超高温。
自由自在に操れる炎。
それがこの魔法の全てだ。
数千度の熱量がスミス大佐たちに襲いかかった。
「がああああ!!」
圧倒的な熱。
無慈悲な業火がスミス大佐を包んだ。
「うあ!?うあ!?うああああ!?」
情けない声も出ようというもの。
彼には気を配る余裕はなかったが、周りの者たちも似たような状況だ。
誰もが自分を包む炎の幕をかき消そうと手足をいっぱいに動かしている。
しかし無駄だ。
オグンの意志のもと自在に動く火炎を人間の力で振り払うことなどできないのだ。
オグンは見つめる。
苦痛のダンスを踊る人間たちの姿を。
やがて十分に「火が通った」ことを確認すると、前足を上げ、パチンと指を鳴らす。
ブワッと風が吹き、炎が掻き消えた。
残ったのは、焼けただれた肌を晒すスミス大佐以下、十数名の遺体。
いや、遺体ではなかった。
まだ息があった。
うーうーと苦痛の呻きを上げている。
やがてこの者たちは集まってきた他の人間に救助されるだろう。
そして伝えるのだ。
あちらの世界で。
魔王軍の威を。
それが敬愛すべき魔王の御意志なのだろう、と、オグンは推察している。
「仕事は済んだか?オグンよ」
オグンが振り返ると、そこには魔王がいた。
幹部たちも、召喚された魔物たちも、だ。
もはや人間たちは散り散りとなり、大半が向こうの世界に戻っていた。
車両やテントや物資の陰に伏せっている者は何人もいたが、もはや抵抗の意志はなかった。
魔王軍の威容を目にしてガタガタと震え、それどころではないのだ。
魔王が四角い異次元の扉の方へ歩み寄っていく。
「これが……」
かつて地球で生を送っていた頃、ニュースで何度も見た光景。
だが肉眼で見るのは初めてだ。
地面の色が一直線で区切られ、はっきり別の色の土に変わっている。
地球と異世界、異世界と地球の境界線。
空の色もだ。振り返れば赤黒い血の色の空。
前を見れば白雲浮かぶ青い空。
ある線を境にまるで違う光景が広がっている。
魔王は視線を落として地球側の、ネヴァダの砂漠に注意深く目をやった。
いくつも立ったテントと、軍用車両。
こちらの前進基地と変わらない様子。
フン、と鼻を鳴らした。
今そちらに行ってやる、そういう意志を込めて。
それにしても、この不思議な次元の穴だ。
この境界が米軍で、そして全世界に公開されてからは全世界で、「スクウェア」という名称で呼ばれているのは知っている。
ちらり、と、足元を見る。
そこには炭化した手足をもぞもぞと動かし苦悶を表現しているスミス大佐がいた。
燃え尽きた戦闘服がケロイドと化した皮膚に張り付いている。
もはや彼を知るものですら見た目からは彼だとわからないだろう。
魔王は哀れな被害者を見下ろす。
なんの感情も湧かない。
ゲームか何かの中の出来事のようだった。
(それも当然か。この第二の人生、そういうつもりで生きているのだからな!)
魔王は余計な思考を振り払うと、
「キューピディダシア!」
と呼ばわった。
「はいはいはーい!」
ゴスロリ服の金髪ツインテールの少女が姿を現した。
彼女こそ、魔王軍最後の幹部、キューピディダシア。その能力は……。
「じゃ! キューピ、手筈通り、行ってきまーす! あはははは!」
それだけ叫ぶと、ズドン! という音とともに土埃を上げて「スクウェア」の向こうへ走った。
白痴の剛力、キューピディダシア。
彼女は最高の身体能力と物理防御力を持つ、魔王軍の突撃隊長である。
「さて、我らも行くか。お前たち。余のいた世界がどういう場所か、見せてしんぜようではないか」
魔王の言葉に幹部たちは身を引き締める。
カダヴェラは不安そうな顔を浮かべ、ダルマはニヤリと不敵に笑った。
オグンは武者震いをし、デメンは体の鎖をジャラジャラ鳴らした。
サビナが半透明の魔法のシールドを展開し、魔王たち全員を覆った。
後に続くは千体のオーガとドラゴン数匹。
いざ次元の穴を越えんとした時、キューピディダシアが戻ってきた。
怪訝そうな顔を浮かべる幹部たち。
だがそれ以上に困惑顔だったのが当のキューピ本人だ。
「あれれー?魔王様、なんだか向こうでは力が出ないの……走ってたけど、なんか体が上手く動かなくて。それに、転んじゃったんだけど、それだけで体中、傷だらけに……」
「やはりか」
魔王だけが合点がいったようだ。
ダルマが頬の肉を震わせながら尋ねる。
「どういうことですかな?」
魔王はスクウェアの外ーーいや、中だろうか?ーーへと一歩踏み出した。
そして振り返ると手招きする。
魔界の方が少しだけ気圧が高いのか、背後から吹く風にマントがはためいている。
「リスクはあるが……お前たちはどうせ言ってもわからんだろう。来るがいい。さあ、こちらへ」
幹部たちは顔を見合わせる。
どういう意味だろうか。
魔王の真意を測りかねる。
しかし、命令とも言えぬいざないの言葉だからこそ、無下にはできなかった。
まずカダヴェラが一歩踏み出す。
他のものは慌ててそれに習う。
せーの、という掛け声があったわけでもないのに、残りのみなは一緒に境界線を踏み越えた。
そのとたんである。
「あ……」
最初に気づいたのはサビナアルナだった。
展開していたシールドが消失したからである。
それだけではない。
後から地球側に出てきたドラゴンは宙を飛べなくなり、墜落し、オグンの体の炎は消えた。
「これは……」
すぐにみな、気づいたようだった。
(魔法が、使えない?)
「やはりそうだったな」
動揺する魔王軍幹部たちの前で、魔王その人だけが冷静だった。
「これでわかったな?お前たち。こちら側に攻め入ることの難しさを」
「まさかこんな……」
ダルマが驚きを言葉にしようとしたその時だった。
空から轟音が聞こえてきたのは。
魔王筆頭に幹部たちは空を見上げた。
カダヴェラは予感する。
死をもたらす力を。
死の匂い。
感じる。
ハッとして振り返る。
仲間たち、魔王の幹部からそんな匂いを感じるなどついぞないことであった。
予感、予知。
瘴気が出なくなっているおかげで、気兼ねなく声を出せた。
「あ……まお……さま……っ!……逃げ……」
魔王もまた気づいた。
空を飛ぶものから降ってくる、風切り音に。
「F-16。500ポンド爆弾、か」
瞬間、幹部たちをオレンジの炎と黒い爆煙が包んだ。