第9章 対決
公園で思いっきりボール鬼を楽しんだこと、ヤマンバと話をしたことで、なんとなく気分がすっきりとしていたボクは、家に帰った――もう大丈夫。なんとなく、そう思えていたが、それは間違いであるとすぐに気付かされた。
共働きの我が家では、父や母が帰るまでに洗濯物を取り込むこと、米を研ぐこと、食器を洗うことがボクと弟の仕事だった。今日の食器洗いは弟、ボクは洗濯物を取り込もうとした。夕方の陽射しはオレンジ色が少しくすんでいて、目に入いっても痛くはなかった。ボクらの住む会社の寮は西向きで、夕方の陽射しは直接部屋に差し込んでくる。
洗濯物を取り込むのに厄介なのは、シーツやバスタオルだ。地面に引きずらないように注意しなければならない。バスタオルは平気だけど、シーツやタオルケットはボクらの身長にはちょっとあまるのだ。ボクは昨夜、悪夢にうなされ、汗でびしょびしょになったタオルケットを取り込もうとして、一瞬息が止まった。
……食い荒らされている……ヤツらに……藤の葉が……食い荒らされている。
あれは……あれは、悪い夢ではなかったのか!
ボクは母が帰る変なり、タオルケットの異常を訴えた。母は買い物袋から肉やら野菜やらを冷蔵庫にしまいながら言った。
「あー、これねー、間違って漂白剤こぼしちゃって、あらあら、やっぱりだいぶ色が抜けちゃったわねー」
「そーか、そうなの」
――やや安堵する。がしかし、
――そうなのか?それだけなのか?はたして、本当に、そうなのか?これは、ヤツらの仕業じゃないのか?
その夜、ボクは部屋の明かりが消され、みんなが寝静まるまで、タオルケットのなかでじっと待っていた。また、あの感覚がボクを包み込む。時間が揺らぎ始める。
来る。きっと、来る。
やがて「静寂の音」がボクの耳の中でキーンと響き始めた。
……ほら、来た!
冷蔵庫は深夜の宴を初め、時計はカチカチカチからチカチカチカに変わった。
……そうだ、ヤツらはきっと来る!
ボクはタオルケットから首を出し、天井を眺めた。天井には何かシミのような、模様のようなものが、少しだけ蠢いた様な感じがした。
……同じだ!ヤツらだ!ヤツらが来た!
『でも、ボクは、大丈夫……大丈夫だ』
ガムテープなんか使わなくたって、ボクは大丈夫。
ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ
……来た!
天井に蠢く小さなシミは、次第にヤツらの姿に代わって行った。
『大丈夫、ボクにはできる。ボクにはできるんだ!』
ボクは、必死に念じた。繰り返し、繰り返し、どんなに怖くても、どんなに恐ろしくても……
『蜂、アシナガバチ、アシナガバチは毛虫をやっつける!』
ボクは公園でみた足長バチの姿を必死で思い出していた。
『黄色と黒の縞々の……ブーンと音がする羽。三角の頭、鋭いキバ、長い足……それから、それから……
コワイ、コワイ、コワイ
ガムテープ、ガムテープ、ガムテープ
『いらない!ガムテープはもう、いらない!もうボクにはいらない!』
タスケテ、タスケテ、タスケテ
クルシイ、クルシイ、クルシイ
『黄色と黒の縞々でブーンと音がする羽。三角の頭、鋭いキバ、長い足。目は、目は、大きくて……長い触角。』
ヤメロー、ヤメロー、ヤメロー
『部屋の窓の隙間から――そう、換気扇の隙間からだって入って来る!黄色くて、黒くて、縞々で、お尻が大きくて、羽は、羽は茶色で、三角の頭、長い触角、大きい目、鋭いキバ、ブーンと音が!』
ブーン
それは暗がりの中で、どこからともなく聞こえてきた。蜂の、足長バチの羽音。
『そうだ、そこだ、あそこにいるんだ!毛虫が!』
黒いシミははっきりとしたチャドクガの幼虫の形になったようにみえた。それが恨めしそうにボクをにらんでいる。いまにもボクに飛び掛りそうな感じがしたけど、ボクには次のイメージが見えていた。身体を振り子のようにしてボクの顔めがけて跳躍しようとしている毛虫を足長バチが鋭い牙で噛み付き、どこか闇の中に持ち去る姿を……
『今だ!行け!』
それは目にも留まらぬ速さで、ボクの視界を横切り、天井めがけて飛んでいった。ボクの全身にワサワサとした感覚がよみがえり、一瞬ボクの顔めがけて、毛虫が跳躍したようにみえたが、アシナガバチは獲物を捕らえ、闇のかなたに姿を消した。
見上げると天井の黒いシミはなくなり、時計の音が『チクタク、チクタク……』と心地よいリズムを刻んでいるのが聞こえた。ボクの意識はそこで途切れた。
終わったのか……終わったんだ、多分……
カーテンの隙間から明かりが射す。まだ、誰も起きていないようだ。タイマーセットされたステレオラジオからいつもの音楽が流れてくる。
『おはようございます。今日は快晴、朝から気温もだいぶ上昇するようです。それでは交通情報です。道路交通センターの石黒さんを呼んでみましょう。石黒さん!』
ボクはすっきりとした目覚めの中で、昨日の夜のこと、そして、今日までおきた一連の出来事を振り返った。
やっぱり、桜堂の気のいい老夫婦にあやまらないといけない……
ボクはヤマンバに自然と言えた『ありがとう』の言葉と、これから言わなければならない『ごめんなさい』の言葉が、ボクらが開けてしまった『闇の扉』を閉じるために必要なカギではないかと思い始めていた。