第5章 闇から来るもの
怖いテレビや映画を見たとき、決まってボクは眠れなくなる。
特にそれが闇に潜む怪物や幽霊の話であればなおさらである。
『東海道四谷怪談』
ワタシは今でもあれを好きにはなれない――怖いのだ。
欲に目がくらみ、女を裏切る主人公。彼は邪魔になったヒロインを知り合いに頼んで薬を与え毒殺する。主人公によって謀殺されたヒロインは怨霊となって主人公を追い詰めていく。ついに主人公は気が触れてしまい……
扉を開く、振り返る、主人公の死角から次々と襲い掛かる幽霊の演出に、ボクはトイレにいけなくなるほど恐怖した。今でもワタシはシャワーを浴びるとき、ふと、背中にいやな気配を感じることがある。
そしてあの日の夜も……
ボクは布団に入ってもなかなか寝付けないでいた。隣からは弟の寝息が聞こえる。
両親や弟はもうすてに眠ってしまっているようだ。外では風に吹かれてときより風鈴の音が響いていた。
ボクは目を瞑っているのがつらくなり、ただ、ぼんやり天井を眺めていた。我が家では完全に電気を消さない。豆電球のオレンジ色のやわらかい光が、天井から降り注ぎ、あたりを薄暗く照らしている。
ふと、なにか薄明かりの中でうごめくものを見たような気がした。
……なんだろう?
天井のちょうど自分の真上。顔の位置よりも首から胸のあたりになるか?よく見てみると、それは小さなシミのようで、木目の模様のようのようで、或いは、虫のようで……
虫?蜘蛛かハエかゴキブリか?
或いは……毛虫?
公園でU治の背中から払い落としたあの毛虫。あれはボクをめがけて這っていた。それは間違いない。だいたい、毛虫に目があるのか?ボクだと認識できるのか。単なる偶然、たまたま進行方向にボクがいただけじゃないか?たまたま。そう、たまたま、U治の背中に、何かの拍子で木から落ちていてきたのだろう。
ただの偶然に決まっている。
天井の板に今までまったく気にならなかった小さな模様か或いはシミのようなもの。
いつからあったのか、全くわからないけど、でも、ボクは考えてしまった。あの公園で振り落とした毛虫が、ここまで追いかけてきたのではないか?という疑問――恐怖を。
もはやボクにはそのシミを無視することはできなくなってしまっている。瞬きをするたびに、少しだけボクの顔に向かって天井を移動しているように思えてしまう。
そんなはずはないのに……
いや、実際少しずつ動いている――いや、それは錯覚だ。
でも、ほら、こっちの木目と比べて、もう少し下のほうに、最初は見つけたのではなかったか?
――いや、ちがう。そんなはっきりとは覚えてないし、ちゃんと位置を確認したりしてない。
今はその位置を正確に確認している。
大丈夫動いていない。
動いていないが、少しだけ、大きくなってやしないか?
うん、そんな気がする。
――いや、そんなはずはない。
だって、大きさを比べるようなものは周りにないから、それもただの錯覚さ。
ほら、こーして手を伸ばして、自分の指の大きさと比べてみればわかる。
うん、時間がたったらもう一度やってみればいい。
きっと大きさはかわっていないさ。
ボクは冷静だった。ちゃんと大きさが計れるように、自分の指を天井に突きつけて、絵を描くときに画家が筆や指で対象物の大きさを測るようにすることで目の前で起きている『錯覚』を解明しようとしていた。
――大丈夫、ボクは冷静だし、ちっとも怖くなんかない。
幽霊の正体なんて、だいたいそんなもの。UFOだって、ほとんど錯覚なのだから。
目を閉じていたのは、多分1分にもみたなかったに違いない。だが、ボクにとっては、1分以上に感じだし、この異常な事態を検証をするのには十分過ぎる時間だと思われた。
ボクはなんの恐れもなく、目を開けて、あの忌々しい模様の大きさを測ろうとした。
だが、そこに、さっきまであったはずの模様はなくなっていた。
まるで部屋の中の闇に溶け込んでしまったかのように、姿を消してしまっていた!
ボクは、ボクは、ボクは『恐怖』した。
どんなに目を凝らしてみても、どこを探してみても、それはもう『そこにはなかった』。 さっきまで、どこかぼんやりとしていたけど、それでも確かにそれは『そこにあった』。
『あったもの』が『なくなった』のか?『あったもの』が『見えなくなった』のか?
『なかったもの』を『見ていた』のか?『見えないもの』が『見えていた』のか?
『なかったものが見えていた』と『あったものが見えなくなった』では、現時点においては同じ状況ではあるが、まったく違う『将来の予測』が成り立つ。
もし、『あったものが見えなくなった』のであれば、それはボクにみえないところに存在し、つまりはボクのすべての死角にそれは潜んでいる可能性があるということである。『なかったものを見ていた』のであれば、それは『なかった』のだから、そもそも存在しないものということだ。
何故それが見えたか?はいくらでも理由がつけられるし、極端、もう見たくなければ、目を瞑り、寝てしまえばいい。しかし、『あったものが見えなくなった』というのは、ボクの視界の及ばない遠くへ行ってしまい、時間軸では存在するが、位置的には存在しない状態であればいい。
が、しかし……それを今、『確認』することはできない
解決をしてくれるのは、このまま朝までそれを見ることができないという、観測による確認。『見えない』ということは『ここにはない』ということを証明するしかない。
だけど……だけど、だけど
もし、ボクの死角にそれが潜んでいるのなら、ボクはどうすればいい?
そんなことを考えているうちに、ボクの五感の感度は最高値にまで高められていった。
些細な音、台所で旧式の冷蔵庫がぶーーん、ぶーーんと唸る音
パッキンが緩んだ水道から水滴が滴り落ちる音
目覚まし時計が時を刻む音
カチ、カチ、カチ、カチ……チカ、チカ、チカ、チカ……
あたりには『シーーーン』という空気が張り詰めた音
やがてそれは『キィーーン』と音量があがってくる
どんなに耳をすましても、どんなに目を凝らしても、今はその存在を確認することはできない。あの黒いシミのような、模様のような、あれはなんだったのだろうか?ボクは、言い知れぬ恐怖を感じながらも、それがなんであるかを確かめずにはいられなくなっていた。
ボクは観測を始めた。
時計をみる。
11時20分―異常なし
11時30分―外で猫の鳴き声?
11時36分―誰かが寝返りをした。たぶん父だ
11時45分―遠くから電車の走る音
11時51分―もうすぐ12時。こんな遅くまで起きているなんて、親にばれたら
怒られるな
11時58分―12時になったかとおもったけど、12時になったらもう寝よう。
眠れるなら
ボクは頭の中で、120秒をイメージした。きっとそんなことを数えているうちに寝てしまうだろう。だって、いままで、成功したことはないから……しかし、期待に反して、ボクの意識ははっきりとしたままだった。しかたなくボクは長い針と短い針が天井をさす場所を見上げた。
『それ』は一瞬ボクの視界に入った気がした
『それ』はボクの足元へ堕ちてき……ように見えた
次の瞬間、ボクは頭のてっぺんから、つま先まで、電気が走るような衝撃をうけた。ボクの右足の、スネのあたりに何か動いている!
ああ、そうなのだ!
ボクは『あったものを見ていた』のだった!
ボクは正しかった!
ボクは間違ってなかった!
ボクは……ボクは、ボクは!
ど・う・す・れ・ば・い・い・の?
あれは……あれは……『あのとき』『あそこに』『あった』
散文的ではあるが、それは確実な一つの結論『存在』が観測され『存在』が証明されたわけだ。ひとつの問題は解決された。しかし、それは期待した結果ではなかったので、ボクは次の問題を解決しなければならない。
第1の問題――あれは、なんだ?
第2の問題――で、ボクはどうすればいい?
そしてボクの優先順位は、第2の問題だ。つまり、どうすればいいか?どうすれば被害を受けずにすむか?どうすれば逃げられるか?ということである。
あれがなんでもかまわない。まず、大事なことは、ボクのスネの上――ありがたいことにあれが降ってきたのは、素足ではなく、寝巻きと薄手のタオルケットの上であり、たとえあれが、『よくないもの』であっても、ボクはタオルケットを跳ね除けることで、今の状況からは脱することができる。
しかし、同時に、あれが何であるか?を確認する術がなくなる可能性を含んでいる。あれは逃げてしまうかもしれない、そして、どこかボクの死角に潜み、結局ボクは眠れない夜を迎えることとなる。ボクは、第2の問題を解決するためには、やはり第1の問題を解決しなければならないということを思い知らされた。
あれをこの目でみて「何であるか」を確認しなければならない。ボクは恐る恐る、顔を起こして、あれが降ってきたあたりを覗き込もうとした、慎重に、足が動かないように、あれに気取られないように……
そーっと、そーっと。
豆電球の薄明かりでは、いささか心もとないが、それでも暗闇よりかは、はるかにましである。オレンジ色のぼんやりとした明かりに照らされ、暗がりになれたボクの目になら、あれは見えるはずだ。しかし、どんなに目を凝らしても、そこには何もない。それらしき姿が見えないのだ。タオルケットは白地に藤の花の模様が描かれており、黒いものが乗っかっていれば、こんな薄明かりの中でも十分に識別できるはずだと思った。
にもかかわらず、『あれ』は『そこには居なかった』。だが、しかし、そうなのだ。今、そこに居ないというだけで、正しくは「そこに居たはず」という状況。既にそこから動き出し、どこか『ボクの死角』に逃げ失せたのか。いや、そもそも『あれ』は、一度はボクの視界から消えて見せて、そして時計をみた一瞬後にどこからともなく現れて、ボクの足元に降ってきたというのは、間違いがない。
ボタン!というよりはポタン!という感じか
――重さはさほどないものである。
ゴキか?
――ゴキブリはイヤだけど、まぁ、やつなら堕ちたようにみえてボクの死角で飛んだのかもしれない。そういう経験がないわけではないが、それはそれで、あまり気持ちのいいものではない。まぁ、それなら、別に噛み付くわけでも刺すわけでもない、ただ、ゴソゴソとして気持ちが悪いだけだ。
時計に目をやると、時間はたったの2分しか過ぎていなかった。ボクには少なくとも5分はたっており、感覚的には7~8分だったので、5分前後だと冷静な予測を立てていた。
ボクは決心した。
ボクはそれがゴキブリだと決め付け、タオルケットを足で思い切り上に向かって蹴飛ばし、身体を起き上がらせて、あたりを見回した。そこには横で寝ている弟や妹、父と母の姿があるだけで、時計の音以外は何もしない。静寂した闇の水面からボクの上半身だけが浮き上がり、ボクを中心に波紋となってざわめきが広がっていった。
そのざわめきに気付いたのか、母が僕に向かって寝返りをうち「まだ起きているの?もう寝なさい」と囁いてくれた。
「うん……なんか、ゴキブリがいたような気がしたから……」
「……寝なさい」
母は再びボクの反対側に寝返りをうって、眠ってしまった。でも、ボクには少しだけ安心感がもどった。独りじゃない。先ほどまで静寂の中で「キィーーン」と聞こえていた音は静まり返り、時計の音もどこか遠くで聞こえている。
……もう寝よう。あれは、きっとゴキブリだったに違いない。
ゴキブリで、よかった。
ボクは藤模様のタオルケットを頭から被り、眠りにつくことにした――もう天井を見上げるのはイヤだった。
たぶん『誰もがそうしたに違いない』とワタシは確信している。