2. 声の主
麓矢はぎょっと驚いて立ちすくんだ。その反動で、座っていた椅子がガタンと倒れる。
「そんなに驚くことないじゃない」
女の子のくすくすと笑う声が、耳元でこだまする。麓矢は振り返ってみたが、教室のどこを見渡しても人影は一つも見当たらない。廊下に出てみたりもしたが、自分以外の誰かがいるようには思えなかった。
(夢の中でねぼけちゃったのかな)
と倒れた椅子を戻して座りなおし、考えてみる。あるいは寂しさのせいで何かのイメージが生まれたのかも、とか。これは明晰夢なのだ。想像力次第で何でもできるはず。
「違うわよ。私は確かに存在している。アナタの頭の中に」
麓矢は、今度は椅子から転げ落ちてしまった。体勢を整えるまでもなく、教室を見回してみる。チョークの跡ひとつない黒板も、習字の貼られた後ろの壁も、金魚の入った水槽も、どこもおかしなところはない。そして、誰もいない。自分以外には何者も。
「き、君は誰なの?俺の頭の中にいるって、ど、どういうこと?」
麓矢は声を振り絞る。今までにないくらい心臓がバクバクとして、破裂してしまいそうだ。
「ふふん。さぁ~て、誰でしょう」
女の子の声は、ころころと笑った。
「それはともかく、アナタに行ってもらいたい場所があるの」
「い、行ってもらいたい場所?それはどこ?」
裏返った声で麓矢が尋ねると、また女の子は鈴の音のような声で笑った。
「ここよ」
少女の声がすると同時に、麓矢の世界はぐるぐると回転し始めた。それはだんだんと早くなって、しだいに色が消え光の軌跡だけが残り、しまいには真っ白な空間が残った。
それから「とうちゃーく」という声にあわせ、目の前にあの〝大羽神社"の石段が現れた。石段の始まりには、一基の真っ赤な鳥居がでんと構えている。
「待ってるから」
そんな声がしたかどうか、はっきりしないままに視界も意識も薄れていった。ふと気づくと、麓矢はベッドの上に横たわっていた。
(今のはやっぱり夢?でも、あの子の言葉がなんだか気になる)
寝起きでぼんやりした頭で考える。麓矢にとって、こんなことは初めてだった。
さっきの女の子の声はなんだったのか。〝大羽神社"と何か関係があるのか。・・・もしかすると、例の噂にも何かつながっているのではないか。
そう思うと、さっきのは夢のお告げのような気もしないでもないし、少女の声を思い起こすたびに〝大羽神社"へ行かなくては、という気持ちになってしまう。
麓矢はむくりとベッドから起き上がると、窓の側まで歩いていった。カーテンを開けると日は沈みかけていて、夜の気配を感じさせた。時計を見ると、今は午後6時30分だった。
(もう叔母さんは帰ってきたかな?)
そう思った麓矢は、部屋を出て階下へ降りる。リビングには電気がついておらず、自分の足音以外何も聞こえなかった。
外出するならメモを置いていかなきゃと、麓矢はテーブルの上の新聞からチラシを一枚抜き取る。その裏にペンで「出かけてきます。麓矢」と書いた。それからしっかりと戸締りを確認して、家を出た。
外はすこしずつ気温が下がっていくように感じた。まるでまだ夢の中にいるかのように、街は異様なほど静かだった。どこか違う街に来たみたいだ、と麓矢は思った。僅かに感じる得体の知れない恐怖と、夏の夕闇に追い立てられるように、麓矢は大羽神社に向かって走りだした。
ほどなくして、神社の石段の前にたどり着いた。例の噂が本当であるならば、この辺りには警察官がたくさんいてもおかしくはなかったが、誰一人として見当たらなかった。
石段の方へ視線を移すと、麓矢はあることに気がついた。それは以前、ここを訪れたときにはなかったものだった。
(鳥居が、増えてる・・・)
それは奇妙な光景だった。一基しかなかったはずの鳥居は、今や石段を覆うようにずらりと並んでいた。麓矢はこれと似たようなものを見たことがあった。昔、信一と幸子と一緒に京都へ行ったときに、どこかでこんな鳥居を見た記憶がある。確か千本鳥居と呼ばれているものだ。
その千本鳥居が目の前に続いていた。吸い込まれそうな、朱色のトンネル。それはどこまで登っても神社にたどり着けなさそうな、異様な空気を感じさせた。
「さあ、登って」
唐突に、夢の中の少女の声がした。先ほどとは違って、凛とした雰囲気がある。
麓矢はその声にしたがって、一段、また一段と石段を登ってゆく。今更迷いなどない。そんなものは、書置きとともにおいてきたんだ。
(それに・・・)
こんなにわくわくすること、他にないだろ!
恐怖を打ち消してあまりある胸の高鳴り、それが麓矢の答えだった。
◆
108段。それが石段の段数だったはずだ。煩悩の数と同じなんだと、以前信一に教えられた。
しかし今、麓矢が上るこの階段は108段どころではなかった。
「一体いつまで登ればいいの?」
見えない少女に向かって不平をこぼす。もうとっくに100段は上っている気がするが、先は無限に続いているように見える。
「もう少しよ」
「もう少しって、どれくらい?」
「口を動かす前に、足を動かしなさいな」
麓矢の愚痴に、少女は少し苛立ったような口調で応えた。
「俺はどれくらい?って聞いただけ、な、ん・・・」
その後には、だけどという言葉が続くはずだった。言葉を失った少年は、目の前の光景にぽかんと口を開けたまま立ちすくんでいた。さっきまで上っていた石段も鳥居の代わりにあったのは、海だった。瞬き一つの間に世界が変わってしまった、その事実に麓矢はあっけにとられていた。
見渡す限りの水の世界。潮の香りを運ぶ風が、麓矢の髪を撫でては吹き抜けていく。果てしなく続く瑠璃色の海は、陽の光を受けて白く光っている。つかの間、麓矢は雄大な自然の奏でる潮騒に、じっと耳を傾けていた。
波が、麓矢の足元まで寄せてくる。
「つめたっ!」
本物だ。本物の海だ、そう実感した。足の裏で感じる砂のさらさらとした触感も、自分が違う世界に来たのだということを教えてくれる。
「どう?びっくりした?」
「うわぁ!」
背後から、少女の声がした。想像以上にその声が近かったものだから、麓矢はびっくりして海に飛び込んでしまった。
ざぱーんと派手に水しぶきがあがる。なんとか起き上がり、海水をぺっぺっと吐き出しながら声のした方向を見上げると、そこには白いワンピースと麦藁帽子を身につけた、可憐な少女が立っていた。
麓矢にとって、彼女の容姿には覚えがあった。なぜなら彼女の姿は、小学校で3年間一緒のクラスだった中野胡桃そっくりだったからだ。肩までかかる茶髪はつややかで、白い肌に整った鼻筋、大きな瞳でこちらを見据えて、口元は悪戯っぽく笑っている。幼さの中に垣間見える大人っぽさが可愛さをより引き立てて、当時学校中の男子生徒を惹きつけたものだ。
麓矢もその生徒の1人だった。告白までは至らなかったが、淡い恋心を抱いていたのは確かだ。
「なんでクルミちゃんがここに?」
そんな言葉が口をついて出る。
「へー、この子がクルミちゃんなのね。アンタの初恋の人か」
「な、なんでそれを」
「私はアンタの頭の中にいたから、ぜーんぶお見通しなのよ」
とクルミ?は自信満々に、ミステリー小説の主人公みたいな台詞を吐く。
「お前は何者なんだよ」
夢の中ではぐらかされた質問をもう一度。
「まだ分からないの?」
少女はくすくすと笑った。バカにされているはずなのに、美少女の姿のせいで悪い気はしない。
ひとしきり笑ったあと、少女は答えた。
「私はアンタのアニマよ」
「アニマ?」
麓矢にとって聞いたことのない言葉だった。図書館にあった分厚い百科事典には、そんな単語が載っているだろうか。
「アニマは、アンタの理想的な女性像のこと。つまり、アンタが一番好きな人」
「それが、お前がクルミちゃんの姿をしてる理由か」
「なかなか察しがいいわね!」
好きな女の子―――実際には中身が違うのだが―――に褒められると、やはり嬉しいものだ。それがたとえ上から目線であっても。
「それで、どうして俺をここに連れてきたんだ?さっきの千本鳥居はなんなんだ?大羽山の、例の噂と何か関係があるのか?それから―――」
麓矢が矢継ぎ早に質問をすると、アニマは「まあまあ、そんなに焦らずに」とか何とか言って目の前の海で遊び始めた。ワンピースの端をつまんでキャッキャッと声をあげながら駆け回る姿に、麓矢は本当のクルミがそこにいるように錯覚した。
実際のところ、本物のクルミが白のワンピースや麦藁帽子を身につけているのを見た記憶はないのだが。
少女はひとしきり遊んだ後、麓矢のところへ戻ってきた。
疲れたのか、彼女は砂浜に腰を下ろすと、ぽんぽんと手で自分の脇の地面を叩き、麓矢にも座るように促した。
麓矢が隣に腰を下ろすと「えーと、まず最初の質問からね」と、アニマの方から話を切り出した。
「アンタをここにつれてきたのは、いま『こっちの世界』が危機に陥っているからなの」
さっきとは打って変わった少女の顔つきに、麓矢は息を呑んだ。