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誰にでも優しい彼が、十年間変えなかった暗証番号

掲載日:2026/08/18

 披露宴会場のあるホテルのロビーには、大きな窓から午後の光が差し込んでいた。


 紗季は受付のテーブルの内側に立ち、大学時代の友人たちと一緒に招待客を迎えていた。


 今日は、大学時代のゼミ仲間だった菜々子の結婚式だ。


 次々とやってくる招待客に笑顔で頭を下げ、ご祝儀袋を受け取る。


 そのとき。


 少し離れたところから、聞き覚えのある名前が聞こえた。


「あ、悠真。こっちこっち!」


 反射的に顔を上げる。


 視線の先に、スーツ姿の男がいた。


 紺色のジャケット。


 少し崩れた前髪。


 十年前より大人びているのに、笑ったときの目元だけは変わっていない。


 胸の奥が、ほんの少しだけ音を立てた。


 菜々子から、


「悠真も来るよ」


 と聞いたときから、なんとなく身構えていた。


 十年ぶりに会えば、もっと何かが込み上げてくると思っていた。


 懐かしさとか。


 後悔とか。


 もしかしたら、まだ残っているかもしれない何かとか。


 けれど、実際に現れた悠真は驚くほど普通だった。


 そして、自分もまた驚くほど普通だった。


「久しぶり」


 自分でも意外なくらい落ち着いた声が出た。


 悠真の目が、ほんの少し見開かれる。


「……久しぶり」


 それだけだった。


 十年ぶりの再会は、本当にそれだけで終わった。


 大学卒業後、悠真は関西の会社に就職し、紗季は東京に残った。


 大学時代の仲間とは細くつながっていたし、SNSで悠真の名前を目にすることもあった。


 けれど不思議なくらい、二人が同じ集まりに顔を出すことはなかった。


 だから、直接顔を合わせるのは卒業以来だった。


 披露宴が始まっても、悠真は昔と変わらなかった。


 隣の席の女性がバッグを落とせば、誰よりも早く拾い上げる。


 友人にスマートフォンを渡されて写真を頼まれれば、嫌な顔一つせずシャッターを切る。


 グラスが空いている人を見つければ、


「何か飲みます?」


 と自然に声をかける。


 女性から話しかけられれば普通に笑い、男性から話しかけられても同じ温度で応じる。


 誰に対しても、同じ顔で、同じ距離感で接している。


 紗季はグラスを持ち上げながら、小さく息を吐いた。


 ――十年経っても、変わらないんだ。


 呆れとも懐かしさともつかない感情が、胸の中でゆっくりと溶けていく。


 そして、その姿を眺めているうちに。


 紗季は自然と、大学時代のことを思い出していた。


 ◇


 大学二年の春。


 紗季と悠真は付き合い始めた。


 悠真は、とにかく優しい人だった。


 突然の雨に降られた日、傘を持っていない紗季の隣に、悠真が黒い折りたたみ傘を差し出してきた。


「ほら、入れよ」


 半ば強引に腕を引かれて傘の中に入ると、思っていたよりずっと距離が近かった。


 雨の音が、なぜか妙に大きく聞こえた。


 重い荷物を抱えていれば、


「持つよ」


 と当然のように受け取ってくれる。


 体調を崩して講義を休んだ翌日には、きれいにまとめられたノートのコピーを渡してくれた。


 帰りが遅くなった夜には、何も言わず駅まで一緒に歩いてくれる。


 紗季は、そんなところを好きになった。


 誰かに大切にされている。


 そう思えることが嬉しかった。


 自分が特別な存在になったような気がした。


 ところが。


 付き合っていくうちに、紗季は一つのことに気づき始める。


 悠真のその優しさは、紗季だけに向けられたものではなかった。


 ◇


 最初は、本当に些細なことだった。


 講義が終わったあと、悠真が何気なく言う。


「今日、由佳と学食で食った」


 紗季は少しだけ間を置いて聞いた。


「二人で?」


「うん。同じ講義だったから」


 それだけだった。


 悪びれる様子もない。


 そもそも悠真にとって、悪びれるようなことではなかった。


 別の日には、駅から女友達と並んで大学へ向かっている悠真を見かけた。


 あとで聞けば、電車を降りたところで偶然会っただけだった。


 また別の日には、女友達から、


「昨日のレポート、ちょっと見せて」


 と頼まれて、


「いいよ」


 と何のためらいもなく答える。


 飲み会では、


「髪切った?」


 と女友達の変化に気づく。


 SNSでも男女関係なく普通にコメントを残す。


 何一つ浮気ではなかった。


 隠してもいなかった。


 紗季との約束を破ることもない。


 むしろ、何をしたのか普通に紗季へ話す。


 だから紗季も何も言えなかった。


 最初のころは、本当に笑っていた。


「悠真って、本当に誰にでも優しいよね」


 その言葉に嘘はなかった。


 それは、紗季が悠真を好きになった理由の一つでもあった。


 けれど。


 同じことが何度も重なっていくうちに、胸の中にあった小さな何かが、少しずつ形を持ち始めた。


 ◇


 サークルの飲み会だった。


 一人の女友達が、すっかり酔いつぶれていた。


 テーブルに突っ伏したまま顔を上げない。


 周りの友人たちが困ったように顔を見合わせる。


 そのうち一人が悠真に言った。


「悠真、こいつ途中まで同じ方向だよな?」


「まあ、途中までは」


「悪いけど頼める?」


 悠真は酔った友人を見てから、普通にうなずいた。


「うん。じゃあ送ってく」


 珍しいことではなかった。


 男友達が潰れたときも、悠真は同じように面倒を見た。


 帰る方向が同じなら駅まで付き添う。


 タクシーが必要なら拾う。


 それだけだ。


 だから紗季にも、悠真を責める理由なんてなかった。


 店を出たところで悠真が言う。


「じゃあ、あとで連絡する」


「うん」


 紗季は普通に手を振った。


 そして一人で電車に乗った。


 窓の外を街の灯りが流れていく。


 しばらくして、向かいの窓に自分の顔が映った。


 その顔を見ながら、ふと思った。


 ――また「うん」って言った。


 嫌なら嫌だと言えばいい。


 でも。


 酔った友達を放っておいて。


 女の子と二人でご飯を食べないで。


 女の子と一緒に帰らないで。


 女の子に優しくしないで。


 そんなことを言う自分にもなりたくなかった。


 何より、悠真は何も悪いことをしていない。


 それが分かっている。


 分かっているからこそ。


 紗季は、何も言えなかった。


 ◇


 小さな違和感は、それからもなくならなかった。


 悠真は紗季にも優しかった。


 ちゃんと会う。


 連絡もする。


 誕生日も覚えている。


 付き合っていることを隠したこともない。


 浮気を疑うようなことも、一度だってなかった。


 それなのに。


 紗季には、だんだん分からなくなっていった。


 自分が好きになった悠真の優しさ。


 傘を差し出してくれること。


 荷物を持ってくれること。


 困っていれば助けてくれること。


 話を聞いてくれること。


 そのほとんどを、悠真はほかの人にもしている。


 だったら。


 自分にだけ向けられているものは、何なのだろう。


 考えれば考えるほど、答えが見つからなくなった。


 ある日のデートの帰りだった。


 二人で駅まで歩いている途中、紗季が突然言った。


「ねえ」


「ん?」


「私じゃなきゃいけない理由ってある?」


 悠真が足を緩めた。


「何、それ」


「そのまま」


「付き合ってるんだから、あるに決まってるだろ」


 紗季は悠真を見る。


「何?」


 悠真の口が開く。


 けれど言葉は出てこなかった。


 好きだから。


 悠真の中では、それが答えだった。


 けれど二十歳そこそこの彼には、その「好き」をどう説明すれば紗季に伝わるのか分からなかった。


 数秒の沈黙。


 紗季には、それがずっと長く感じられた。


「……そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 悠真も、それ以上は何も言わなかった。


 その日から。


 二人の間に、目には見えない小さな距離ができた。


 ◇


 数週間後。


 紗季から別れを切り出した。


 浮気されたわけではない。


 嫌いになったわけでもない。


 むしろ、まだ好きだった。


 だからこそ、紗季自身もうまく理由を説明できなかった。


「悠真は何も悪くないよ」


 悠真は納得できない顔をした。


「じゃあ、なんで?」


「分かんない」


「分かんないって……」


「本当に、分かんないの」


 しばらく沈黙が続いた。


 それから紗季は、ようやく言葉を見つけた。


「付き合ってるのに」


 悠真を見る。


「ずっと片思いしてるみたいだった」


 悠真には、その意味が分からなかった。


 紗季も、それ以上うまく説明できなかった。


 そして二人は別れた。


 卒業後。


 悠真は関西へ。


 紗季は東京へ。


 生活も、仕事も、付き合う人たちも変わっていった。


 そうして十年が過ぎた。


 ◇


 結婚式の二次会。


 久しぶりに集まった大学時代の仲間たちは、酒も入り、すっかり学生時代の空気に戻っていた。


 誰かが言った。


「全員で写真撮ろうぜ」


「誰のスマホ?」


「悠真のでいいんじゃない?」


「はいはい」


 悠真がポケットからスマートフォンを出し、そのまま近くにいた紗季へ渡した。


「撮って」


「なんで私?」


「一番飲んでなさそうだから」


「何それ」


 思わず笑いながらスマートフォンを受け取る。


 画面を触る。


 ロックがかかっていた。


「悠真、開かない」


「あ、ごめん」


 ちょうど別の友人から声をかけられた悠真は、そちらを向いたまま答えた。


「0427」


 紗季の指が止まった。


 四月二十七日。


 自分の誕生日。


 聞き間違えたのかと思った。


 けれど、悠真はもう友人との会話に戻っている。


 紗季はゆっくりと数字を押した。


 0。


 4。


 2。


 7。


 ロックが解除された。


 画面に写真アプリが開く。


 紗季は、しばらく動けなかった。


 十年前。


 付き合っていたころ。


 悠真の暗証番号は、紗季の誕生日だった。


 別れて。


 大学を卒業して。


 就職して。


 十年。


 スマートフォンだって何度も変えているはずだ。


 なのに。


 あの四桁だけが。


 まだ残っていた。


 ◇


 二次会が終わったあと。


 駅までの道を、紗季と悠真は二人で歩いていた。


 最初は結婚式の話をしていた。


 菜々子がきれいだったとか。


 久しぶりに会った友人が全然変わっていなかったとか。


 けれど紗季の頭には、ずっとあの四桁が残っていた。


 とうとう我慢できずに口を開く。


「ねえ」


「ん?」


「暗証番号」


 悠真の足が、ほんの少しだけ遅くなった。


「……ああ」


 やっぱり覚えている。


 紗季は聞いた。


「なんで変えてないの?」


 悠真は少し困ったように笑った。


「別に……」


「十年だよ」


 その言葉に、悠真は黙った。


 最初のころは、本当にただ変えるのが面倒だったという。


 毎日使っていた数字だったから、指が覚えていた。


 そのまま何年か過ぎた。


 一度だけ、暗証番号を変えようと思ったことがあった。


 設定画面を開いて。


 別の数字を考えて。


 入力しようとして。


 やめた。


「そのとき気づいたんだよ」


「何に?」


 悠真はしばらく前を向いたまま歩いていた。


 やがて、小さく言った。


「まだ、消したくないんだなって」


 紗季は何も言えなかった。


 しばらくして聞く。


「十年間、ずっと好きだったの?」


 悠真はすぐには答えなかった。


 少し考えてから、首を振る。


「ずっとって言ったら、たぶん嘘になる」


 紗季は黙って聞いていた。


「仕事しか考えてなかった時期もあったし」


 悠真は続ける。


「何か月も、お前のこと思い出さなかったこともある」


 一度、息を吐く。


「もう忘れたんだと思ってたこともあった」


 そして紗季を見る。


「でも」


 少しだけ笑った。


「消えなかった」


 紗季の胸の奥が、小さく揺れる。


「結局、それだけは消えなかった」


 ◇


 しばらく二人は無言で歩いた。


 紗季は十年間、一度も口にしなかった言葉を思い出していた。


「私ね」


「ん?」


「ずっと思ってた」


 悠真が紗季を見る。


「悠真にとって、私じゃなくてもよかったんだって」


 悠真が眉を寄せる。


 本当に意味が分からないという顔だった。


 紗季は少し笑う。


 その顔も、昔と変わらない。


「大学のとき」


 一つずつ話した。


 女友達と二人で学食に行ったこと。


 駅まで一緒に帰っていたこと。


 頼まれると何でも手伝っていたこと。


 女友達の髪型が変わったことに気づいたこと。


 飲み会で酔った女友達を送っていたこと。


 悠真は何も言わずに聞いていた。


「私にしてくれること、ほかの子にも全部してたから」


 紗季は笑ってしまう。


「だんだん分かんなくなったんだよね。私は何が違うんだろうって」


 悠真はしばらく黙っていた。


 やがて言う。


「それとこれ、同じなの?」


「え?」


「困ってるやつを助けたり、一緒に飯食ったりするのと」


 少し言いにくそうに視線を逸らす。


「誰を好きになるかって、別だろ」


 紗季は立ち止まりそうになった。


 十年前。


 ずっと聞きたかった答えだった。


 たぶん悠真の中では、当時から何も変わっていなかったのだろう。


 ただ。


 あのころの二人には、それを相手に届く言葉にすることができなかった。


 紗季は苦笑する。


「十年前に言ってよ」


 悠真も苦笑した。


「……あのとき、それが聞きたかったんだって分かってたらな」


「分かんなかった?」


「分かんなかった」


 即答だった。


 紗季は思わず笑う。


「二十歳の男って、そんなもの?」


「二十歳の女も、相当分かりにくかったけど」


「何それ」


「『私じゃなきゃいけない理由ってある?』って聞かれて、あれがそこまでの話だと思わないだろ」


 紗季は少し考える。


「……今なら言えるけどね」


「何て?」


「私だけは、特別だって分かるようにしてほしかった」


 悠真は少し驚いた顔をした。


 それから、小さく笑った。


「それ、十年前の俺には難しいな」


「私も言えなかったしね」


「じゃあ、どっちも二十歳だったってことで」


「何そのまとめ方」


 二人で笑った。


 十年間、紗季の中に引っかかっていたものが、少しずつほどけていく。


 あの日。


 どちらかが悪かったわけではなかった。


 ただ二人とも、自分の気持ちを相手に届く形にできなかった。


 十年越しに。


 二人はようやく、あの日の別れ話を終わらせた。


 ◇


 駅の前まで来た。


 十年前なら、このまま何となく別れていたのかもしれない。


 悠真が突然スマートフォンを取り出した。


 何かを操作している。


 紗季が聞く。


「何してるの?」


「暗証番号変えてる」


 胸の奥が、ほんの一瞬だけ痛んだ。


 自分でも驚くほど、小さく。


「……そう」


 悠真が顔を上げた。


 紗季の表情を見て、少し笑う。


「十年も昔の番号使うの、もうやめようと思って」


「別に、好きにすれば」


「うん」


 悠真はスマートフォンをポケットにしまった。


 そして何でもないことのように言う。


「本人いるし」


 紗季が顔を上げる。


「……なにそれ」


 悠真は答えず、少しだけ笑った。


 それから。


「紗季」


「なに?」


 悠真は一瞬だけ躊躇した。


 けれど今度は、言葉を飲み込まなかった。


「明日、空いてる?」


 十年前とは違う。


 今度は、ちゃんと言葉にする。


 紗季も、今度は考えていることを隠さなかった。


「空いてるよ」


 十年間変わらなかった四桁の数字は、その夜、初めて変わった。


 それは。


 十年前の恋を消したからではない。


 もう数字の中に残しておかなくてもいいと思えたから。


 止まっていた続きを。


 今度は二人で始められると思えたからだった。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

「誰にでも優しい人」って、いいところでもあり、好きになった側にはちょっと切ないところでもありますよね。悠真は本当に何も悪くないのに、紗季はずっとモヤモヤしてた……そのすれ違いが、十年分の暗証番号に詰まってたんだなと思うと、書いてるこっちもなんだか感慨深いです(笑)。

無自覚系の優しさと、地味に拗らせのすれ違い。無事にハッピーエンドまでどうにかまとめることが出来ました。

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