第4章 ヤマンバ
ボクらは後ろめたい気持ちから逃れるように、いつもの公園へと急いでいた。曲がり角を越えるたびに、目的地へと近づいている安堵感とは裏腹に、いつもと微妙にちがう表情を見せる町並みに、ボクの意識はすっかりと興奮状態になっていた。
普段は目に入らない建物の隙間、苔むした壁の黒ずみ――灰色の部分はやけにくすんで見えるし、苔の緑はどこか禍々しさを含んでいた。
公園へと続く坂道を登りきり――そうえいば、この坂を下から一気に自転車で駆け上がれるようになったのは小学校3年の夏休みだったか――まるで逃げ込むように公園の中に駆け込んだ。
いつも遊んでいる公園――いつになく静かで、今日に限っては、同じ学校の生徒や小さい子供ずれの親子が砂場で遊ぶ姿もなかった。子供の笑い声が聞こえない、静まり返ったその場所は、どこか無機質で不気味さを感じさせた。砂場の周りに置かれたコンクリートでできた動物たちが、まるで動物の死骸のように見えた。
この公園は、高台の上にあり、ちょうど学校の真裏になる。小さな子供が遊ぶための滑り台、ブランコ、砂場とどこにでもある遊具と、プロペラ飛行機を鉄のパイプで模ったようなジャングルジムがあった。砂場には野良猫のフンに時々大きなハエがたかっている。そのまわりにライオンやキリン、ゾウを象ったコンクリートのオブジェがある。ボクらはライオンからキリン、キリンからゾウへと飛び移る技を競った。
遊具のある、日当たりのいい遊び場と、学校の裏手へと続く散策路は、銀杏や桜の木が植えてあり、夏であれば風通しもよく、涼むのにちょうどいい。ボクらは木が生い茂るところには行く気になれなかった。当然である。あれだけの毛虫を先ほどまで、躍起になって『退治』してきたのである。
ボクらはS夫が塀の向こうから取り戻したカラーボールでキャッチボールをはじめたが、いつしかボールのぶつけ合いになり、そのボールを使った鬼ごっこにやがてそれは発展した。ボールを投げる、よける、ぶつけられたら、鬼は交代。シンプルだが、この公園には適度な障害物があるので、実にスリリングだ。そして何よりボクらは抜群に運動神経が発達していた。
誰も上れそうもない、壁や、木、飛び越えられないような幅の段差、潜り抜けられなそうなわずかな隙間もお手の物だった。野球やドッチボールではたいした活躍できないけど、こういうことならクラスの誰にも負けない自信があった。それにボクらは他の誰よりも公園や神社の隅々まで知り尽くしている。木の上から眺められる風景、どこの木にどの季節にどんな花が咲き、実がなるのか、どんな昆虫がどこにいるのか。トイレの屋根の上はどうなっているのか、公園のフェンスのどこに隙間があるのか。
この遊びの…ボール鬼ごっこの結末は大体決まっている。ボールが間単にはとれないところに転がってしまい、今度はそれを取り戻すことに遊びの主体が変わっていくのである。この日はU治が鬼のときにそれは起きた。
「あれー、ボールがないなぁ」
U治の投げた渾身の一球はS夫の肩口から首筋をかすめって散策路の木々の中に入り込んでしまった。
「あー、あー、なくすなよー、ちゃんとさがせよなー」
S夫は口を尖らせて・・・こんなとき、S夫はいつも口を尖らせる。
「へんなところに投げるなよなぁー」
みんなでボールを捜しに散策路へと入っていく。散策路の地面にはほとんど日が当たらない。それだけ木々の葉は太陽の光を独占しようと懸命に空に向かって伸びており、コンクリートで舗装されていない部分の土は、いつも湿った状態である。夕方も4時半を回ってだいぶ空気がひんやりとしてきている。散策路にはいって、みんなあることに気付いた。だれもいないと思っていた公園。
しかし、そうではなかった。『ヤマンバ』がいたのである。
ヤマンバ――いつからかそう呼ばれているのか?それはボクらがこの公園で遊ぶようになってからなのか、その前からなのか。ボクらの小学校に通う子供ならたいがい誰でも、少なくとも男子はみんな知っている存在。これといってボクらに対して何かするわけではない。子供にとって、ニコニコと微笑みかけてくれない老人は、どこか畏怖の存在である。
いつも同じような農作業でもするかのような格好で、公園を歩き回る様はどこが不気味であり、子供のころ、物語で読んだ旅人を泊めては殺して食べていたというヤマンバという妖怪のイメージとすっかり重なってしまうのであった。
「やばい、ヤマンバがいるじゃん」
G朗が最初に口を開いた。
「ガビーン、やばいのだぁ」
U治はいつもの調子でおどけた。
「早くボール捜してよ」
S夫はせっかく取り返したカラーボールをなくしたくないようだ。ヤマンバは木の根元にしゃがみこみ落ち葉をスコップのようなもので掻き分けて、何かを探しているようだった。誰かに聴いた話では、食べられるキノコが、ここに自生しているという噂があった。『毒キノコもあるからむやみに触らないよう』にと、理科の先生――いつもはやさしいが理科の実験のときにふざけて大目玉を食らった事がある――に注意された上級生がいるとK山がいっていたのを思い出した。K山の上級生情報はおよそ信頼できるものだった。
「毒キノコでも探しているのかなぁ」
G朗は、もはやボールを探そうとはしておらず、ヤマンバが何をしているのかが気になってしょうがない様子だ。ヤマンバはこちらのことを気付いているのか?公園で大声を出して遊んでいたのはボクらしかいなかった。向こうは当然に気付いているだろう。だが、ヤマンバはこちらには気付かない様子で、黙々と落ち葉を払っては何かを探しているようだった。
「あった」
U治がカラーボールをみつけたようだ。
「なにー、ギョギョギョー」
U治の漫画キャラクターのモノマネは、ほぼ完璧であり、あのキャラクターにモデルがいるとすれば、きっとU治に似たやつに違いないとS夫とG朗と話したことがあるほど、U治のモノマネは完璧だった。
「なんじゃ、このキノコは!毒キノコ発見!」
S夫の青いカラーボールはオシロイバナの枝の下にあり、そこにはなんとも毒々しい黄色いキノコが生えていた。
「これ、毒キノコじゃねーか、そのボール、ヤバイよ!」
いつの間にかG朗も寄ってきていた。
「だって、どーすんのさ」
S夫が苛立ちを隠せない様子で口を尖らせる。
「平気だよ、洗えば」
ボクはそういってS夫を慰めようとしたが、大丈夫だという根拠はなかった。だが、触っただけでどうにかなるような毒性の強いキノコなど特撮ヒーローの世界にしか出てこないのだとわかるようにはなっていた。
小学5年生なのだから。
S夫は口を尖らせながら足元に落ちていた小枝を拾いカラーボールをかき出そうとした。
「うわー、えんがちょー」
U治は両手の人差し指と中指を絡ませて『バリアのポーズ』をした。
U治は時と場所をわきまえることをもう少し学ぶべきだと、この頃からボクは思っていた。
S夫はすっかりヘソを曲げ、さらに口を尖らせた。
「お前が投げたからいけないんだろー」
S夫の目は少しなみだ目になっている。ここまで興奮しているS夫を見たことはない。よほどこのカラーボールがお気に入りだったのか、あるいは毒キノコが怖かったのか。
「触るんじゃないよ!」
4人ともその場に一瞬凍りついた。雷にでも打たれたかのように全身に緊張感が走り、髪の毛が逆立つ感覚。ヤマンバが僕らのすぐ後ろにきて、スコップを片手にボクらをにらんでいた。
うわぁーーー!
最初に駆け出したのは、G朗だったか?それともU治だったか。S夫は驚いた拍子にボールを落としてしまいそれを拾うのに手間取った。ボクは先に走り出したG朗とU治を目で追いながら、S夫がボールを拾うのを待ってから、駆け出した。そのうち2番目を走っていたU治が木の根元に足を引っ掛けて、見事に転倒した。
「いってーっ!」
見ると右のひざがすりむけて滴るほどに血が流れていた。U治は目に涙をいっぱい浮かべ、必死にこらえている。ボクらはいつも、無茶なことをしているので、ヒザをすりむくなんて、日常茶飯事だったが、この傷はヤバかった。
血が止まらない。
「これ、はやく消毒したほうがいいよ」
G朗が心配そうにUを覗き込む。
「バチが当たったんだよ」
S夫がボソッという。
「そんな、ちょっとからかっただけじゃん」
「そうじゃないよ」
ボクの言葉をS夫がさえぎる。
「そのことじゃないよ……」
みんなすっかり意気消沈してしまった。
みんなわかっている。桜堂から「盗んだガムテープ」そしてそれで毛虫を「大量虐殺」したこと。
罰が当たって当然である。
「今日は、もう、帰ろう」
U治はもう涙をこらえられない状態だった。U治の方を抱えて起き上がらせると水道の所までいって、とりあえず傷口を洗い流した。公園の水道は水を飲む蛇口が上向きになって、細く水がでるところと、手や足を洗えるように蛇口の先が回転する普通の水道がついている。U治は普通の蛇口のところにしゃがみこんでヒザを曲げ、ヒザ小僧を流水にあてた。
「いっ痛ぅぅぅ」
U治は必死にこらえている。ヒザは泥がこびりついている。きれいに洗い流しておかないと化膿してしまう。きっと明日の朝には赤チンまみれになっているだろう。
ふと、傷を洗い流しているU治の背中に蠢くものが目に入った。
「あっ!」
思わずボクは大きな声を出し、飛びよけた。ボクの視線の先には、毛虫が一匹、U治の背中を首筋めがけて這っているところだった。
「U治、動くなよ」
G朗が、U治の腕をつかむ。S夫はすっかり怯えている様子だ――そういえばこういうシーンをよくテレビ映画で見たな。それはたいていサソリか毒グモだが。
「なに?」
U治は『かたち鬼(凍り鬼)』の時のように、見事に凍りついた。
「今取るから」
ボクは小枝を拾ってU治の背中を這う毛虫を払いのけた。毛虫はうねうねと地面をのた打ち回っている。U治は悲鳴を上げた。
「ぎぃぃいぃぃぃぃ、あぁぁぁぁ……」
それはあのマンガのキャラクターをまねた擬音ではなく、彼の本気の悲鳴だった。ボクらはもはや、想像せざるを得ない……これは毛虫の復讐なのかと。
地面に落ちた毛虫は、まっすぐにボクに向かって這ってくる。ボクははじめて虫の視線を感じて背筋に震えを覚えた。
怖い
そのとき突然、音楽が鳴り出した。
ぐぁーん がーが ぐぁーん ぐぁー がぁがー ぐぁーん がー ……
夕焼け小焼け――この地域で5時半を知らせる時報として、公園などに設置してある緊急放送用のスピーカーからこの音楽が流れるのである。初夏だというのに、ボクらは4人とも鳥肌を立てていた。
「あせったー、もう帰ろー」
G朗だったか、U治だったか・・・S夫は口を真一文字に結んだままだった……もう尖っていない。ボクらは毛虫をそのままに家路につくことにした。
≪もう……殺すのは怖かった≫
……そしてその日の夜、ボクは生まれてはじめて恐怖を知ることとなる。
ワタシは、その日、家に帰ってから布団に入るまでのことを、ほとんど覚えていない。