第十七話 犠牲者達
二〇一七年五月十一日時刻1100、
米国、ネヴァダ州、ラスベガス
X+九日
「避難!?何を言っとる!」
ラスベガス市長バードは市庁舎の執務室いっぱいに声を響かせた。
「50万人がいるんだぞ!?砂漠のど真ん中にだ!一体どこへ逃げろというんだ!?」
電話の向こうからの返答。
「では、せめて自宅待機の呼びかけを……」
電話を掛けた主はギャレット大尉だった。
ワイバーンベイビーはすでにスクウェア前仮設基地から全てが飛び去り、その行き先は全く把握不能だった。
グルームレイク、ネリス、両空軍基地から観測機や戦闘機が飛び立ってはいるが、実態の把握は出来ていない。
近傍の人口密集地全てに避難・警戒を呼びかけるしかない。
ギャレット大尉は必死だった。
負傷者の救助と最近傍都市であるラスベガスへの移動準備で忙しい友軍を尻目に、電話係を買って出ていた。
市長は猛る。
「一体何をやらかしたんだ! いや、当ててみせよう。わかってるんだからな? お前らのやることは! あれだろ? 核物質だろ? 貧乏人上がりの野郎が核物質入りのバケツを蹴飛ばしたんだろ!? ええ!?」
「もっと危険だ! 信じていうことに従ってくれ!」
そこまで言ってギャレットは気づく。
砂漠の中を丸見えで逃げるよりは自宅待機の方が随分マシなんじゃないかと。
「いいですか、市長」
だいぶ冷静な声を取り戻せたギャレットは諭すように言う。
「避難指示は撤回します。その代わり、誰も! 外に出させないでください。お願いしますよ!?」
「……しかし経済損失が……いや、待て。あれは何だ?」
緩やかに曲面状に曲がった市庁舎の窓から、黒い影が見えたのにバード市長は気づいた。
ギャレット大尉は遅かったか、と、毒づいた。
ワイバーンベイビーがまず取り付いたのは高層ビル群だった。
そうするよう条件付けがなされていたのである。
構造物の中に入っていくように。
翼から生えた指で壁面に取り付き、硬い皮膚を持つ頭部をハンマーのように使って窓を割った。
呆然と窓の外の異様な飛行生物を眺めていた人間たちは、差し迫った危険が自分の身に降りかかって来たことを初めて知る。
一拍おいて、悲鳴を上げるいとますら惜しんで一目散にフロアを下ろうと階段に殺到する。
翼を閉じれば意外なほどに細身になるワイバーンベイビーは、割れたガラス窓を通してビルのフロア内にその身を押し込む。
そして広いオフィスの中を翼と二本の後ろ足で這って歩き、獲物を探す。
また一匹、ガシャンと音を立ててビルに侵入。
今度はもっと下のフロアだ。
一気に奥まで入り、階段を目指す。
知能のない彼らであっても、事前の訓練通りである。
--見つけた。
エレベーターに乗れなかった人間たちが、階段でおしくらまんじゅうのように押し合いへし合いしていた。
薄暗い階段シャフトの中にワイバーンベイビーがぬるりとしなやかな体を滑り込ませたとき、誰もが息を飲んで退き、人の塊が将棋倒しになった。
ワイバーンベイビーにとってそれはもはや、餌の山だった。
悲鳴が聞こえる。
銃を携帯しているものの発砲音が聞こえる。
ネヴァダの青空は黒い影で埋め尽くされていた。
華やかな装飾の施されたカジノホテルの下、道を歩く人が掴まれ、上空へと運ばれる。
そのまま落とされて絶命するものもあれば、連れ去られるものもいる。
どこへ?
人間を捕まえて飛ぶ先はもちろんスクウェアだ。
ワイバーンベイビーの何割かは人間拉致を優先するよう条件付けられている。
しかし過半の任務は、殺戮である。
鋭い牙の生えたワニの頭ほどの顔が人の体を嚙み潰し、血が通りを赤く染める。
急降下からの体当たりで交通事故のように人が吹き飛ばされ、即死する。
ビルの中から人が引き摺り出され、宙に放られ、地面に激突する。
様々な方法で、魔界で散々繰り返して来たように、魔王正規軍のワイバーンベイビーは手慣れた行為を続ける。
ビルから逃げ出そうとしたものは一階まで来ると外に出た方が危険だと気付き、そこで立ち止まってしまう。
そこがワイバーンベイビーの狙い目だった。
ビルの上から降る個体と、ビルを包囲する個体。
両方が協調して獲物を罠にはめる。
悲鳴。
ホテルやオフィスビルのエントランスフロアにこだまする。
何人かは拳銃やショットガンで応戦したが、殺されるワイバーンベイビーは飛来した数千匹のうち、非常に少数だった。
人間の犠牲者数には数百倍しても足りなかった。
無論市庁舎も攻撃の対象だ。
窓から未知の黒い翼竜が街を地獄に変えている様を見ていたバード市長はまず消防署や警察署に電話をかけた。
しかし軍に今一度連絡を取ろうとしたそのとき、執務室の窓を破って侵入して来たワイバーンベイビーにくわえられ、空中へと引きずり出された。
やめてくれ、やめてくれ。
なんの意味もなさない言葉。
顎が噛み締められ、彼の体が噛み潰される。
口からこぼれ、落下。
市長は犠牲者数のカウントを一つ増やすだけの存在となった。
二〇一七年五月十一日時刻1400
地球、米国、カリフォルニア州、ロサンゼルス都市郊外、某町
X+九日
この街の警察・消防の支援の元、外出禁止・自宅待機が徹底された。
ギャレット大尉を伝令とする暫定対策本部の指示を受けたものだ。
ラスベガスの惨状を民間救命ヘリを徴発した偵察機で確認するに、自宅待機も避難も大して危険を軽減しないと判断されたが、もうどうしようもない。
スクウェア近傍に展開する部隊は、必死でワイバーンベイビーの群れを追いかけたが、間に合いそうにない。
奴らは一直線に人口密集地を目指したのだ。
魔王はスクウェアの現実世界の出現位置を知っていた。
近傍の人口密集地の方位も。
魔素のいらない、ワイバーンベイビーの天然の地磁気感覚に頼った方位感覚、訓練によりいくらでも望みの方向に飛ばせた。
ロサンゼルスへの道のりの途中にあったのがこの町であった。
「ねえ、マミー?いつまでお家にいなきゃいけないの?」
「警察の人がいいって言うまでよ」
リビングのソファーに座る親子。
シェリーはアンナの膝の上でモジモジする。
「マミー、おトイレ行って来ていい?」
「ええ、もちろん。あ、マミーも一緒に行くわ」
「何で?あたし、もうとっくの昔から一人で行けるよ?」
「でもねえ……」
アンナは言い知れぬ不安を抱えていた。
数秒たりとも娘から目を離したくない。
何かわからないが大きな危険が迫っている。
そう確信していた。
「やなの! あたし一人で行く! 行けるもん!」
「はいはい、わかった、わかったよ。じゃあ、すぐに帰って来てね。お菓子のあるところにいっちゃだめよ?すぐにリビングに帰って来てね」
「はーい!」
シェリーはトイレに篭っている時、ガシャンという大きな音を聞いた。
怖くてトイレから出られない。
しかし、危険だから外の気配が過ぎ去るまでじっと息を殺していようという忍耐があるはずもなく……。
「マミー!」
トイレのドアを開け放ち、リビングにいるはずの母の元に向かう。
果たして、そこには誰もいなかった。
めちゃくちゃに壊されたリビングの大窓と、散乱したガラスだけ。
シェリーは怖くなった。
短い人生で一番の怖さだった。
泣きそうになりながら家の中を探す。
母を探してまわる。
そして、家の中の母がいないとわかると、外へ出て……。
そこで、体がふわっと浮かぶのを感じた。
二〇一七年五月十一日時刻1145、
ワシントン、ホワイトハウス、地下極秘シチュエーションルーム
X+九日
情報が入ってくるにつれ、居並ぶ面々の顔は曇って行った。
テーブルについた誰もが腕組みしたり天井を仰いだりして受け止めきれない現実と戦っている。
真珠湾? 911? それらの再来どころではない。
犠牲は、おそらく、都市人口の数割……。
もしかしたら全滅も……。
「ネリス空軍基地の戦闘機はどうなっている?あそこにはF-22すらあるはずじゃないか!」
モアランド国防長官の言葉に、報告に入って来た将校が答える。
「無論、レーダーに感があった瞬間から上げられる機体は全て出撃しました。しかし、目標は大きな鳥の群れのようなものです。数は一万にせまっていたようです。ミサイルも機銃も、このような多数を敵とするものとして設計されてはいません。相手どれる数に限りがあり、限定的な効果しか……」
「何ということだ」
モアランド国防長官は拳を握り締める。
「不幸中の幸いは、だ」
大統領が天井を見ながら言った。
全員が視線をこの国の首長に注ぐ。
「我々がここにいる瞬間に事が起こったという事だな。911の時のように閣僚が避難で散り散りにならずに済む。全員が集まるのが事が起こった三日後だなんてことにならずにすんでよかった。やれやれ……諸君!」
大統領は身を起こすといつにない力強い声を放った。閣僚たちは皆、身が引き締まる思いを感じた。
「ここからだぞ?我々の受難と戦いの日々は……!」
会議はまずこの事象を生物の偶発的で本能的な行動ではなく秩序立った攻撃と認める所からスタートした。
なぜか?
翼竜のうちの何匹かが、カメラを構えている人間がいることに気づくと、そちらへ向けて流暢な英語でこう言ったからである。
「我ハ魔王、我ガ威二屈セヨ! コレハ宣戦布告ダ!」
まるでレコーダーに吹き込まれた音声のようだった。
オウムと同じ、ワイバーンベイビーの音声模写の声だ。
撮影者はみな、配信途中で食われた。