第1章 壊れた扉
ボクの通っていた小学校は、区内最初にできた公立の小学校で、100年以上の歴史を持っていた。幹線道路に面した校門から校舎までの間には、50メートルほどの見事な桜並木は、春が来るたびに、この学校に通うことを誇らしく思わせてくれた。
校舎の裏手は高台になっており、栗や柿の木が自生している。ここには毎年毛虫が発生し、これに刺されると大きくはれ上がりひどい時には熱を出したりする。そこには用がないときは入らないようにと毎年、朝礼や学活(いわゆるホームルーム、学級活動)で注意が促されていた。
ボクは毛虫に刺されたことはなかったけれど、あのグロテスクな姿が嫌で、できる限り近寄りたくないと考えた。それはどの生徒も同じで、誰も進んで校舎の裏には行かなかったし、子供の興味を引くようなものは、何もなかった。
毛虫はときに、校舎の壁を伝って、窓から見えるところに張り付いていることもある。
校舎の裏の窓は、虫が入らないように開けっ放しにすることはほとんどなく、毛虫が校内に侵入することはまずない。たまにイタズラ坊主が、校舎の裏から小枝に毛虫を乗せ、女の子を追い掛け回すこともあるが、たいていは先生に見つかって、こっぴどく叱られるのがオチだった。或いはそんな遊びの中、毛虫はちょん切られるか、踏み潰されるか。子供が「おもちゃ」に飽きたときは、たいがいそういうことになる。ボクはそれに参加することもなければ、とがめる気など、さらさらなかった。ちょん切られた毛虫は、すぐには死なない。死んだ毛虫の毛には毒があるから近寄らない。それにつぶれた毛虫からでる体液は、それを見る者に、なんともいえない嫌悪感を与える。できることなら見たくはない。
ボクのクラスには、男女合わせて30人くらいいて、男子のグループは野球やドッチボールをして遊ぶグループと「ごっこ遊び」やゲームをしたりして遊ぶグループに分かれていた。もちろんこの時代にコンピュータゲームなどない。「○×」や「25」というビンゴゲーム、ジャンケンのさまざまなバリエーション――子供は遊びの天才だった。普段は一緒に遊ぶことのないふたつのグループではあるが、いくつかの遊びでは行動を共にする。
『いたずら、冒険、内緒話』
初夏のある日のこと、町内会の少年野球チームでレギュラーのK山は上級生から、こんな情報を聞きつけた。
「桜堂の裏ってどんな風になっているか知ってっかぁ?6年がこの前そこに行ったんだって」
得意げにK山が話し始める。
「あそこは入れないだろう」
S夫が問いただす。
「桜の木を登って枝を伝わって行くと十字鉄線に引っかからないで塀を乗り越えられるポイントがあるらしいんだ。下に降りると桜堂の倉庫になっている小屋があって、いろんな文房具が置いてあるんだぜ。で、カギが掛かっているらしいんだけど、今、そこの扉のカギが壊れていて、倉庫の中に入れるらしいぜ」
みんなすっかりK山の話に夢中になった。小学生にとって文房具家の倉庫というのは、まさしく『宝の山』なのだ。なにより普段立ち入ることのできない場所、『塀の向こう側』がどんな風になっているのか、どんな宝物が眠っているのか……
そのことが、『不法侵入及び窃盗』にあたる違法行為であることに誰も気付いていないのか、或いは気付いていても口に出さないだけなのか?
「これがそのお宝。6年がオレにだけくれたんだぜ。6年は他にもいろいろ獲って来たみたいだけど。
K山の声が小さくなるほど、話は盛り上がって行く。そしてお約束のきめ台詞。
『お前ら、絶対に誰にも言うなよ』
黄色いビニールテープ――大人からすれば、どうと言うことはない代物だ。しかし、あの頃のボクらにとってビニールテープはそれほど身近な存在ではなかった。紙を貼り付けるのに使うのはたいてい『ヤマトのり』だったし、学校の道具箱に入っていたのは、ハサミ、のり、三角定規、分度器、コンパスであり、カッターやセロテープは誰もが持っているものではなかった。
黄色いビニールテープ――それがタダで手に入る。なんて魅力的な色なんだろう。
「6年は石膏とか工具とか持ち出したらしいぜ」
K山はまるで自分のことのように自慢げに話した。
石膏――図工の時間に何度か使ったことがある。水で溶かして型に流し込み、それが乾くと石のように固まる。ビニールテープよりもさらに魅力的だがしかし……
果たしてそんなことをして大丈夫なのだろうか?同じ疑問を持ったS夫が口を尖らせながら切り出した。
「えー、やべーんじゃねー」
そう、確かにそうだ。これは『ヤバイ』でもどうするかは別としても、こんな身近に、冒険心をくすぐられる場所があったなんて!
――行ってみてみるだけなら、覗いて見るだけなら、触ってみるだけなら
「行こうぜ」
S夫が言い出した。
「やべーよ」
U治は慎重だ。
「石膏だよ、石膏」
G朗はやる気だ。だがK山は逃げた。
「知んねーぞ。6年にバレたら半殺しだぜー」
K山はビニールテープの自慢がしたかっただけで、何より「ここだけの話」を誰かにしたかっただけなのだ。『盗み』はヤバイ――K山はクラス一番の悪ガキだが、分はわきまえている。本当にヤバイことには自分で手を出さない。
ボクもヤバイと思う。興味はあるけど、それはできない。結局その話は一旦そこで終わった。どうやら自称「探検隊」のG朗とS夫、いつもこの二人と行動をともにしているU治が倉庫に忍び込むかどうかで、休憩時間にこそこそと話をしている。
6時間目の授業が終わると塾や習い事がある連中は、さっさと帰ってしまう。ボクは掃除当番。同じ班のU治とT字ほうきで教室の床をはく。女子は黒板と机の上をきれいに拭いている。G朗とS夫はU治を廊下で待っているようだ。
「なぁ、もしかして、『あそこ』に行くのか?」
ボクはU治に聞いてみた。
「前にさぁ、S夫がボールを塀の向こうにいれちゃってさぁ。塀を登ろうとしたらしいんだけど、用務員のおっさんに見つかって入れなかったんだって。もう、ボールは見つからないと思うけど、ボールを取りに入ったってことにすれば、まぁ、誰かに見つかっても平気じゃないかって、S夫が言うんだ……」
クラスの中では誰よりも好奇心が旺盛なU治がこの話に乗り気ではないのは、U治に勇気がないからではない。U治の父親はPTAの役員なのだ。厳格な父親であり、もしこんなことをしたことがバレでもしたら、それこそ6年にバレて半殺しどころでは済まないだろう。
「もう、何してんのー、早くしてよー」
班長のN子は、見た目はかわいらしいのだが、生意気で、気が強く、常に男子と女子の争いの中心にいる嫌な女だ。
『先生にいいつけてやる!』
何度この言葉に脅されたことか!
「うっせーなー、すぐに終わるよ!」
U治はクラスの中では人気もので、モノマネをしたり、おどけてみたり、人を笑わせる才能に恵まれていた。U治はともすればケンカになりそうなキツイ言葉を使った時でも、相手を怒らせないよう、すぐにおどけてみせる。
U治はN子の方に向きを変え、頭を激しく左右に振りながら、T字ほうきを激しく動かしす。
「おいそぎですか レレレノレー」と得意のマンガのモノマネを始めた。
「もー、ふざけないでよ!」
言いながらN子は思わず噴出していた。
「U治まだかよ、早くいこうぜ」
教室の後ろの扉からG朗とS夫が顔をのぞかせて、U治をせかした。
「あー、もー、そんなに急ぐんなら手伝ってよねー」
U治は要領がいい。
二人のおかげで、掃除を早く終わらせることができそうだ。なぜならU治がふざけ始めると、N子が怒鳴るまで、U治はなかなかそれをやめない。
G朗とS夫の掃除のやり方は、いささか乱暴ではあったが、机を動かすのには人数が多いほうがいい。助っ人の活躍で掃除があっという間に終わるとG朗、S夫、U治は走って教室を出て行った。
「もう!廊下を走ったら、いけないんだからね!」
N子の声は、彼らの耳には届いていないようだった。
無茶しなきゃいいけど……
ボクはT字ほうきをロッカーにしまうとランドセルをしょって、教室を出た。階段を降り、下履きに履き替えて校舎を出ると、U治たちが校庭の隅の方、鉄製の登り棒があるところにランドセルや手提げカバンを置いているところだった。校舎の窓から校庭は一望できるが、桜並木は登り棒のある校庭の端から始まっており、校舎からは死角になる。放課後に校庭で鉄棒や登り棒の練習をする生徒はだいたいあそこにランドセルやカバンを置いていた。
ちょっと様子をみてこよう。N子とか女子に見つかったら、それこそ後で何言われるかわからない。
木を登ること自体はそれほど難しいことではない。誰にも見られないように、しかも3人が登るのは、さすがにリスクが高い。
あー、もー、危なっかしいったら、ありゃしない!
ボクは彼らの見張り役を買って出ることにした。
「ボクが見張っておいてあげるから、すぐに戻れよ!」
「サンキュー!戻るときは向こうから合図するから!」
G朗はそういうと、すばやい身のこなしで桜の木をよじ登り壁に飛び移った。U治とS夫もこれに続く。
このとき、ボクらは開けてはならない扉『恐怖の入り口』に手をかけたことにまだ気付いてはいなかった。それは些細ないたずら心、子供の純真なる好奇心――他人の家に忍び込むとか、誰かの持ち物を盗むとか、そんな恐ろしいことではない――まだ見たことなのない場所が、学校のこんなすぐそばにあって、そこには新しい発見や宝物があるかもしれない。壊れたカギが修理されたら、もう2度と見ることができないかもしれない。
そう、小学5年のボクらには、こうする以外に他はなかったのである。