壱話
1話目の書き直しです。
不意に目に留まったものに心を奪われる、とまではいかないが、目ならば奪われたことは一度くらいはあるだろう。
もちろん、俺だってそうだ。今、俺の手元には一冊の本が、その表紙を捲られて乗っている。
序文
本書は護身から殺法までの大変幅の広い科学についての教科書、参考書として記されたものである。
我々が陰陽道を学ぶ目的は、自然に対しての科学的な見方、考えを身につけると同時に人としての道、存在を知り、並びに学ぶ為の基礎を築き、養うことである。
現代は科学技術の時代といわれるが、この考えはこの本の初版、即ち1039年当時には定着していなかった考えで、その考えは幕末前後と考えられている。
この科学は物質を通して霊魂、気、脈を反応させ技術発展に貢献するものである。新しい知識は、新たな技術と結びつき、新たな技術は、新たな反応を見出す。
将来、この道を歩む者は、どのような分野を進むのであれ、科学技術により見出された方法に接して、そして各種プロセスに関わる限り、根底五行科学としての陰陽道の知識は必須である。従って、本書の陰陽道の内容は現世での単なる教養の科学以上のものでなければならないと考える。
このたび大黒出版の申請もあり、現世で実際に陰陽を教えている多数の先生方のご協力により、一般大衆対象の最適で、最新の内容を含む陰陽教科書を上梓できたことはまことに幸いである。
本書の編集にさいしては、多数の先生方のご意見、ご要望と、環境省超自然対策本部直轄対策指南方法改善専門委員会陰陽道部会の報告書の提言をできる限りに考慮をし、反映をさせたつもりである。即ち、一般大衆検定教科書の内容を骨子として網羅した上で、超自然物質分析、新術法、国外超自然対策術法などの最近の技術の進歩を紹介する章を設け、更に幽子構造や、霊体力学などに関する少し程度の高い内容を参考として小活字て平明に記述した。また、大衆が陰陽に興味を持つように各章のはじめに簡単な行なえ、教育効果に大きいと思われる演示実験を記載した。
読者諸君等が、本書を通して技術者として必要な陰陽の知識の基礎を修得し、また陰陽の面白さ、重要さ、並びに日々の生活を安全に過ごせるようになっていただく事を願っている。
平成4月1日
監修者 土 御 門 双 厳
ある程度は知り尽くしたと思っていた町に、新しい裏道などを発見したような高揚が、俺の中に充満していた。
時刻は午後の五時を過ぎた程だろう。オレンジ色の光が、広大な図書館に暖かみと、虚しさの表情を引っ張り出している。この階にいる学生は、俺たち図書委員を除いても二桁を超えるかどうかといったところ。人口密度はカナダと競い合えるだろう。放課後の素敵なイベントを期待してなのか、もしくはそれを既に諦めているのか、彼等は本にかじりついていた。
そんななかで俺は、とても悲しんでいた。「こんな本を見つけたんだぜ!?」そう言って『新編 現代の陰陽道 第803版』つまり、この本を見せて笑い合うほどの仲の良い奴が、ここにはいないからだ。
「陰陽道ねぇ……」
そう誰に聞いてほしいでもない小言を漏らし、本のページを捲る。このまま本を閉じて委員会の業務に戻ろうかとは思ったが、なんとなく惹かれ、気がつくと数十ページは捲っていた。(本の内容はあまり頭に入っていないが)
本をペラペラと捲っていくに連れ、いつの間にかこの本を借りたいと俺は考えていた。
「ブッチョー、この本貸して」
同階のカウンターに本を持っていって彼女に話しかける。すると、途端に彼女の表情が変わった。
「何してるの。どうした仕事は、クロヱ?」
「あー……これ読んでた。悪ぃ、ブッチョ」
俺がブッチョと呼んだ彼女が、図書委員会の会長。冨士原 千代だ。ブッチョは彼女のあだ名で、その由来は、彼女が兼ねて参加している郷土歴史研究部の部長から。というのは表向きであって、彼女が、かの黒い魔術師ことアブドーラ・ザ・ブッチャーの大ファンであるところからだ。勿論、彼女の好きな曲はピンクフロイドの“吹けよ風、呼べよ嵐”だ。
「クロヱが本に興味を持つなんて珍しいね」
ブッチョが持っていた本を引っ手繰る。
「……新編 現代の陰陽道? あぁ、さっきアタシも見かけたよ。少し気になってたんだよね」
「んー。ちょっと読んだらさ、なんか面白くなってきちまって。ていうことでその本貸して」
本の背表紙を見てブッチョが溜息を吐く。
「クロヱ、図書委員なんだからこれくらいのことは……ねぇ?」
背表紙を指すブッチョの指の先を見ると、そこには赤いシールが張ってあった。
「貸し出し禁止書籍のマークじゃん」
「仕事ほったらかして、そのまま本読んで、で業務内容も忘れるなんて……」
「じゃあさ」俺がブッチョの耳元に寄る。「貸してくれない?」
そのままブッチョのヘッドバットが俺の鼻を捕らえた。鼻を押さえ、目じりに涙をためる俺にブッチョは、人差し指でカウンターをコンコンと叩き、ここで読みな、とゼスチャーをする。
「……ここで読むって選択肢が無い俺はどこで間違えたかな?」
オフィスにあるような回転椅子に座っていたブッチョは、少し下がり、九十度ほど回転して本を広げる。
「多分、産婆さんの選択からでしょうね」
本で表情が隠れているために、ブッチョが本気で言っているのか、冗談で言っているのか、確認は、声のトーンだけではいささか不十分だ。
「俺は普通に産婦人科でだよ。今時、産婆なんていないだろ?」
「あら、アタシは産婆派よ? 知らない? 人の一生の運勢は産婆が決めるって、システム化された産婦人科なんて、産婆のマジカルパワーに比べたら……クロヱの運勢、ダダ下がりね」
「おめぇ、産婦人科に謝れ。なんだその迷信」
そしたら、ブッチョがカウンターにおいてある本を人差し指でコンコンと叩いた。
「じゃあこれは? これだって迷信じゃない?」
読んでいた本を置いて、『新編 現代の陰陽道 第803版』を手にとって読むブッチョ。本の内容はどうあれ、落ち着いた感じの、いかにも図書委員してますなんてオーラを滲ませているブッチョに、本を持たせ、この時間の図書館に座らせていたら、なんと絵になることか。これが推理小説やらエッセイなんて本を読んでいるのなら、この光景はもっとそれらしさを挽きたてていただろう。確かに似合ってはいるが、ブッチョが今読んでいる本がオカルト本で、それを真顔で読んでいるブッチョもブッチョで、とてもシュールだ。
パタンと、篭ったような音を立て、本を閉じるブッチョ。
「これってエイプリルフール?」
「え?」
ブッチョが序文のところを見せてくる。発行日には四月一日とエイプリルフールの日付だ。たしかに、宇宙工学などの本がまとめておいてある棚にポツンと置いてあった『新編 現代の陰陽道 第803版』そして悪ふざけのような内容は確かに嘘っぱちかもしれない。
「でも、これ面白いわね」
俺との会話のキャッチボールが全く出来なかったためか、それかこの本か、ブッチョが笑う。嘲笑ではなく、面白いものに出会ったときに浮かべる笑みだ。そこらの男子学生ならば、その笑顔で恋をするだろうが、小さい頃からの腐れ縁で、彼女の素顔と伝説を知る俺はまだ彼女にときめかない。全く問題は無い。
「ねぇ」ニンマリと、粘っこい笑みを俺に向けて浮かべるブッチョ。こういうときはブッチョに限らず、九割ほどの人類はNGな考えをしているだろう。「その本、貸してあげようか?」
「あ? 何で急に」
勿論、貸すのには条件があります。と、人差し指を立て、ドヤ顔でブッチョが言う。
ふと辺りを見回せば、図書館にいた数名は既に消えていて、いた痕跡すら見当たらない。
何故、あのとき本なんて借りたのだろう。そうすればあんなことにならなかったのに。
あの時の俺の右手には『新編 現代の陰陽道 第803版』と、ちょっとの不安と、いっぱいの期待が握り締められていた。手汗は少し早いが梅雨のように、いきなり湧き出たが、すぐに引っ込んだ。
オレンジ色の光は、暖かみを少しずつ削っていき、虚しさとロマンチックを満たしていった。
一番星は、まだ光っていなかった。
* * *