第2章 扉の向こう側
小学校の校門から続く桜並木。その並木にそって苔むしたコンクリートのがっしりした壁が並び立つ。校門の横の桜堂は、学校御用達の文房具店で、学校の校章をはじめとして、書初めに使われる半紙や絵の具、クレヨン、画用紙、工作用紙など、様々な商品を扱っている。この学校に通う生徒は、一度はここで買い物をしたことがあるはずだ。この文房具店桜堂は、店の佇まいからみても、かなり歴史のある文房具店で、気のいい老夫婦の営むこの店を悪く言うものはいなかった。老夫婦の耳が、少しばかり遠くなってきてはいること以外は……
ボクらは、そんな気のいい老夫婦を困らせるようと思ったわけではない。G朗もS夫もそんなことを考えてなかったし、U治はPTAの役員だ。ボクらはただ、普段は開けることにできない扉がそこにあり、その中を覗いて見たいだけだった。冒険心と好奇心だけがボクらを突き動かしていたし、そこまで行った証拠品として、何かそこから待ちだしたいと思っていた。もし、この行為が本当に『やってはならないこと』であれば、行為の途中で誰かに見つかるに違いない。怒られて未遂で終わる。或いは、もうカギが修理されて扉はかたく閉ざされているかもしれないし、持ち帰れるようなものがないかもしれない。
いずれにしても、本当に『やってはならないこと』を小学生のボクらがやろうとしても、そう簡単には事は運ばないもので、世の中のルールや仕組みはそんな風に成り立っている。それに、成功したからといってボクらが味をしめて、もう一度それをやることはない。これはいたずらの数々をこなしてきたボクらの経験から学んだ法則であり、ルールなのだ。
『やってはならないことは、やってみないとわからない――ただし、慎重に、そして、一度だけ』
ボクらはこの日、いたずらの法則とルールに従い、見事に冒険を成功させた。G朗、S夫、U治の3人が桜の木を登り、枝を伝わって、高さ2メートルほどある壁の向こう側の様子を注意深く覗いている。
「よし、行くぞ」
G朗の掛け声とともに3人の姿は壁の向こう側へと消えていった。ボクは校舎のほうに気を配りながら、誰かがこちらのほうに来ないか、ハラハラしながら奴らの帰還を待っていたが、この日の運はボクらに向いていた。
「おい、大丈夫か?」
G朗の声が壁の向こうから聞こえた。
「急げよ、早く!」
まるで刑事ドラマか特撮ヒーローのようだった――或いは、土曜夜8時のコント番組か。
「これ受け取ってくれ」
壁の向こうからこちら側に何かが投げ込まれた。
「戦利品だ」
G朗の声だったか?
「これも」
今度はボールが投げ込まれた。S夫のボール?だが、投げ込まれたボールは1つではなかった。それはあまりにもあっけなく、そっけなく、味気のない、期待していたよう冒険ではなかった。
「やばいと思ったから、これしかもってこなかった」
G朗たちが「戦利品」と言って投げ込んだのは、ビニールの袋に包装されたガムテープだった。K山のビニールテープに対抗してのことなのか、少しだけそれを上回るもの。だとしたら実にシンプルな選択だ。
「で、中はどうなってた?」
ボクはG朗に聞いてみた。
「とにかく、これを隠さないと」
U治は、不安げな様子だ。確かにこんなところを誰かに見られでもしたら厄介だ。特に女子には。ボクらはガムテープとボールを上着の中に隠して、急いでランドセルが置いてある登り棒のところまで行った。校庭には何人かの生徒がボール遊びをしたり、鉄棒や、ゴムとびをしたりして遊んでいた。その中にN子の姿を見つけると、これは、ここでランドセルを開けるわけにはいかなくなった。
「おい、どーする?」
S夫はN子が大の苦手だった。
GW前、漢字の小テストの時に、机の上にこっそりと答えを書き込んでいたのをN子に見つけられた。先生にはチクられなかったものの、60点以上を取ることができずに居残りをさせられたことを今でも根に持っているようだ。
学校から出るという選択肢もあったが、この状態で、桜堂のそばを通ることはできない。ボクらの頭の中は、一刻も早くランドセルに隠したい、或いは、しっかりと手にとって『戦利品』を眺めたいという誘惑が交差していた。
「今日は木曜日だから校舎の裏なら誰もこないよ」
U治はゴミ捨ての係りで、時々学校の裏にある焼却炉が何曜日に使われているかを知っていた。
「よし、行こう」
ボクらは校舎の裏に行くのに「お前、忘れ物するなよー」とわざとN子に聞こえるように言いながら、校舎の中に一旦入ってから、校舎の裏へと回りこんだ。こういうことをしているときは本当に楽しい。まるで秘密作戦を実行しているようなワクワク感がボクらの脳を支配していた。こんな時のボクらは最高である。
校舎の裏側には高台があり、人目にもつきにくい。薄暗くて、じめっとしているし、ひやっとしている。校舎の廊下側からは当然丸見えではあるが、木の陰や、物置の影など死角はいくらでもある。ボクらはリヤカーや壊れた机や椅子といった粗大ゴミが置いてある物置の裏側に集まった。
「やべー、超こえー」
U治がいつもの調子でおどけながら、目を輝かせていた。
「早くしまおうぜ」
S夫はN子が気になるのか、意外とこういうときはオドオドするタイプだ。ボクらは服の下からガムテープを出して、ランドセルを開けた。
「すげー、ビニールテープよりぜったい高いぜ!」
G朗はK山のグループから、小バカにされていた。跳び箱や鉄棒、縄跳びといった運動は得意なG朗だったがボールを使った遊び、特に野球は大の苦手だった。G朗には、キャッチボールをする父親や兄弟はいなかったのである。ドッチボールでは巧みな身のこなしで、最後まで残る運動能力を持っていたが、野球となるとバットにボールを当てることができなかった。なぜならG朗は、バットの使い方を知らなかった。人数あわせにG朗がいやいや野球をやった時のこと、G朗のバットを持つ手は、右手と左手が上下逆だった。K山はそれを大声で笑った。それ以降、左手を上、右手を下にするバットの握り方は「G朗打ち」と名づけられた。
「なぁ、なぁ、中はどんな感じだった?」
ボクには、ガムテープよりも塀の向こう側の様子が知りたくて仕方がなかった。
「奥に行くと空地みたいになってて、以外に広いんだ。なんか植木とか置いてあるんだけど。で、古い小屋みたいなのが立っていて、扉のカギは壊れてるんだけど、開けようとするとギーギー音がするんだよ。気づかれたらやばいと思って、ちょっとだけ扉を開け、近くにあったのがこれってワケ」
ボクの質問に興奮した口調でG朗が答える――なるほど中はそうなっているのか。
「あとなんかよくわからない工具とかあったけど、あればヤベェじゃん、なんか高そうだったし」
S夫が付け足した――いたずらの域を超えないこと――これも大事なルールである。ボクらはしばらく塀の向こう側の様子がどうだったかという話で盛り上がっていたが、S夫がランドセルに戦利品をしまおうとランドセルを開けるなり「うわー、入らないかもー」と言い出すと、みんなランドセルを開けだした。
確かにガムテープは以外にかさばる。U治とS夫は当時流行していた多面式筆箱、両面が開くだけでなく、さらに3面、4面と開くようになっている筆箱を使っていた。U治とS夫は、しかたなくランドセルの中身をいったん全部出して、なんとか入れようとするが、なかなかうまくいかない。ボクとG朗の筆箱は缶ペンケースだったので、それほど苦労せずに入れることができた。
そうこうしていると、物置の壁にうごめくものをU治が発見した。
「ゲゲッ!」
U治がいつものおどけた口調で驚きの表現をする。U治が見つけたのは大きな毛虫だ。
「ギョエー!」
U治のテンションがあがる。よく見ると毛虫は1匹だけではなく、壁のあちこに張り付いていた。大きさは2センチ程度の小さなものから4~5センチくらいの大きなものまで、3種類ほどいた。
「大群、大群、毛虫の襲来だぁぁぁ」
G朗も調子に乗る――ボクは気持ち悪がった。一度にこんなにたくさん見るのはもしかしたら始めてかも知れない。そして嫌悪感。この世に存在してはいけないものなのではないか?
「退治しないと学校が占領されちゃうぞ」
S夫はすっかり特撮ヒーローの世界に浸っている。しかし、小学生の発想は、そういうものである。
次のゲームはスタートした。一つのミッションをなんなくクリアしたという達成感が、ボクらを更なる難易度の高いミッションへと使命感を燃え上がらせた。
もはやボクらの目には、毛虫は害虫であり、ボクらには「悪いことをした分、何かいいことがしたい」という気持ち――害虫を退治すること――で道徳的な後ろめたさから逃れられるのではないか?と、そういう思いに駆られていたのかもしれない。
「そうだ!いいこと考えた!これを使っちゃおう!」
S夫はランドセルにはいりきらないガムテープを包装袋から取り出した。ボクらが手に入れたもの……気のいい老夫婦の営む、みんなに愛される文房具店の倉庫から盗み出したガムテープ。小さな虫が張り付いたらまず生きては、逃れられない強力な粘着力。『後ろめたい気持ち』と一緒に家に持ち帰るはずの『戦利品』を使って害虫退治をすることで、『罪の意識』を置き去りにできるのだと考えたのかもしれない。
かくして強迫観念によって捏造された絶対の正義を信じて疑わない小学生による、小さな生き物の大量虐殺が始まった。