月の裏側 8
佐伯は無言で、啓祐が手渡した美佳からの手紙を見つめていた。
啓祐はそんな佐伯の横顔を、正座して見ている自分にふと気づき苦笑する。
膝に置いた掌に汗がじっとりと滲んでいた。
緊張しているのだ。
一体何に対し、自分は緊張しているのだろうと思った。
そしてさっきから心の一部分を占めている ある恐れ―――
何処かで美佳が自分を見ているような気がするのだ。
―― あの日。
「須藤くんは誰にも言わないよね」と彼女は言った。
そう言って啓祐の小指に自分の小指を絡めてきた。
指きり。交わされた約束。
啓祐は頷いたわけではない。
けれど、小指を外さなかったことで、それは暗黙の了解として
あの瞬間に2人にとり“約束”となった。
そして、それは決して破ってはならないもののような気がした。
小指を離す瞬間に、美佳が啓祐の目を確認するように覗き込んだことを思い出す。
逸らすことを決して許さない、あの強い眼差しを。
つ きの うら こ こ からだ し
佐伯が手紙から視線を外し、顔を上げた。
そのまま天井を見上げるようにしてゆっくりと首をあげると、深く長い溜息をついた。
テーブルの上の缶ビールに手を伸ばし、
それが空であることに気づいたのか、少ししかめっ面をした佐伯は
そのまま立ち上がると冷蔵庫へと向かった。
「もうビールはないよ」 啓祐が声をかける。
「分かってるよ。お茶貰うぜ。」
佐伯は緑茶のペットボトルを取り出すと、
冷蔵庫のドアを乱暴に足で閉めた。
その仕草に啓祐は、あの日美佳が
足を使い、器用に襖を開けたことを思い出した。
そのまま扇風機のスイッチを、足の指で入れたことも。
「おまえ、この手紙の意味、小島に訊いたのか?」
佐伯はコップに緑茶を注ぐと、啓祐の前にそれを置き
自分はそのままペットボトルに直接口をつけ、飲んだ。
それは佐伯の癖だった。
2リットルのペットボトルでも、そうして飲もうとする佐伯を
「やめなさい」と窘めていた彼の母親の、派手な横顔を啓祐は思い出した。
佐伯の両親は、彼が小学校を卒業したのを機に離婚したらしい。
中学に入り、彼と同じクラスになった啓祐は、
クラス名簿の父親欄に記されていた母親の名前から
彼が母子家庭であることを知った。
特にそのことについて佐伯と話したことはなかったが、
誰かがそれを佐伯に問うたとしても、
佐伯は特に気にしていないといった風で、淡々と答えていた。
ただ、時々 小学校時代のクラスメイトが
彼を以前の苗字で呼ぶことに対しては、神経質に反応した。
ある日、水商売の女について、
佐伯とクラスメイトの一人が口論になったことがある。
「水商売の女は嫌いだ。」 その時佐伯は、そう吐き捨てた。
その日の帰り道、佐伯は啓祐を家に誘った。
啓祐の家を訪れることはあっても、
自分の家に啓祐を呼ぶことはそれまで一度もなかった彼からの
それが初めての誘いだった。
小さなコープの1階の端の部屋で、
裏に回ると、小さな川が流れていた。
川の水は緑黄土色に濁っていて
吐き気を催すほどの臭気に思わず噎せた啓祐に、
「ここで毎日、飯食ってるヤツもいるんだぜ。」と、笑って言った。
――あの日。
机に置かれていた二千円札と、残された小さなメモを
佐伯が隠すように慌ててポケットに入れたことを啓祐は覚えている。
「2食分な、俺の。」 焦った自分を取り繕うように、そう言った彼を。
佐伯の母親が水商売をしていて、
いつも朝方帰ってくるのだということを その日 知った。
佐伯は毎晩、
コンビニで買った弁当を食べているらしいということも。
千円以内で2食分を賄い、残りは小遣いの足しにしていると話し、
「意外とオイシイ話だろ?。」
そう言って笑った佐伯の目は少しも笑っていなかった。
「・・須藤?」
黙り込んでいる啓祐に、佐伯が訝しげに声をかける。
「あぁ・・ごめん。小島さんからは、何も聞いてないよ。」
「本当か?」
「本当だよ。逆に小島さんに俺が質問されたもの。」
「小島がおまえに?なにを?」
「この紙飛行機は、誰が折ったと思うって。」
「紙飛行機・・?」
「うん、ちょっと貸して。」
啓祐は佐伯の手から手紙を取ると、丁寧に線を辿り紙を折った。
あの日、蓮見駅のホームで折った時のように。
やがて、啓祐の掌に紙飛行機がひとつ折りあがり、
啓祐はそれをテーブルの上にそっと置いた。
「な。紙飛行機だろ?」
佐伯は、テーブルに置かれたそれを凝視している。
「・・なんで紙飛行機なんだよ。」
「さぁ・・それは分からないけど。でも・・」
「でも?」
「紙の裏に書かれた言葉が、例えば誰かからのメッセージで
“つ きの うら こ こ からだ し” っていうのは、
“月の裏、此処から出して”ってことなんだと考えれば
紙飛行機っていうアイテムに意味が出てくる・・と、思う。」
「此処から出して?」
「うん。・・例えばだけど、
何処かに誰かが閉じ込められていると考えてみるとか・・さ。」
「・・誰かが助けを呼ぶために、紙飛行機を折って飛ばしたってか?」
「・・うん。」
「・・・・・・。」
啓祐はてっきり佐伯が、「バカバカしい」と笑い出すものだと思ったのだが、
佐伯は意外にも黙り込んだまま、じっと紙飛行機を見つめている。
「いや・・まぁ、陳腐な想像でしかないけど・・さ。」
啓祐は美佳に言ったのと同じように、佐伯に言い訳をすると
緑茶を一気に飲み干した。
佐伯は突然、自分の鞄の中を弄り始めた。
その思いつめたような表情に、啓祐がどうしたのかと尋ねても
無言のまま、鞄の中に手を突っ込んでゴソゴソとやっている。
やがて、一枚の紙を取り出した。
しわしわになった紙に、激安、広告の品 などという文字が見えた瞬間、
啓祐の鼓動が俄に激しくなる。
佐伯は膝の上で、黙って紙を折り始めた。
啓祐がさっきしたように、ひとつひとつの線を丁寧に辿るようにして。
折りあがったそれを、佐伯は啓祐が折った紙飛行機の隣に
放り投げるように置いた。
テーブルに並んだ2つの紙飛行機が、エアコンから噴出す風に微かに揺れる。
「須藤・・これは偶然か?」
「・・・。」啓祐は言葉が出ない。
幾たびも訪れた推理小説の中、よくあるこんな一場面。
啓祐は淡々とその場面を繰り、頭の中で何処かに潜む犯人を密やかに追い詰めた。
それは至極の時間だった。
想像の海の中を啓祐は常に悠々と泳ぎきり、
追いつめた犯人に手錠をかける瞬間には全身が震えるほどに興奮したものだ。
刑事が苦心して辿り着く犯人を、自分はとっくに見抜いていた。
そのことが悦楽となり、彼は夢中で推理小説を読み漁った。
何人も何人も、自分の前に屈する犯人を見てきたはずなのに・・・
今、啓祐は 瀕死の魚だ。白い腹を見せて小さな水槽に浮かび上がる金魚――
「開いて見てみろ、その紙。」
「・・・佐伯。」
「いいから、見ろ。」
「・・・・。」
啓祐は紙飛行機を手に取った。
手が震えているのが分かった。
戦慄が走る。
銅寂びた線。ところどころかすれていて、判別しにくいが
確かにそれは文字だ。
啓祐は目を細めるようにして、1字1字を 指でなぞった。
うそつきの みうら おやこうこう ちから だまし
秒針の流れる音すら聴こえてきそうな静寂を、
ふいに掻き消した救急車のサイレンが、
やはり美佳の悲鳴に聴こえ、
啓祐は文字をなぞる自分の指をじっと見つめた。
小指が震えている―――。