『花鬼』おまけ――って言ったら温泉だよねっ
『花鬼』おまけ――って言ったら温泉だよねっ
「ニッポンと言えば温泉よね」
蛇のように眼を細めながら、ターニャが言った。
「なんだ。いきなり」
「おんせんってなあに?」
シアが小首を傾げる。
「大きなお風呂よ。露天風呂とか洞窟風呂とかレジャー風呂とかあって、みんなで入るの。シアちゃん。行ってみたくない?」
「行きたい――」
わあ、と子供のようにシアが言う。
「決まりね」
ふふん――と笑って、ターニャがドウマに眼を向けてくる。
ドウマは、ふん、と鼻を鳴らした。
「温泉に行くなら私も行こう」
店の中に霧が満ち、次の瞬間、金髪の子供が現れた。伯爵だった。
「どこから出てきた。と言うか、いつもどこで聞いている」
「細かいことは気にするな」
か、ぽーん――
(湯煙漂う浴室で湯桶が触れ合う音が響いている。すわなち温泉旅館である)
「うーん。ちょっと短いわねー」
藍色の浴衣の裾を気にしながらターニャが言う。
髪の毛はいつものように布で隠している。長い首の下に浴衣の襟を下げ、背中を少し見せている。
「おまえの身長に合う浴衣は無いだろう。おれのも短い」
片手を身頃の中に入れて、ドウマは言った。黒無地の浴衣である。
「ふたりとも素敵だよ」
くすくす、と笑ってシアが言う。
こちらは白地に紫陽花の図柄が描かれている。月光色の髪は頭の上で結い上げているが、それでも髪の毛の先は背中の半ばまで垂れている。シアの髪の長さだと、うなじを見せるのは難しい。
「ま、いいわ。ええと、男湯と女湯があるのね。じゃあ、シアちゃんとあたしは女湯ね」
「ちょっと待て。おまえ、女湯に入るつもりか」
「当たり前じゃない。あたしは女よ」
「おまえが女湯に入れば女性客が卒倒するぞ」
「下を隠せば大丈夫よ」
「男湯に行け」
「あたしが男湯に入れば男性客が鼻血を出すわ」
細長い指を浴衣の襟の中に入れ、ノーブラの胸を見せようとする。
「シアはひとりでもいいよ」
「ひとりにはさせられない」
「過保護だね。ドウマオーマ。なら私が彼女と一緒に入ろう」
子供用の浴衣に身を包んだ伯爵が言う。
「なんだと」
「ニッポンの温泉は五歳の子供が女湯に入ることを禁じていない」
「天使のような貌でさらりと言うな。まさか前科があるわけじゃないだろうな」
「人聞きの悪いことを」
「じゃあどうするの」
「むう」
「あの、お客様。お部屋にも内風呂がございますが――」
困ったような貌で仲居が声をかけてくる。大浴場の入口で騒いでいるのだから無理もない。
「じゃあシアはお部屋で入ってるね」
ひとりで大丈夫だよ――ひらひらと手を振って、シアが部屋に帰っていく。
ひとしきり迷ったが、見に行くことにした。ひとりにはさせたくない。
「……今思ったんだけどさ」
ターニャが口を開いた。踏み出しかけた足を止めてターニャに眼を向ける。
「なんだ」
「シアちゃんってお風呂に入ったことあるの?」
「シャワーを浴びているのを見たことしかない」
「見たんだ。という突っ込みは置くとして――花鬼って半分植物じゃなかった?」
「そうだが?」
「植物って高温のお湯に弱いんじゃないの?」
「――」
「ここの温泉はナトリウム塩化物泉だね」
成分表に眼を向けて伯爵が言う。
「塩茹でになっちゃうんじゃ――」
「――!」
からからと戸を開けると、すっきりとした樹木の匂いと柔らかなお湯の匂いが鼻孔を刺激した。遥か向こうまで続く広大な水の広がりが、藍色になりかけた空と溶け合っている。これは海だとオーマが教えてくれた。
帯を解くと、するり、と浴衣が肩から落ちた。
足を踏み出そうとすると、どーん、と地鳴りのような音が響いた。
一陣の風が吹き、シアは眼を閉じた。
背後から誰かの腕がシアを抱きしめた。
「オーマ?」
「ああ」
眼を開いた。景色が違った。
「オーマ。天井が無いよ」
「そうか?」
「空が見える」
「天井が無ければ見えるだろうな」
「壁はどこ?」
「知らん」
振り向くと、オーマと眼が合った。悪戯が見つかった子供のような眼をしている。
くすり、と笑うと、オーマが、ふ、と笑った。
なんだか愉しい。
くすくす、と笑うと、オーマも声をあげて笑った。
海からの風が気持ちよかった。
「あ~あ。どうすんのよ、これ」
残骸と化した部屋の入口でターニャは口を開いた。
伯爵が見上げてくる。
「保護者が責任をとるんじゃないかな」
「保護者って誰よ」
「君以外は未成年だ」
「ちょ。あんた、あたしより年上じゃない」
「見た目は子供だ」
「このひきょー者」
「聞き捨てならないことを」
「やる? あんたとは一度けりをつけたいと思っていたわ」
「いつぞやの続きだな」
伯爵の眼が青白い光を放つ。呼応するようにターニャの爪が伸びた。
この温泉旅館がどうなったのか誰も知らない。
温泉旅館組合のブラックリストに四人の名前が記載されることになるのだが、それは後日の話である。