誰にでも優しい彼が、十年間変えなかった暗証番号
披露宴会場のあるホテルのロビーには、大きな窓から午後の光が差し込んでいた。
紗季は受付のテーブルの内側に立ち、大学時代の友人たちと一緒に招待客を迎えていた。
今日は、大学時代のゼミ仲間だった菜々子の結婚式だ。
次々とやってくる招待客に笑顔で頭を下げ、ご祝儀袋を受け取る。
そのとき。
少し離れたところから、聞き覚えのある名前が聞こえた。
「あ、悠真。こっちこっち!」
反射的に顔を上げる。
視線の先に、スーツ姿の男がいた。
紺色のジャケット。
少し崩れた前髪。
十年前より大人びているのに、笑ったときの目元だけは変わっていない。
胸の奥が、ほんの少しだけ音を立てた。
菜々子から、
「悠真も来るよ」
と聞いたときから、なんとなく身構えていた。
十年ぶりに会えば、もっと何かが込み上げてくると思っていた。
懐かしさとか。
後悔とか。
もしかしたら、まだ残っているかもしれない何かとか。
けれど、実際に現れた悠真は驚くほど普通だった。
そして、自分もまた驚くほど普通だった。
「久しぶり」
自分でも意外なくらい落ち着いた声が出た。
悠真の目が、ほんの少し見開かれる。
「……久しぶり」
それだけだった。
十年ぶりの再会は、本当にそれだけで終わった。
大学卒業後、悠真は関西の会社に就職し、紗季は東京に残った。
大学時代の仲間とは細くつながっていたし、SNSで悠真の名前を目にすることもあった。
けれど不思議なくらい、二人が同じ集まりに顔を出すことはなかった。
だから、直接顔を合わせるのは卒業以来だった。
披露宴が始まっても、悠真は昔と変わらなかった。
隣の席の女性がバッグを落とせば、誰よりも早く拾い上げる。
友人にスマートフォンを渡されて写真を頼まれれば、嫌な顔一つせずシャッターを切る。
グラスが空いている人を見つければ、
「何か飲みます?」
と自然に声をかける。
女性から話しかけられれば普通に笑い、男性から話しかけられても同じ温度で応じる。
誰に対しても、同じ顔で、同じ距離感で接している。
紗季はグラスを持ち上げながら、小さく息を吐いた。
――十年経っても、変わらないんだ。
呆れとも懐かしさともつかない感情が、胸の中でゆっくりと溶けていく。
そして、その姿を眺めているうちに。
紗季は自然と、大学時代のことを思い出していた。
◇
大学二年の春。
紗季と悠真は付き合い始めた。
悠真は、とにかく優しい人だった。
突然の雨に降られた日、傘を持っていない紗季の隣に、悠真が黒い折りたたみ傘を差し出してきた。
「ほら、入れよ」
半ば強引に腕を引かれて傘の中に入ると、思っていたよりずっと距離が近かった。
雨の音が、なぜか妙に大きく聞こえた。
重い荷物を抱えていれば、
「持つよ」
と当然のように受け取ってくれる。
体調を崩して講義を休んだ翌日には、きれいにまとめられたノートのコピーを渡してくれた。
帰りが遅くなった夜には、何も言わず駅まで一緒に歩いてくれる。
紗季は、そんなところを好きになった。
誰かに大切にされている。
そう思えることが嬉しかった。
自分が特別な存在になったような気がした。
ところが。
付き合っていくうちに、紗季は一つのことに気づき始める。
悠真のその優しさは、紗季だけに向けられたものではなかった。
◇
最初は、本当に些細なことだった。
講義が終わったあと、悠真が何気なく言う。
「今日、由佳と学食で食った」
紗季は少しだけ間を置いて聞いた。
「二人で?」
「うん。同じ講義だったから」
それだけだった。
悪びれる様子もない。
そもそも悠真にとって、悪びれるようなことではなかった。
別の日には、駅から女友達と並んで大学へ向かっている悠真を見かけた。
あとで聞けば、電車を降りたところで偶然会っただけだった。
また別の日には、女友達から、
「昨日のレポート、ちょっと見せて」
と頼まれて、
「いいよ」
と何のためらいもなく答える。
飲み会では、
「髪切った?」
と女友達の変化に気づく。
SNSでも男女関係なく普通にコメントを残す。
何一つ浮気ではなかった。
隠してもいなかった。
紗季との約束を破ることもない。
むしろ、何をしたのか普通に紗季へ話す。
だから紗季も何も言えなかった。
最初のころは、本当に笑っていた。
「悠真って、本当に誰にでも優しいよね」
その言葉に嘘はなかった。
それは、紗季が悠真を好きになった理由の一つでもあった。
けれど。
同じことが何度も重なっていくうちに、胸の中にあった小さな何かが、少しずつ形を持ち始めた。
◇
サークルの飲み会だった。
一人の女友達が、すっかり酔いつぶれていた。
テーブルに突っ伏したまま顔を上げない。
周りの友人たちが困ったように顔を見合わせる。
そのうち一人が悠真に言った。
「悠真、こいつ途中まで同じ方向だよな?」
「まあ、途中までは」
「悪いけど頼める?」
悠真は酔った友人を見てから、普通にうなずいた。
「うん。じゃあ送ってく」
珍しいことではなかった。
男友達が潰れたときも、悠真は同じように面倒を見た。
帰る方向が同じなら駅まで付き添う。
タクシーが必要なら拾う。
それだけだ。
だから紗季にも、悠真を責める理由なんてなかった。
店を出たところで悠真が言う。
「じゃあ、あとで連絡する」
「うん」
紗季は普通に手を振った。
そして一人で電車に乗った。
窓の外を街の灯りが流れていく。
しばらくして、向かいの窓に自分の顔が映った。
その顔を見ながら、ふと思った。
――また「うん」って言った。
嫌なら嫌だと言えばいい。
でも。
酔った友達を放っておいて。
女の子と二人でご飯を食べないで。
女の子と一緒に帰らないで。
女の子に優しくしないで。
そんなことを言う自分にもなりたくなかった。
何より、悠真は何も悪いことをしていない。
それが分かっている。
分かっているからこそ。
紗季は、何も言えなかった。
◇
小さな違和感は、それからもなくならなかった。
悠真は紗季にも優しかった。
ちゃんと会う。
連絡もする。
誕生日も覚えている。
付き合っていることを隠したこともない。
浮気を疑うようなことも、一度だってなかった。
それなのに。
紗季には、だんだん分からなくなっていった。
自分が好きになった悠真の優しさ。
傘を差し出してくれること。
荷物を持ってくれること。
困っていれば助けてくれること。
話を聞いてくれること。
そのほとんどを、悠真はほかの人にもしている。
だったら。
自分にだけ向けられているものは、何なのだろう。
考えれば考えるほど、答えが見つからなくなった。
ある日のデートの帰りだった。
二人で駅まで歩いている途中、紗季が突然言った。
「ねえ」
「ん?」
「私じゃなきゃいけない理由ってある?」
悠真が足を緩めた。
「何、それ」
「そのまま」
「付き合ってるんだから、あるに決まってるだろ」
紗季は悠真を見る。
「何?」
悠真の口が開く。
けれど言葉は出てこなかった。
好きだから。
悠真の中では、それが答えだった。
けれど二十歳そこそこの彼には、その「好き」をどう説明すれば紗季に伝わるのか分からなかった。
数秒の沈黙。
紗季には、それがずっと長く感じられた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
悠真も、それ以上は何も言わなかった。
その日から。
二人の間に、目には見えない小さな距離ができた。
◇
数週間後。
紗季から別れを切り出した。
浮気されたわけではない。
嫌いになったわけでもない。
むしろ、まだ好きだった。
だからこそ、紗季自身もうまく理由を説明できなかった。
「悠真は何も悪くないよ」
悠真は納得できない顔をした。
「じゃあ、なんで?」
「分かんない」
「分かんないって……」
「本当に、分かんないの」
しばらく沈黙が続いた。
それから紗季は、ようやく言葉を見つけた。
「付き合ってるのに」
悠真を見る。
「ずっと片思いしてるみたいだった」
悠真には、その意味が分からなかった。
紗季も、それ以上うまく説明できなかった。
そして二人は別れた。
卒業後。
悠真は関西へ。
紗季は東京へ。
生活も、仕事も、付き合う人たちも変わっていった。
そうして十年が過ぎた。
◇
結婚式の二次会。
久しぶりに集まった大学時代の仲間たちは、酒も入り、すっかり学生時代の空気に戻っていた。
誰かが言った。
「全員で写真撮ろうぜ」
「誰のスマホ?」
「悠真のでいいんじゃない?」
「はいはい」
悠真がポケットからスマートフォンを出し、そのまま近くにいた紗季へ渡した。
「撮って」
「なんで私?」
「一番飲んでなさそうだから」
「何それ」
思わず笑いながらスマートフォンを受け取る。
画面を触る。
ロックがかかっていた。
「悠真、開かない」
「あ、ごめん」
ちょうど別の友人から声をかけられた悠真は、そちらを向いたまま答えた。
「0427」
紗季の指が止まった。
四月二十七日。
自分の誕生日。
聞き間違えたのかと思った。
けれど、悠真はもう友人との会話に戻っている。
紗季はゆっくりと数字を押した。
0。
4。
2。
7。
ロックが解除された。
画面に写真アプリが開く。
紗季は、しばらく動けなかった。
十年前。
付き合っていたころ。
悠真の暗証番号は、紗季の誕生日だった。
別れて。
大学を卒業して。
就職して。
十年。
スマートフォンだって何度も変えているはずだ。
なのに。
あの四桁だけが。
まだ残っていた。
◇
二次会が終わったあと。
駅までの道を、紗季と悠真は二人で歩いていた。
最初は結婚式の話をしていた。
菜々子がきれいだったとか。
久しぶりに会った友人が全然変わっていなかったとか。
けれど紗季の頭には、ずっとあの四桁が残っていた。
とうとう我慢できずに口を開く。
「ねえ」
「ん?」
「暗証番号」
悠真の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「……ああ」
やっぱり覚えている。
紗季は聞いた。
「なんで変えてないの?」
悠真は少し困ったように笑った。
「別に……」
「十年だよ」
その言葉に、悠真は黙った。
最初のころは、本当にただ変えるのが面倒だったという。
毎日使っていた数字だったから、指が覚えていた。
そのまま何年か過ぎた。
一度だけ、暗証番号を変えようと思ったことがあった。
設定画面を開いて。
別の数字を考えて。
入力しようとして。
やめた。
「そのとき気づいたんだよ」
「何に?」
悠真はしばらく前を向いたまま歩いていた。
やがて、小さく言った。
「まだ、消したくないんだなって」
紗季は何も言えなかった。
しばらくして聞く。
「十年間、ずっと好きだったの?」
悠真はすぐには答えなかった。
少し考えてから、首を振る。
「ずっとって言ったら、たぶん嘘になる」
紗季は黙って聞いていた。
「仕事しか考えてなかった時期もあったし」
悠真は続ける。
「何か月も、お前のこと思い出さなかったこともある」
一度、息を吐く。
「もう忘れたんだと思ってたこともあった」
そして紗季を見る。
「でも」
少しだけ笑った。
「消えなかった」
紗季の胸の奥が、小さく揺れる。
「結局、それだけは消えなかった」
◇
しばらく二人は無言で歩いた。
紗季は十年間、一度も口にしなかった言葉を思い出していた。
「私ね」
「ん?」
「ずっと思ってた」
悠真が紗季を見る。
「悠真にとって、私じゃなくてもよかったんだって」
悠真が眉を寄せる。
本当に意味が分からないという顔だった。
紗季は少し笑う。
その顔も、昔と変わらない。
「大学のとき」
一つずつ話した。
女友達と二人で学食に行ったこと。
駅まで一緒に帰っていたこと。
頼まれると何でも手伝っていたこと。
女友達の髪型が変わったことに気づいたこと。
飲み会で酔った女友達を送っていたこと。
悠真は何も言わずに聞いていた。
「私にしてくれること、ほかの子にも全部してたから」
紗季は笑ってしまう。
「だんだん分かんなくなったんだよね。私は何が違うんだろうって」
悠真はしばらく黙っていた。
やがて言う。
「それとこれ、同じなの?」
「え?」
「困ってるやつを助けたり、一緒に飯食ったりするのと」
少し言いにくそうに視線を逸らす。
「誰を好きになるかって、別だろ」
紗季は立ち止まりそうになった。
十年前。
ずっと聞きたかった答えだった。
たぶん悠真の中では、当時から何も変わっていなかったのだろう。
ただ。
あのころの二人には、それを相手に届く言葉にすることができなかった。
紗季は苦笑する。
「十年前に言ってよ」
悠真も苦笑した。
「……あのとき、それが聞きたかったんだって分かってたらな」
「分かんなかった?」
「分かんなかった」
即答だった。
紗季は思わず笑う。
「二十歳の男って、そんなもの?」
「二十歳の女も、相当分かりにくかったけど」
「何それ」
「『私じゃなきゃいけない理由ってある?』って聞かれて、あれがそこまでの話だと思わないだろ」
紗季は少し考える。
「……今なら言えるけどね」
「何て?」
「私だけは、特別だって分かるようにしてほしかった」
悠真は少し驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「それ、十年前の俺には難しいな」
「私も言えなかったしね」
「じゃあ、どっちも二十歳だったってことで」
「何そのまとめ方」
二人で笑った。
十年間、紗季の中に引っかかっていたものが、少しずつほどけていく。
あの日。
どちらかが悪かったわけではなかった。
ただ二人とも、自分の気持ちを相手に届く形にできなかった。
十年越しに。
二人はようやく、あの日の別れ話を終わらせた。
◇
駅の前まで来た。
十年前なら、このまま何となく別れていたのかもしれない。
悠真が突然スマートフォンを取り出した。
何かを操作している。
紗季が聞く。
「何してるの?」
「暗証番号変えてる」
胸の奥が、ほんの一瞬だけ痛んだ。
自分でも驚くほど、小さく。
「……そう」
悠真が顔を上げた。
紗季の表情を見て、少し笑う。
「十年も昔の番号使うの、もうやめようと思って」
「別に、好きにすれば」
「うん」
悠真はスマートフォンをポケットにしまった。
そして何でもないことのように言う。
「本人いるし」
紗季が顔を上げる。
「……なにそれ」
悠真は答えず、少しだけ笑った。
それから。
「紗季」
「なに?」
悠真は一瞬だけ躊躇した。
けれど今度は、言葉を飲み込まなかった。
「明日、空いてる?」
十年前とは違う。
今度は、ちゃんと言葉にする。
紗季も、今度は考えていることを隠さなかった。
「空いてるよ」
十年間変わらなかった四桁の数字は、その夜、初めて変わった。
それは。
十年前の恋を消したからではない。
もう数字の中に残しておかなくてもいいと思えたから。
止まっていた続きを。
今度は二人で始められると思えたからだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
「誰にでも優しい人」って、いいところでもあり、好きになった側にはちょっと切ないところでもありますよね。悠真は本当に何も悪くないのに、紗季はずっとモヤモヤしてた……そのすれ違いが、十年分の暗証番号に詰まってたんだなと思うと、書いてるこっちもなんだか感慨深いです(笑)。
無自覚系の優しさと、地味に拗らせのすれ違い。無事にハッピーエンドまでどうにかまとめることが出来ました。
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