17話
今日は台風でお休み
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真白い場所だった。どのくらいだろう、とりあえず途方も無く続く白が、16対9に360度見える。厳兵衛が用意した空間は無駄に大きく、また無駄に何も無かった。申し訳程度にある椅子に、予め持ち込んだ水やら菓子やらを置いて、今は二人で何も無い所を並んで歩いていた。
「どんくらい歩いたかな?」と千代。不思議とどんなに歩いても咽も渇かないし、疲れもしない。図書館で本を読んでいるとき、ふいにかけるような感じの声で質問してくる。
「うーん……あ、時計止まってる」
デジタル時計が止まっていた。良く見れば88:88とわけのわからない時刻が表示されていた。日付も似たような感じだ。
「冨士原のは?」
「えーと、あ、こっちもだ」千代の三針のアナログ時計も、秒針が1時24分のところで止まっていた。「これじゃあ、わからないかぁ……なんかもう3時間くらい経ってるんじゃないの?」
「うーん……」
さっきから似たようなことの繰り返し。実際、本当に3時間も経っているのかもしれないし、実は30分も経っていないのかもしれない。そう考えると、なぜか疲れない足に疲労感がたまってくる。
「ねぇ……ずっと思ってたんだけどさ、なんで『ブッチョ』で呼ばないの?」
「え?」
小走りで俺の前を通せんぼした千代が言う。若干横を向いているところからして言い辛いのだろうか。
「苗字で呼ぶとかよそよそしいじゃん」
「じゃあ……千代、って呼ぶか?」
顔を真赤に、目を見開いた彼女だったがすぐに後ろに顔を背けてしまう。
「ブッチョでいいじゃん……それとも、千代、がいいの?」
「んー」なんとなく考え込んでしまう。「わかんね」
「わかんないって……」予想外の答えだったのだろうか、落胆する千代。「じゃあ、なんでブッチョって呼ばないの?」
「……それは、なんか……今の冨士原って、なんか違うんだよ」俺の言葉に千代の背中がビクッとする。
「違うって?」
「なんつーかさ、馬鹿やってたブッチョがどっかに行っちゃったみたいなんだよな。今、目の前にいる冨士原がすげー遠くの人みたいに見えるんだよ……で、なんか」
「他人、ってこと?」千代は背を向けたままだ。声が少しだけ大人しくなった気がした。
「……」
声が出なかった。違う。そう言いたかった。
「なんにも、言わないの?」
「……」
「答えられないの?」
「……」
「アタシのこと―――どうでもいいの?」
口だけがパクパクと、鯉のように動いた。顔が熱くなった。目がジンジンするほど千代の背中を見た。それでも声帯は、心は声を出せなかった。
「なんでなんにも言わないの?」
千代が振り向いた。ゆっくりと。これから見る光景が、彼女の中ではハッキリとイメージされていたのであろう。それを見たくない一心で、極力振り向くスピードを抑える彼女。そんなに見たくないようならば見なければいい。なんで振り向くんだよ? なんでこっちを見るんだよ。
「なんで……」なんで、なんで、と心に思いすぎた。心が、声を出した。出してしまった。千代の振り向こうとする足がピタリと止まる。「なんで……何にも言わないんだよ……」
必死に搾り出した声は、彼女の鳴き真似だった。それでも、千代には違う意味に聞こえたらしく、振り返るのをやめてゆっくりと歩き出した。
「何でなにも言わないのか、か」千代は笑ったようだった。「なんにせよ、喋ってくれて、ありがとう」
「……」
「アタシはね、アタシのせいであんなことになったのよ? それなのに、クロヱってば自分のせいみたいにしてさ……なんでそんなにしてくれるの?」
「そりゃ……さ、俺が止めてれば―――」
「止めた」千代が、ブッチョが、振り向いた。それと同時だろうか、真剣な目で、間髪無く言った。「クロヱはちゃんとアタシを止めてくれた。アタシが聞き分けなかっただけ。勘違いしないで」
「勘違いって……」
「クロヱが……」3歩ほど離れた俺達の、二人の距離。
「そんな、つまらないことでそんな態度になっちゃったんなら―――」1歩。迫る恐怖を、俺に対する不安を押しのけて。千代が来る。
「そんなこと、気にしないで。だから、だから―――」2歩。敢えて、不安という俺の懐へ、真直ぐと。ブッチョが来る。
「アタシのこと、ちゃんと呼んで」3歩。グチャグチャになった顔を、めいいっぱいの勇気の結晶で更に汚して、抱きついてきた。ブッチョがくる。「クロヱ」
俺は、そのとき、ちゃんと千代を抱きしめられるか、不安だった。抱きしめられなかった。嬉しさはあった。雨が明けた薔薇みたいに、真赤に染まった千代の顔に負けず劣らずに、俺の顔は曇っていただろう。手がカタカタと震えていた。
「―――抱きしめてくれなくても、いいよ。でも、今は、名前だけ呼んで」
「ち……ぶ……ち…・・・」
「どっちでもいいよ、無理しないで。好きなように、言って?」
「千代」
「え……?」千代の声が、裏返った。抱き締めていた首もとの手を解いて、俺を突き飛ばすように距離をとって、雨が明けた薔薇みたいな、真赤に染まった顔で聞きなおす。「え……?」
「千代」
俺は、しっかりと、一直線に彼女の目を見た。彼女の瞳に映る俺の顔じゃなくて、俺の瞳に映る彼女の顔全体を見るように、深く深く、見つめた。そして、もう一度、叫ぶ。
「千代っ!!」
千代は驟雨のように、強く、泣いた。そして弱弱しく言った。「はぃ……」
数十秒も、数分も千代と名前を呼び、千代はそれに答え続けた。
何も無いはずであろう真白い空間に、俺達の熱と音は響き続けた。
俺達は最初に飛ばされた所にまで歩を戻らせた。
赤と白の1人掛けソファがあったが、俺達は互いを背もたれにして地べたに座っていた。さっきみたいに、抱き締めあったような距離感はなかったが、さっきみたいな、すれ違っていた距離感も無かった。
「本当はさ……利用されてるだけなんじゃないの? って思ってたんだよね」千代が言う。
「利用って……?」首の感触で千代が上を向いたのがわかる。なんとなく俺は下を向いてしまう。下も上も真白く、続いていた。地面が無いように見えた。
「アタシのさ、囮」
「あぁ……それは悪いって思ってるよ。でも、人が何人も死んでるんだ。ほっとけなかったんだよ」
真白の先に何を見出しているのか。それともまぶたの裏の真黒を見ているのか。「クロヱって、そうだよねぇ……」千代が呆れたように言う。
「は?」
「人のためにしか動いてないってこと。夜衛に入ったのだってアタシのためだし、今回のことも。……それに、いつもアタシがどうやったら治るのか、考えてくれてる」
「それは……まぁ」
「自分の責任だし。って考えてる?」もう怒ってないのか、笑いながら千代が言う。
「まぁ……」
「アタシのこと、考えてくれてて、嬉しい」千代の手が、俺の手の上に乗っかり、しっとりと絡み合う。「怖かったんだ」
「え?」
「怖かったの。アタシの姿が急に変わっちゃって」千代の手が熱くなり、カタカタと震え始めた。「クロヱに、嫌われちゃうんじゃないかって……そう思ったら……責め立てるしかなくて」
「そっか」千代の手をギュッと包む。手の振るえが止まった気がした。「そんなこと、ないよ。絶対無い」
拳骨の変わりに、後頭部で、千代の後頭部を小突く。
「絶対無い」
「……そっか」千代が立ちあがる。「アリガト。クロヱ」
「おう」
「それだけ聞ければ、十分。あとはクロヱ達が護ってくれるよね?」
「あたりめーだろ?」
「うん」
丁度その頃合だった。真白い空間の奥から厳兵衛の声がした。
『クロヱ君。冨士原君。準備が出来ました。これから囮作戦を開始いたします。準備はよろしいでしょうか?』
「おう」「勿論」
白い空間が割れ、更に白い光が辺りを包む。光で、視界が遮られる瞬間、千代が何か言ったような気がした。
『クロヱ―――す――――――だよ』
多分、言ったことは想像できる。でも、戻っても聞かないことにしよう。
そう思って、白い空間から出るときの、変な感触を肌で味わった。
$$$
真白いところを出たら、そこは警備員控室だった。目の前には、未来の千代と、厳兵衛がいた。
「いやぁ、どぉでしたか?」申し訳なさそうに笑いながら厳兵衛が言う。
「どぉって?」
「お二人、ですよ。それとあの空間」
「あぁ、あの空間さ、居住性上げてよ」
「そうですか。わかりました」
初めに言ったお二人、のことはこれ以上突っ込まないのか、厳兵衛はそそくさと後ろを向く。
「いやぁ、少々手間を取りましてね。現在の時刻は、あれから2日後の11時45分ですね。あ………いま46分になりましたね」
時計を見ると、止まっていた、いや狂っていたはずの時計はあれから二日後の11時46分を指していた。
「それで?」
「犯人が、まだやる気が在るならば、今日にでも冨士原君を放てば犯人は間違いなく殺しにかかるでしょう」
「千代」
「うん」千代の覚悟は完全に揺ぎ無いものへと変わっていた。「じゃあ、今すぐにでも行くわ」
「閼伽子君達には周辺の捜査をしてもらっています。勿論、今回の内容は話していません。冨士原君の護衛は、私と、クロヱ君となります」
「おう。信用してるぜ。犯人候補さん」
「犯人候補ですか。手厳しいですね」
「自分が心配なら千代が襲われるのを願うんだな」千代のほうを向く。「心配すんな。護ってやる」そう言って千代の頭をワシワシと撫でた。
「よし。行くぞ」
俺達は、20階の頂上から、飛び降りた。今回の着地の殿は厳兵衛。自由落下を地面すれすれで抑える魔方陣が、レスキューの救出マットみたいに俺達を包む。普段は渓原がやる作業なのだが人が違うと着地時の感覚が違うことに気が付いた。個人差、だろうか。
「それでは、囮の冨士原君には繁華街へと行ってその辺をプラプラとしてください。万が一、夜衛の面々に遭遇して保護されても困るので、ビーコンのような術をかけておきます」
「ビーコン?」厳兵衛に人差し指で額をツンと押された千代が言う。
「雪崩などが起こったときに使う探査機械ですね。ビーコン同士が近づくと音が鳴るんですよ。今回は音ではなく感覚でわかるようにしてあります」
ビーコンの感覚は背筋がゾクゾクとして、虫の知らせのような感じです。と厳兵衛が言っていたがさっぱりだった。
「夜衛の感覚がしたらその感覚が消え去るまでその場から離れてください」
「なんでですか?」
「犯人が近い場合は問題ないですけど。夜衛自体を狙わなかった犯人のことを考えても、夜衛が近くにいたら犯行を行わないでしょう」
「なるほど」
「前回の犯行から考えて、事件発生箇所を予測しました。夜衛の面子にはそこから離れるように配置したのですがね。万が一、ということもあるでしょう。知覚系に秀でた……海人水君とか」
「そうですか……」
俺は若干の不安に駆られていた。厳兵衛がいることは有難い。しかしながら、彼はまだ犯人候補。完全に信用できるわけでない。千代と俺のみが信頼に値する。万が一、厳兵衛が切り裂きジャックならば、俺達はかなり危険な状態になる。
「不安ですか?」
「……そうですね、少なくとも俺は。アンタがまだ犯人じゃないってことは確定していない。もし、アンタが犯人なら俺達は大きく戦力を削がれる」
「そうですね」薄ら笑いを浮かべる厳兵衛。映画の悪役みたいな笑顔は、こいつ本当に犯人なんじゃ? と思わせる。「確かに重要なことですね」
厳兵衛は内ポケットからカードを何枚か取り出し、俺に手渡した。
「これは?」
「魔法兵器、とでも」
トランプ程度のサイズの、透明のプラスチックカードには、底が緑色の基盤があり、なにかのメモリーカードかなにかと思えた。それが6枚。それぞれに幾何学模様のマークが描かれていた。
「兵器?」
そうです。と厳兵衛が1枚カードを引き抜く。「いいですか? 良く見ていてください?」
そう言った彼はカードを持った手を虚空に向ける。ボールを投げるようにカードを振ると、カードから紫電が煌く。
「はい。わかりましたか?」
「いえ全然」
「まぁそうでしょう」笑い出す厳兵衛。「このカード。私はオーバルと呼んでいます。ラテン語で卵という意味です。幾何学模様、長円とかも意味してますね。データのインストール次第でどんな魔法でもいけますし。表にプリントした柄も丁度幾何学模様ですし。
で、肝心の使い方なんですけどね。詠唱って手もあるんですけど初心者ですしね。どこぞの音楽プレーヤーよろしくに振って魔法が出るようにしてあります」
「そんな危ないもん、振っただけで出るようにすんなよ!」
「ちゃんとセーフティーもありますよ?」ほらここのボタン、と大雑把に教える厳兵衛。
俺と千代も何回か札を振ったが、紫電や光が飛び出た。
「なんか、これ……銃みたいね。魔法って感じはしないわね」
「そうですね。警察にも支給されているものですし。システマチックなものになっているんですよ。そういう意味では銃と遜色ありませんね」
「警察?」
「そう。特殊部隊、夜衛のような組織ですけどね」
「夜衛とは違うんですか?」
「そうですね……あ、そろそろ現場です。準備しましょう」
ようやく来た。闘いの時が。
俺達は札を半分づつに分けて握り締めた。
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開けた十字路だった。ビルが十字路にかかる月明かりを遮る。更にこの時間帯、当然に人通りは無く車すら通らないこの開けた光景はいかにも魔法の事件といった感じだ。
俺と厳兵衛は、ビルの屋上6階で待機していた。
「手筈は整いましたけどね……正直、犯人……切り裂きジャックが現れるかどうか」と厳兵衛。前は勢いで犯人が現れなかったら、犯人は、夜衛の一員として千代のことを認識していたとして情報の漏洩をし。つまり厳兵衛が犯人の一味であるかどうかがわかると言ったが、良く考えてみれば犯人が現れないのが犯人の気まぐれ、ということも考えられる。厳兵衛はその穴すら見破って笑顔で通していたのだろうか。
「アンタ……わかってた?」
「ええ。クロヱ君の作戦に穴があることは知っていましたよ?」そう言って、笑顔を崩さない厳兵衛。「まぁ、確信……とまでは行かないですけどある程度の自信はありますよ」
「自信? 犯人が来る根拠でもあるのかよ?」
「そうですね」
厳兵衛が感じている根拠とは、残留思念にあるらしい。
残留思念とは、なにか心境が大きく動く行動などをした場所に残るその人物の感情らしい。それはDNAのように個人個人で若干違ってくるらしく、そのときの感情によって、所謂感情の色が違うらしい。現在の法廷の証拠品にはならないが、警察でも秘密裏に思念を通じて犯人を割り出して、あとから証拠品を徹底して探すなどの方法が通っているらしい。
そして、厳兵衛の自信の裏づけの話に戻るが、犯人の残留思念の色。つまり犯行時の感情だが、怒りがベースとなっているらしい。つまり、犯人は、非常に相手を憎み、殺害したということになる。囮捜査員も若干の差はあるものの、殺害時の犯人の感情は怒り。その恨みの対象となっているのが娼婦。お水系の商売をしている女性らしい。刀禰館のちょっとした発言で犯人は切り裂きジャックと名付けられた。
ジャックは、史上では6人殺したのだが、今回は、囮も含めると、それ以上にもなり凄惨な事件と化している。
厳兵衛を包む雰囲気が和らぐ。「私は、今度の囮は……成功する。ジャックは現れると思いますよ」さぞかしの自信を持つのか、2度も言う。
屋上から吹く風以上に、厳兵衛の声は冷たく、透き通っていた。風は千代のところまで吹きつけ、彼女の髪を撫でる。交差点は相変わらずに誰も、何もいずに、月明かりさえ何かの音に聞こえるほどだった。
「根拠は、残留思念だけ……ってことじゃないみたいだな?」
「ふふ、それだけですよ、確信は。後は、勘だけです」
「……ま、いいよ。思念とか言われてもね。勘とかのほうがよっぽどましだわ」
「ははは。でしょう? ……でも、もうそんな時期じゃない」
場の空気が変わる。
来た。
千代はまだ気付いていないようだった。
そうだろう、切り裂きジャックは、俺の後ろにいるのだから。
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厳兵衛が言い終えるかどうか、切り裂きジャックは俺達の後ろに立っていただろう。気付くと、名通りの鋭い、冷え切った殺気が、俺の首を今にも切り落とすように狙う。
「まさか……こちらに来るとは」
「――――.――.」
未だに振り向きその姿を目に移していないが、耳でわかった。こいつ、人間じゃないのか? 本に憑く魔からしか聞いたことのない音がした。
「……副音声ですか。クロヱ君には解らないですよね」
「―-.―――――-..」
黒板を引っかくような、ヒステリックな音が、俺の耳を突き刺す。
振り向いた先には、甲高い音の先には彼がいた。
真黒いコート。真黒く、長いシルクハット。そして、大きく、血に赤く錆びた鋏。口には奇妙なポストカードのようなもの、ポップな唇がワンポイントとしてプリントされている。
「切り裂きジャック」
その容姿は、恐怖感を掻き立てて、鳥肌は、首筋を無いはずの刃から首を護るかのように収縮する。
「ダメだ!! クロヱ君」
厳兵衛が気付いて声をあげていたときには、俺はポケットからカードを取り出す。ストッパーを解除して、カードを振る。
カードから透ける緑色の基盤の線が光り、その端から漏れ出すように紫電が駆け、ジャックへと牙を向ける。
だが、紫電は、重苦しい銀色の刃に遮られる。
「―――....―.――――!!」
パリパリと光る鋏は、振り下ろされたスピードをそのまま、空で回り頭へと振ってくる。
「クロヱ君!!」
鋏が、頭一つ分の距離で止まる。厳兵衛の腕が鋏を止めていた。
「クロヱ君。君はまず、冨士原君のことろへ……」
「わかった」
そういってフェンスを陸上のハイジャンプの要領で飛び越える俺。千代は音で異変を察したのか、俺達のいたビルのほうを凝視していた。
「クロヱえええええ!!!」
「千代!! 着地のカード!! 忘れたッ!!」
「えええっっ!?」
厳兵衛からもらったカードは6枚。それぞれ、紫電が2枚。楯が2枚。それと、着地と疾走が1枚ずつ。そのうち俺の持ってるカードは紫電、楯、疾走だった。カードにプリントされたこのマーク。メチャクチャ似ているから間違えてしまった。
そんなことはさておき、ビルは6階。落ちる時間は5秒あるかないか。千代が慌ててカードを探すのが見えた。もう何秒経ったんだ?
「あった―――!!」
次の瞬間。いつも図書館から落ちたときとは、若干硬い何かに包まれる。
「……死ぬかと思った」
横では千代が呆れたのか、安心しているのか、よくわからない表情で俺を覗き込んでいた。
「馬鹿じゃないの?」
「そうかも……千代。ジャックが出てきた。逃げるぞ」
「やっぱり。でも逃げるって?」
包んでいたものが消えて、自分の腰くらいの高さから背中から落ちる。
「ぐぇ……っつつ、逃げるって……俺達じゃ相手にならない。足手纏いだ」
「そうじゃなくて」
「え?」
「折角、人払い? してるのに。人目のつくところにジャックが出たらダメでしょ?!」
「そうだな……そうだ」
疾走のカードを取り出す。
「なに? それ」
「疾走のカード。これで閼伽子達をここに呼び出す」
「ケータイは……だめ。繋がらない。でもどこに閼伽子さん達がいるのか知ってるの?」
「大丈夫、調べといたさ。一番近い海人水さんが、こっから12km。厳兵衛がさっき言ってたとおりなら8分もあれば着く」
カードのストッパーを解除する。すると、カードを振らずとも足の疲労感が消え去り、回路のような線が足に浮かび上がる。
「千代。抱っこかおんぶ、どっちがいい?」
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厳兵衛はどちらかといえば、技術畑出身というべき存在なために戦闘は苦手だった。
「クロヱ君達は……功徳君たちを呼びに行きましたか。いい判断ですね」
故にだろう。かなり息が上がっていた。立っているのもやっとのことだろう。
「さて……この後はどうするつもりですか? ジャックさん?」
息が上がっているのはジャックのほうだった。
肩で息をするたびに鋏が上下し、ゴンゴンと鈍い音がコンクリート越しに伝わる。
「―――.―..―――-....な――ナゼ?」
ラジオのチューニングをするような感じでなんとか普通に解せる言葉を喋るジャック。
「あら。副音声が喋れなくなるくらい疲れました? いけませんねぇ。闘いって実験場に入ると何でも験したくなってしますから」
言いつつ、尻ポケットから取り出したのはカード。基盤の透ける魔術の兵器。だが当然の如く、それはクロヱの持っているようなものを遥かに凌ぐものだった。
「――...―」
厳兵衛が副音声というべき言語を発する。次にはカードの基盤は仄かに発光して橙赤色の水が飛び出る。
「!!」
ジャックが鋏でガードするも彼は気付く。
「さて……君は試金石足る存在かな?」
鋏が、バカデカイ金属の塊が溶けた。
「もっとも、金なら溶かしてしまうけどね」
「バカナ。コレハぷらちな製だゾ……」
「あっはっは。それは残念でしたね。銀なら溶けずに済んだのに」
「ナンダ。キサマ……ミカケヌカオだとオモッタラ」
「そうですね。私は、環境省自然災害対処課所属禍祓部隊「夜衛」7代目隊長名大和権厳常夜守厳兵衛継承者。厳兵衛です。長い名前なので覚えなくてもよろしいですよ」
「……ふン。王水か?」
「正解です」
王水。濃塩酸と濃硝酸とを混ぜるとできる物体。非常に酸化力画強く、通常の酸には溶かせない金や白金おも溶かす(銀や一部の金属はと貸せないが)劇薬である。
「私、技術者ですから。化学も嗜んでるんですよ。アナタの鋏。先程カードで調べさせていただきました」
笑いながらカードをひけらかす厳兵衛。表面にはPt 78と浮かんでいる。元素記号と番号だ。
「その光沢のある淡い色。パッと見て大体の判断はつきましたから。でもデータに頼るのは大事ですよね」
カードをしまって、ポケットから別のカードを取り出す厳兵衛。
「このカード、王水発生装置です。普段は周りの被害も凄いので使わないのですがね。流石にプラチナとなっては……」厳兵衛が唾をカードに飛ばす。「一応、体内のアンモニアと胃液をかけて作ったんですよ? なかなか辛いんですよね。これ」
透明な唾が次第に橙赤色になり、コンクリートに垂れる。
「ソレ……うそダロウ?」
刃が半分ほど溶けて無くなった鋏を放り捨てるジャック。ポストカード越しの声は若干ノイズのようなものがかかっていて声の判別が上手くつかない。
「ばれちゃいました?」
ケタケタと笑う厳兵衛とジャック。んべぇ、と舌を出す厳兵衛は足元に転がっている鋏に唾を飛ばす。
「そう、カードは嘘です。王水は私の体内で作っちゃいました」
厳兵衛の笑い方を真似するようにピキピキと鋏が溶けていく。
「ナゼ? そんナコトガでキル? おまヱ。オレトおなジなのか?」
シルクハットにジャックが手を突っ込み、数回弄ったかのような仕草をすると、帽子から先程の鋏よりも一回り小さい鎌が出てくる。
「ははは。ワタシは手品師じゃあありませんよ。ただの始皇帝ですよ」
「始皇帝? ドうイウコトだ」
病的にまで真白く染まったジャックの顔は骸骨のように見えて、大鎌を持つ姿は、まさしく死神のようだった。
「それは―――」地面を勢いよく蹴る厳兵衛。コンクリートにひびが入り、破片と共にジャックを目指す。「闘りながら話しましょう」
「―――...―」
ジャックの嬉しさを伝えているのだろうか。一層高く、けたたましい音が屋上の落下防止フェンスを揺らす。
厳兵衛は懐から一枚のカードを取り出し、ジャック同様に高い音を出す。これが彼が前回言ったような『詠唱』である。厳密に言えばジャックの出した音とは別のモノであるが、それはジャック同様にフェンスを大きく揺さぶる。フェンスの揺さぶりとともにカードも揺れ表紙の幾何学模様が揺れる。
「ワタシは、秦の始皇帝なんですよ」
クロヱのカードのように紫電がカードに走る。しかし、紫電はカードから弾丸のように離れずその場に留まる。まるで刃、ジャックの鎌のように。
「不老不死、って知ってますよね? ―――そう、人類の願い」
二つの大鎌はお互いの顎を喰い千切るかのように牙を向けあう。初撃、刃が交わって火花の変わりに紫電が周辺に漏れる。
「水銀をそのクスリとして不死を得ようとする。大勢の人間が死にました……」
柄の部分で競り合い、二人は距離をあける。どうやら実力は拮抗しているらしい。そう二人は実感した。それなりに力をこめた一撃。二撃目には若干の差が生じるだろう。今は攻めるタイミングを待とう。これも互いに思った。厳兵衛は話し、ジャックはこれを聞く。それにより攻めのタイミングを見出そうとした。
「……勿論、水銀は有毒ですからね。でも、私には血清、のようなものがあったんですよね」
ジャックは痛感していた。「攻める隙がみつからない、流石は厳兵衛の名を継ぐものだ」と。気がつけば、鎌の重さに柄の先を地面につけていた。
「偶々、ですかね。理由は不明ですが、現に生きているんですよ。キリストよりも2世紀ほど長生きですよ」
「ソレが、なんデコンなトコロに?」
「まぁ、紆余曲折はありましたけどね。私の2代前の厳兵衛のおかげですよ」
夜衛7代目隊長名大和権厳常夜守厳兵衛と、厳兵衛は言ったが、そのとおりで厳兵衛は、社長会長のように役名である。
「そこから、私は始皇帝の名を捨てて、厳兵衛となりました。―――そろそろ、いいでしょう? ジャック君? 昔話には若干長いですよ」
機は熟した。二人は痛感する。厳兵衛は指を鳴らす。ジャックは鋏で地面を叩き、反動で跳ぶ。
「再開ですね!!」
鎌が再び交わる寸で。紫電の顎が消える。
「!?」
虚を衝かれ、ジャックの空中でのバランスが崩れる。
ジャックの崩れた方向、タイミングに合わせて厳兵衛が逆に跳ぶ。このタイミングで? ジャックは不審に思う。そして、気付く。
「私、魔法が苦手でして。1枚のカードしか使うことが出来ないんですよ」
鎌をしまったのはこのためだった。地面に置かれた、別のカードを使うことだ。罠、つまりカードの上には丁度ジャックがいた。
「不老不死になっちゃうと、大概のことができるんでね……あ、そうでした。ジャック君は死んじゃいますか?」
二度目の指パッチン。一度目は設置のため。二度目は、スイッチ。設置に使われたカードは爆発、地雷だ。
地雷についてはよく知られているっであろう。それは、一定の重量などがかかると作動、爆発する兵器だ。
地雷は大きく二分類されるが、今回、厳兵衛が使用したのは対戦車型と呼ばれるもの。
一方の対人型は人間の足を踝ほどまで吹き飛ばす程度のモノだが、前者はトラックなどを破壊するには十分すぎるほどの威力を持つ。
この二つの地雷の違いだが、加重がポイントとなってくる。
しかし、今回の彼のカードの発動キーは魔力にあった。
話は変わって、現時点でわかっていることで、魔法、仏法、気功……それらに関係してくるエネルギー源、魔力、気力などは精神的エネルギー、よく言う気合などと言われてきたが、近年、そのエネルギーが解き明かされてきていた。
気合とは即ち、感情に左右されるエネルギーである。
そして、魔力、気力は科学的に解明されつつある状態だ。
人間の感情というのは脳の細胞の働き、つまり化学反応で生まれる。脳の神経細胞であるニューロン。その連結部分であるシナプスが、また別のシナプスとの間で、神経伝達物質であるモノアミンも受け渡す。それを繰り返してニューロンに運動を伝える。それにより生じるもの、それが感情である。
神経伝達物質には、興奮状態を作り出すアドレナリン、快楽を得るドーパミン、鎮痛作用を及ぼすエンドルフィンなどがある。
最近の研究では、その神経伝達物質にこそ魔力たる根源がないのかと懸念されていたがついに発見。
クレアートン。ラテン語で、創造主を意味する、Creatorから名づけられたそれは、他の神経伝達物質に反応して、体内にあるATP(アデノシン三リン酸)に作用。人間が筋肉を使うときに消費されるエネルギーは、ATPがADP(アデノシン二リン酸)に変化するときのエネルギーから来ている。
クレアートンは、ATPがADPに変化するときに若干の音を鳴らす、という効果を付け足すだけのモノらしい。
そして、魔法発動時には詠唱、つまり声帯振動に使われる筋肉や、動作などで筋肉を使うときにクレアートンが効果をあらわす。
若干の音。その音がポイントなのだ。ジャックが行った副音声。その音と、クレアートンによる筋肉振動の音はほぼ同一。
最後に、その音が世界に対しての機械語(自然が直接解釈、実行できる言語)であって、直接的か、間接的かは知れないが、世界に作用してその結果として魔法が使えるのではないか。というのが現時点の魔法学会の最注目の論文だ。
結果として、魔力は、人体が分泌する化学物質ということだ。
その魔力に反応してカードが爆発する。
トラックさえ簡単に破壊できるそれが直撃した。
「……この程度じゃあ、吹き飛びませんか」
白金の鎌は帽子の中に消えたのか、煙の中からあらわれたジャックの両手には、体をすっぽりと隠すようにして巨大な白金の楯があった。
「あちゃあ……王水使うべきでしたね」
ジャックのポストカードは傷一つ無く、そのポップな唇は不気味なほど怪しく喜んでいた。
$$$
人払いの魔法が作用しているのは、待ち伏せた交差点から半径700mほどだ。それを越えるとポツポツと人が見えてきた。
「クロヱ、この速度が見られたら不味いわ。ビルの上に跳んで」背に負ぶった千代が言う。
「わかった」
疾走のカードを使った俺は12kmを約8分で行けるらしく、その速度は90km/h。その脚力は凄まじいものとなっていた。
「千代。楯!」
カードを取り出す千代。疾走と別に厳兵衛に渡されたカード、楯。
「なにに使うの?!」
「いいから、楯出して!」
「う、うん」
カードのロックを外して、魔法を振り出す千代。耳がキーンとなって目の前の空間の透明感が変わる。楯が現れたのだろう。
ホップステップジャンプの要領でその場を跳ぶ。透明度の差を見て、感覚で楯を、足場を踏む。
着地時、グニャリとした感触があったがすぐに固まりバランスが戻る。
「行くぞ。あと、2個ぐらい楯だして!」
「えぇ!? いきなり言われても」
屋上に着くと、待ち伏せ場所がいかに静かだったかがわかる。街灯が少なかったせいか、比較をしても煌びやかなこの下の大通りは空気すら煩く感じた。夏場の熱い風が、ダブダブとしたTシャツをバタバタはためかす。
「はぁ、はぁ……疲れた」
厳兵衛がシナプスがどうのこうの言っていたが、魔法を使いすぎると疲れるらしいのは本当だった。まだ、4kmほどしか猛ダッシュをしていないのに先程の何でも出来そうな感覚はもうなかった。クレアートンとかいうなんかがアドレナリンなどと反応したために、なんとか伝達物質が本来の役目を全うできなかったからだったか。化学っぽい講釈なんて覚えてない。俺はもうノリで、説明書見ないでゲームをやる感覚で魔法を使っていた。千代もなんとなくわかったらしく、無茶言ってもなんとか反応してくれる。
「大丈夫か? 千代」
「はぁ―――うん。平気」俺の方をバシバシと叩く千代。「さぁ、あと8km!! 行くよ」
「おう」
はるか背後で聞こえた、ガス爆発みたいな音は厳兵衛が闘っている、生きているであろう証拠だ。それが止むまでに一番近くの海人水を連れていかなければ。
超能力映画の最初のシーンみたいな感じでビルを駆け抜ける。飛び抜ける。透明感のズレた楯が下の光りをいい感じに反射させたりして、光の絨毯を走っているかのようだった。
相変わらずの謎理論。ぐーぐる大先生に感謝