ハムステーキ
そこの奥さんハムステーキいかが、とスーパー文化屋の、緑色に青のストライプの入った制服を着たおばちゃんが勧めてきた。気付けばそのエリアはもう、ハムの油の焼けるいい匂いがしていて、私も取り込まれているみたいだった。でも、ガム噛んでるんで、と私は断ろうとした。今は誰とも喋りたくない気分で、だから朝一番の空いている時間を狙って来たのだ。狙い通り、店内に人影はほとんどない。でも、その代わり、ターゲットになった。
「ガムいいわよ、これ、テッシュにぺってしちゃいな」と言って、おばちゃんは『テッシュ』を差し出してくる。
ぺってしちゃいなというのが、幼い頃の記憶と結びついて、私は母親が出す紙にぺっと吐き出す時のあの紙越しの温もりを思い出していた。仕方なくティッシュを受け取り、マスクを外してガムをそこに包んだ。そういえば母が出す紙はいつも固めの材質の、街頭で配るティッシュに入っている怪しげな広告の紙だったことも思い出す。いつもそうではなかったかもしれない。でも、あの水分を吸わない紙の表面、てらっとした糊のような感触を唇は覚えている。
「はい、ハムステーキ。おばさん、ここのメーカーのが一番旨いと思うのよ」
爪楊枝に突き刺されたハムステーキは、絶妙に焦げ目もついていて旨そうだった。口に運ぶ。舌が少し熱いと驚いたが、すぐに馴染んだ。
「おいしい」
私は素直に感想を漏らした。
「ねぇ。そうなの。どう、今晩」
私は鼻に抜ける豚の脂の良い匂いを楽しんでから、首を振った。
「済みません。今晩はパクチー丼にしようと思って」
試食のおばちゃんは、パク、と呟いて批難の目で私を見た。
「パクチー丼ってなに? パクチー以外になに入れるの?」
「いえ、パクチーのみです」
そんなまさか。おばちゃんの顔は分かりやすくそう言っている。
「最近の若い人は本当パクチー好きなのね」
そう言いながら手はホットプレートの上のハムステーキを軽業でひっくり返していく。
「いや嫌いなんです」
おばちゃんがひっくり返し損ねた。ハムが一枚、ホットプレートの下に敷かれた青いシートの上に落ちた。
「嫌いなのに食べるの?」
「夫が嫌いなんです」
「はぁ。喧嘩でもした?」
「はい」私は頷く。ジュージューという音が、私の中の怒りを煽るように聞こえてくる。
喧嘩になったのは昨日の夜だ。話題は昨日が初めてではない。子供についてだ。まだ早いよ、俊一はいつもそう言う。俺の仕事ももう少し落ち着いてからでさ。そう言って数年が経つ。俊一は営業課で8年目。いつまでも落ち着かない仕事だという自覚をいつになったら持つのだろう。
「原因は?」
おばちゃんもまだ暇なのだろう、そう話を振ってきた。ほら、もう一枚どうぞ、とハムを勧めながら。
「子供つくる、つくらないで」私は答えた。この話を他人にするのは初めてで、なんで相手はこの試食のおばちゃんなのか、私にも分からない。
「子供ほしいの?」おばちゃんは訊いた。私は頷く。昔から手のかかる子だったよ、お前は、と母は私に言う。初めてのおつかいで私は牛乳を二本買いに行って、帰り道田んぼの水路に落ちた。カマキリを捕まえようとして、袋に入った牛乳の重みで落っこちたんだった。中学の時には自転車で海を目指し、見事ゴールし、自転車を忘れて帰ってきた。サンダルでぺしぺしと地面を叩きながら歩いて帰りたくなったと思ったときにはもう忘れていた。それでもそういうエピソードの一つ一つを母はこっちがむず痒くなるくらい、楽しそうに語る。その話、何度目かと言うのに。
「男はね、子供でいたいんだよ」おばちゃんはついに自分でもハムステーキを食べ出した。
「自分の時間が奪われるとか、みみっちいことで躊躇するの」
「お子さんいますか?」私は訊いた。
「三人。全部男」そう言うと、おばちゃんはへへっと笑った。そうその笑顔。私もその笑顔の人になりたい。
「まぁあれだよ。誘ってやりな」
「誘う」
「色気よ女の。あなた美人なんだから、いいじゃない。私なんか大変よ」
ハムステーキを食べる。ちょっと焦げが強い。おばちゃんに言うと、おばちゃんはホットプレートの電源を切った。大変な話を聞きたいと思ったけれど、そこに他の主婦風のお客さんが来て、おばちゃんは「ハムステーキ試食どう、今晩のおかずに」と喋り始める。
それ以上は邪魔になると思い、私はその場に背を向けて行こうとした。そこに背中からおばちゃんの声が掛かった。
「すっぽん」
「え」
「私はすっぽんだよ」
それだけだった。また別のお客と話し始める。すっぽんは、あのすっぽんでいいのか。一瞬、すっぽんぽんのおばちゃんを想像してしまった。まぁそれは、すっぽんぽんにはちがいないのだけれど。
すっぽんかぁ。と考えていたら昨日の怒り、というよりそれはもうとっくに炎の後の燻った燃えかすであることは自分でも分かっていて、その煙い感じが晴れてきた。押しているカートがぐらぐらと不安定なのは、前輪がうまく回らなくなっているからなのだけれど、そのせいで棚にぶつかった。その棚には鍋のスープが並んでいて、その中にあった。
「すっぽん鍋の素」
私は笑ってしまって、パクチーのことはどこかに消えてしまった。そうやって日常は起こることと消えていくことで成り立っていることを知り、すっぽん鍋の素を手に取ったのだった。
すっぽんの肉は売ってないだろうと思いながらも、私は鮮魚コーナーへ歩を進める。カートの足は、少し軽くなった気がした。