第十三話 魔王の力
二〇一七年五月十七日時刻1400、
魔界、魔王城、玉座の間
X+八日
最初の米軍への攻撃は地球への進出とそれからの撤退という結果に終わった。
魔王軍本隊に属さない魔族--例えばベリアルのような--の中にはこの結果を人間への敗北と取り、「新魔王、魔族の頂点に立つ器にあらず」と断じる向きもあった。
引き締めねばならない。
「不届き者の筆頭は蟲の王です」
薄暗く、魔王の玉座の他は何も見えない玉座の間にて。
魔王の盾、執事サビナの言葉。
撫で付け結った金髪に細工メガネが映えた。
すらりとした不動の姿勢で魔王のそばに控えている。
「そうか」
玉座に座った魔王は一言だけ返した。
サビナは考える。
この五年、魔王であるこの元人間が積極的にコミュニケーションに応じたことはない。
正直何を考えているのかわからない部分もあった。
魔王としてしたことといえば、魔王軍の軍備増強。
ゴブリンに鎧竜の甲皮の鎧を着せてみたり、魔物の召喚数を段階的に増やしてみたり。
そこまでする必要があるのか、というのが幹部たちの多勢の意見だった。
自分のような忠誠心の高い魔物なら疑問を抱いたりも少ないのだが、やはりそうではないものも多かった。
その結果が蟲の王達の反乱である。
反乱、というとさすがに穏やかではないか。
サボタージュ、反抗、抗命。
その程度のアクションだ。
だがそれでも重大な反逆行為である。
始末はつけなければならない。
サビナはギリ、と、牙の生えた口を噛みしめる。
地球に出た時の自分たちの失態がなければこうはなっていなかっただろうに。
ふと、魔王が唐突に立ち上がった。
「話をつけにいくぞ、サビナ。蟲の王のところだ」
不意を突かれたサビナアルナは少々うろたえる。
「は、では他の幹部を招集します」
「いや、余とお前の二人でいい」
「……左様ですか」
サビナは魔王の強さを確信しているし、自身の持つ魔法の加護にも自信がある。
しかしそれでも強大な魔族相手に自分の防護魔法だけで立ち向かうというのは承服しかねる部分があった。
しかし面と向かって反対意見を述べることはない。
声音にちょっとした不満を匂わすだけだ。
それを魔王は的確に嗅ぎとるが、無視する。
これでいいのだ。
ほぼ自分の力だけで実力者を屈服させる。
それこそが重要だった。
二〇一七年五月十二日時刻1400、
魔界、蟲の王の洞窟。深部
X+八日
彼は山に巻き付けば何十周にもなる長大なムカデの姿をしている。
魔界に生息するすべての昆虫型モンスターの支配者。
彼の号令一つで羽虫も、甲虫も、地を這う虫も、全てが空間を覆うほどに集い、指示に従った。
彼のプライドは魔界一高い山より高かった。
ことあるたびにいちいち人間の転生者の魂を入れ替える魔王なんぞより、よっぽど自らの力を頼みにしていた。
「おやおや魔王様御自らこちらへ出向いていただくとは、恐縮の限りですな」
彼の洞窟を訪れた魔王に対し、蟲の王は開口一番恭しくそう言った。
キシキシという蟲の横開きの口の音が耳障りだった。
彼は長い長い体を洞窟の中で塒にしているが、この魔界で一番深いこの洞窟でもその体を収めるにはギリギリのようだ。
窮屈そうにたくさんの足をワシャワシャとせわしなく動かしている。
「して、何用ですかな?」
蟲の王はしらばっくれる。
魔王軍の一般兵士統括者、デメンの指揮下から蟲族全てを離反させ、一切の命令を受け付けなくさせておいてよくいうものだ。
魔王はそう思った。
「お前には転生して一度会いに来て以降挨拶をしていなかったからな。一言と思って」
「それはそれは」
キシシシ、と口を鳴らす。
鎌首をもたげ魔王を見下ろす姿勢は全く敬意を欠いている。
サビナははらわたが煮えくりかえる思いだった。
魔王を舐める魔族がいていいものか。
代々の魔王に仕えてきた個人的忠誠心もあったが、魔王軍全体の統率が乱れていることが何より許せなかった。
あの強大な人間の軍隊の力に対抗するのに、どうして分裂して当たることができよう。
「蟲の王よ」
魔王が言う。
その口調には尊大な自信が現れていた。
少し不快感を得る蟲の王。
「再度我が軍門に下ると言うのならば今回の件は見逃してやる。さもなければ王が奴隷の身分に落ちることになるぞ」
また、不快な笑い声が洞窟の中に反響した。
「ほうほうほう。魔界でも有数の魔素行使量を誇るこの蟲の王によくぞまあそんな物言いを……」
「黙りなさい!」
サビナがつい口を挟む。蟲の王の複眼が端正な顔貌の金髪の女を捉える。
「お前の存在は原初の魔王様により作られ、代々の魔王様に奉仕するために用意されたもの。その本分を忘れるばかりか、この難事にそのような態度を取り続けるなど、万死に値する。魔王様、どうかお許し願いたいのですが、私自身の手でこの不届きものを処分させては……」
「ダメだ、サビナ。ほとんど防護魔法専門であるお前では荷が重い」
サビナはシュンとなった。
事実であった。
強大な蟲の王に魔王軍の盾役が一人でぶつかっても勝ち目は薄い。
「してムカデよ」
蟲の王の体が怒りに震える。
ムカデなどと呼ばれるのは彼にとって最大の侮辱であった。
だが魔王はそんなことは意に介さない。
「余に従わずしてどうする? こんな洞窟にずっと籠っているつもりか? そんなことよりずっと楽しいことがあるではないか? 余と共に人間を殲滅しようぞ」
「人間が何をどうしようが関係ない、知ったことではないのだ。魔王よ、代々のお前のように人間との戦争にうつつを抜かしたりしないのだ。そもそも、もうお楽しみの時間は終了したのではないか? 老いた勇者に縋るしかない人間の残党しかおるまい。異世界への転移門の先の相手が脅威だと? そんなもの、魔素を投じて門を閉じてしまえばいいだけのこと。何を拘るのだ? お前を負かす様な相手に……。新しい魔王よ」
耳障りな蟲の声。
サビナは眉をひそめる。
虫が怖いというわけでもないが、不快なものはどうしようもなかった。
魔王は質問に答える。
「余がこだわる理由か? なら聞かせてやろう」
重々しく、もったいぶって。
サビナも興味津々だ。
この五年、魔王は様々な軍の改革案を口にしてきたが、その動機の根幹については何も言っていなかった。
無論、魔王に転生できる魂であるのだから、人間を路傍の草木より簡単に薙ぎ払える心根の持ち主なのはわかっているのだが……。
「余は人間が憎い。その笑顔が憎い。無邪気さが憎い。幸福が憎い。健康が憎い。人の子の、母と手を繋いで歩くその安らぎが憎い。周りから惜しみなく支援され、周りに感謝しながら夢に向かって生きていけるその清らかさが憎い。朋友互いに信じ、約束事を守ることができるその強さが憎い。善と呼ばれる何もかもが憎い。わかるか?虫けらよ。いやわかるまいな。この偉大なる乾きのことなど……」
蟲の王は怒るより前に困惑した。
かつてこんなことを言う魔王がいただろうか。
彼とて幾代もの魔王を知るものである。
しかし人間の転生体である魔王がこれほどの人間に対する憎悪を見せたことなどかつてあっただろうか。
この魔王の元となった人間、かつて人間の世界の歴史に歌われた英傑とは何かが違う。
そう感じた。
魔王はこう続ける。
「人間の断末魔を最大ボリュームで聞きたいのだ。そのためにはまず戦争だ。敵の意思を物理的にくじかねばならぬ。然るのちに陵辱だ。敵の精神を粉々に粉砕せねばならぬ。そして絶滅。これを以て全ての因果の輪が閉じる。人間という魂の生産装置が消える以上、新たな魔王が生まれることもない。魔界も静かになるだろう。そうすればお前も再度自分の天下を手にできるだろう。それまでの間協力しろ」
蟲の王は吠えた。
「ほざけ!我はかりそめにも王として生を受けし身!今までは魔王が魔王たる力を行使できたがゆえにその威に頭を垂れていただけのこと!それを失った弱きものには協力などせぬ!」
彼は信じている。
今世代の魔王の弱さを。
人間に撃退されたと聞いているのだから無理もない。
しかし、それは間違いなのだ……。
「本当に失ったと思うか?」
ぞくり、と、蟲の王の体に織り込まれたはしご状神経を電流が走った。
恐怖。
久しく感じることのなかった感覚。
それはまさしく目の前の金鎧の主から……。
「時間逆行」
魔王が魔法を唱えた瞬間だった。
周囲の空間が熱を得てチリチリと高温になり始める。
甚大な魔素消費がもたらす副次作用だった。
「ウゴアぁ!?」
蟲の王の体が見る見るうちに縮んでいく。
長大な体は巻尺のように巻き取られ、太い胴体は風船がしぼむように細くなっていく。
やがて、蟲の王のいた場所には地球で見られるのとなんら変わりない大きさのムカデが一匹。
「余の望みは一切の魔族が一匹残らず人間界へ進撃すること。魔族の持つ戦力は全てを使い潰す。そうせねば勝てぬ。そうせねばならんのだ」
「オマエハ狂ってイル……オマエハ魔王ではない、狂王ダ!」
蟲の王、いや、もはやただの一匹の喋るムカデはそう言った。
魔素を使った発声器官も退化したせいで発音が聞き取りにくくなっている。
魔王は決してとりあわない。
「これより以降は我の鎧の中に住まいて蟲を操る力だけ使え。そうすれば時間逆行を解いてやる」
「ソ、ソノヨウナ……」
魔王はムカデの足の一本をつまむと引きちぎった。
「ギエエエエエ!」
「二度は言わせるでない」
「ワカリマシタ、魔王様……」
話はついた。
金の鎧の中に新たな僕を住まわせた魔王は魔王城に凱旋する。
盛大なファンファーレが彼を包んだ。